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真実

作者: 鶴巻 繁

真  実



 美咲が訪ねたA法律事務所は駅近くのビルの四階にあった。

「六時半に富樫先生と約束をした者ですが」

 美咲が告げると、応待に出た女性はカウンターに面していくつか並んでいる部屋の一つに案内してくれた。部屋は一坪ほどの広さで、小さな長方形のテーブルに四脚の椅子があるだけだった。美咲は、その椅子の一つに腰を下ろした。

 冷房のきいた部屋は心地よかった。目の前の窓から、今し方逃がれてきた夏の熱気が充満している茜色の空が見えた。美咲は、安堵感に心身の緊張が緩むのを覚えた。

 ふと、隣の部屋に人の入る気配がして、話し声が聞こえた。部屋の壁は、天井までは達していない構造になっていて、隣の部屋の話し声は美咲の意思にかかわりなく、よく聞こえた。

「打つべき手は打ったので、あとは結果待ちということになります。『果報は寝て待て』ではありませんが、あなたには正当な相続権があるわけですから、安心して待っていて大丈夫だと思います」

「そうですか。ありがとうございます」

 いずれも中年らしい男性の声だった。

「これで相手が和解というなら和解でもいいし、判決をもらうならそれもいいでしょう。どっちにしても大丈夫です」

「ありがとうございます。先生のお勧めどおり果報を寝て待つことにして、今日はこれで失礼します」

 そう言って一方の男性は笑った。心にのしかかっていたものが吹き払われたような、明るい笑い声だった。

 美咲は、冷房の心地よさに微睡みそうになりながら、富樫弁護士を待った。窓外の暮色は濃くなり、遠くに野球場の照明灯の光が見えた。

 美咲が微睡みの淵をたゆたっていたとき、

「お待たせしました」という声とともに、中年の男性が現れた。その声は、さっき隣室で話をしていた男性の声のようだった。時計は約束の時間を三十分ほど回っていた。

 男性は美咲と対面して座ると、

「富樫です」と名刺を差し出した。


「電話で一応事情は伺いましたが、もう一度詳しく経緯を教えてくださいますか」

 富樫弁護士は、四十歳を過ぎたくらいだろうか、面長で灰色の髪は短く、痩せた体に濃いグレーのスーツを着ている。疲れているのか、顔色がくすんでいるのが美咲には気になった。

 富樫弁護士の目が、美咲を促した。

「電話でもお話ししましたように、会社でセクハラを受けていまして……」

 美咲は十年ほど前、短大を卒業して銀行に勤めたが、数年勤めた後結婚のため退職し、二年後に離婚した。その後見つけたのが、現在勤めている会社の事務員の仕事だった。調理器具の卸売会社で、従業員二十人ほどの小さな会社だった。銀行に勤めていたというと、すぐに採用してくれた。

 入社当初は平穏無事な日々が続いた。事務系の社員は、決算で忙しい年度末を除けば残業も少なく、日々、黙々と仕事をこなしていた。小企業にしては、週末土日や祝日は休めて、毎月二十五日には遅滞なく給料が支払われる。周りの社員たちの間に不満の声が少ないのは、そういう待遇に概ね満足してのことだっただろう。

 三か月ほど前のことだった。朝、美咲がいつものようにパソコンを立ち上げ、作成中のワープロソフトのファイルを開くと、ディスプレーに、「君が欲しい」という一行があった。その文字は通常より大きくなっていた。

 美咲は驚いて室内を見回したが、総務課長も他の二人の女性事務員も、机に向かってそれぞれの仕事をしている。美咲はいたずらの主をあれこれ推測しながら、その一行を削除した。

 翌朝また、同じファイルの冒頭に、「君が欲しい」という一行があった。美咲は、今度は不快感を覚えながら、その一行を削除した。不快感に、かすかな不安が混じっていた。社員が二十人ほどの小さな会社で、なおかつ美咲が席を置いている総務課は、男性の課長と、美咲を含めて三人の女性の事務員しかいない。誰が、どのような意図でこんないたずらをしたのか。

 それを書き込んだらしい人物は間もなくわかった。その日、初夏の午後、襲ってくる眠気と闘いながらパソコンに向かっていた美咲は、自分の右頬に人の視線を感じた。その視線は美咲を落ちつかない気分にさせた。顔を上げて視線の主を見ると、それは社長の篠田だった。美咲は目礼して視線をパソコンのディスプレーに戻した。目が合ったとき、篠田は微笑を浮かべていた。普段はほとんど笑うことのない男だった。大柄で、頭が禿げ上がり、目鼻立ちがすべて大きい篠田の微笑した顔は、醜く歪んで見えた。美咲は、反射的に両腕を組んで事務服の胸を隠す仕草をした。

 その日の夕方、美咲は社長室に呼ばれた。篠田は一代で調理器具の卸売会社を興した男で、今年五十歳になるという。

「座りなさい」と、篠田は美咲に部屋の中央にあるソファを勧めた。

「私はこの四月から、一人一人、社員の話を聞いているんだ。今後の会社の発展のためにも、一生懸命働いてくれる職員の意見や希望を聞いておくことは大事なことだからね。それで、今回は君の話を聞きたいと思うんだ。まあ、ここで聞いてもいいんだが、日頃仕事に励んでくれている社員への慰労ということもある。ご飯でも食べながらと思うんだが、どうだね」

 美咲は、そのような社長と社員一人一人の面談が行われているという話を聞いたことがなかった。しかし、これは社員にとって否応のない話だった。美咲は社長の言葉に従った。

 その日の終業後、美咲は社長が運転する車で港の中華街に向かった。

 酒だけは飲むまいと思ったが、篠田はしつこく美咲にグラスを空けるように勧めた。美咲はとうとう負けて、グラスを干した。濃い蒸溜酒の味がした。辛味のきいた中華料理の二品ほどは、その酒の味を紛らした。

 もっぱら篠田が話をした。自分の生い立ちや会社の創業期にまつわる苦労話がほとんどだった。

 レストランを出るとき、美咲の脚は少しもつれていた。篠田は、それを支える素振りで、美咲の肩に手を置き、体を寄せてきた。

「どうだい、決して悪いようにはしないから、つき合ってくれないか」

 人通りの多い中華街の賑わいの中で、篠田は美咲の耳元でそう言った。

「すみません。私、つき合っている人がいますので」

 篠田の顔は見ずに、美咲はことわった。

 帰途、美咲は篠田の車には乗らずに、一人電車でアパートに帰った。その夜は篠田の手から何とか逃れることができた。しかし、篠田はその後も、美咲を社長室に呼びつけてはつまらない話をして美咲を抱き寄せたり、体に触ったりした。この会社にいる限り、社長として君臨している篠田の手を逃れることはできない。

 美咲は、思い余って高校時代からの友人に相談した。

「それはひどいわね。でも、それで辞めるんじゃ踏んだり蹴ったりだから、弁護士とか誰かに相談してみたら、何かいい知恵があるかもしれない。最近、セクハラ訴訟ってよく聞くじゃない。泣き寝入りしないで」と言った。久々に会って、レストランで食事をしながらの話だった。

「そうするしかないかな。誰かいい弁護士さん知ってる?」

「特に知らないけど、A法律事務所なんかいいんじゃない。有名だし。一度電話してみたら」 

 美咲が被害の経過を話し終えると、

「およその事はわかりました。相手の違法性を追及するには、いつどこでどのようにという事実関係を明らかにしなくてはいけないのですが、そういう記録はとってありますか」と富樫弁護士が尋ねた。

「特に記録はしていませんが、覚えているので、アパートに帰ってから整理して、ファックスでお送りします」

「そうしてください。何年何月何日何時頃に、どんなことをされたかということをはっきり、できるだけ詳しく書いてくださいね。それから、職場に、あなたが受けた被害について証言してくれるような人はいますか。あなたの味方になってくれるような人は」

 富樫弁護士のこの言葉に、美咲は何人かの同僚の顔を思い浮かべた。同僚たちは、社長が美咲にそういう行為をしていることに気づいている様子だった。それは同僚の事務員が美咲に向かって、

「社長、イヤーね」と言って眉をひそめたり、

「玉の輿ね」

などと言って、意味あり気に笑ったりすることにも窺われた。

 しかし、はたしてこのような件について、美咲の側について証言してくれる人はいるだろうか。誰にも頼めない話だと美咲は思った。勤めてまだ日の浅い美咲と社長の篠田との社内での力の差は歴然としている。職を賭して自分についてくれる者などいるはずはない。ただ一人、可能性があるとすれば、最近つき合い始めた営業課の林だった。

「友達はいますけれど」

 美咲は、営業成績の上がらない、林の痩せて色白の顔を思いながら言った。

「その方にもぜひお願いしておいてください。それでは、一応、内容証明郵便を送って社長と話し合いをもつことにしましょう」

 富樫弁護士は、面長の顔に笑みをたたえて言った。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 美咲は自分の声が弾むのを感じた。これで救われるだろうと思う。

「費用のほうは、いくらくらいかかるでしょうか?」

 美咲は気になっていることを弁護士に尋ねた。

「はい、これが今日の相談料と受認に際しての手付金になります。この口座に振込んでくださいますか」

 富樫弁護士の口座番号の下に書いてある金額は、美咲の毎月の給料の三分の二近い額だった。

 美咲は代理人の委任状に必要事項を書き込み、判を押して富樫弁護士に手渡すと、戸外に出た。夏の夜、通りは人々で賑わっている。法律事務所を訪れるまで自分を支配していた緊張感から解き放たれ、美咲は軽い足どりで駅に向かった。

 美咲は離婚してからずっと、アパートで独り暮らしをしている。アパートに帰り着くと、記憶をたどりながら社長の篠田が自分にしたセクハラ行為の一つ一つをワープロに打ち込んで、翌朝出勤前にプリントした記録を自分の部屋からファックスでA法律事務所に送った。そして、昼休み時間に会社の近くの銀行で預金を下ろして指定された口座に金を振り込んだ。毎月の給料の三分の二に当たる金額は、現在の美咲にとって辛い出費だったが、現在の苦しみから抜け出すためにはやむを得ない出費だと自分に言い聞かせた。

 その日の夕方も、美咲は社長室に呼ばれて篠田に夕食を誘われた。美咲は、体調が悪いと言ってそれを断わった。

 それから四日後、富樫弁護士から電話があった。

「一応、社長と話し合いの日程を決めたのですが、あなたに同席していただくのは避けたほうがいいと思います。事後に事務所のほうに来ていただけますか」と富樫弁護士は美咲に気づかいを示した。

 話し合いは社長室で、篠田と富樫弁護士との間で行われるという。美咲はその日の夕方、富樫弁護士の指示どおりA法律事務所を訪ねた。

「これはある程度予想されたことですが、社長はあなたに対するセクハラ行為を認めませんでした」

 弁護士は淡々と言った。美咲は驚いた。篠田は、社長室に呼びつけた自分を強引に抱き締めたではないか。抱き締めて、美咲の体を撫で回した。美咲はそれに抗うことができなかった。

「やめてください、やめてください」と、小さな声で哀願するしかなかった。そのとき、ドアが開いて同僚が入ってくることを美咲は恐れた。美咲は、一瞬篠田の腕の力が抜けたとき、一気にドアに向かって走った。あのときの篠田の息づかい、自分の体を撫で回す手の感触まで、美咲ははっきり覚えている。しかも、そういうことが何度もくり返されたのだ。それを篠田は全く認めないという。

「自分の会社のものは、紙一枚まで自分のものだと思っていて、ハレムの王様のように振舞う経営者がたまにいるんです。ああいう経営者は、社員まで自分の所有物だと思っている。このまま話し合いを続けても事実関係を認めさせるのは難しいでしょうから、裁判に訴えるしか方法はないかもしれませんね」

 弁護士は言った。

「よろしくお願いします」

 美咲は富樫弁護士に深々と頭を下げた。篠田への激しい怒りが美咲に裁判を決意させた。

 篠田と富樫弁護士との話し合いが不調に終わった後、美咲のさらなる苦しみが始まった。まず、同僚の親しくしていた二、三人の女性職員は、美咲に朝の挨拶さえしなくなった。仕事上必要なこと以外、一切話さなくなった。そして、つき合い始めたばかりの営業課の林も、電話をしてきて、

「何てバカなことをしてくれたんだ。相手は社長だよ。それを怒らせたら、どんなことになると思ってるんだ!」と荒々しく言って一方的に電話を切ってしまい、その後美咲に会おうとしなくなった。

 ある朝、出勤した美咲は、自分の机の上に信じ難いものを発見した。美咲は最初、それは、いくつかのメーカーから送られてくる新製品のサンプルだろうと思った。しかし、それにはメーカー名や仕様を記した伝票が付いていなかった。

 美咲の机の上にあったものはナイフだった。真新しい、調理用の、細身の刃渡りの長いナイフだ。それが剥き出しで机の上に横たえてあった。

 自分はそんなものを使った覚えはない。誰かがそこに置いたのだ。ナイフは、美咲の心を切り裂いた。

 美咲は、照明の光に青白く光るナイフの鋭い先端が、自分の胸に突き刺さるような恐怖を覚えた。すっと体が冷たくなった後、体中に汗が吹き出した。同時に胃の辺りがキリキリと痛み、突き上げてくる嘔吐感に、美咲はトイレに駆け込んだ。

 嘔吐した物を流した後も、悪寒がおさまらず、美咲はしばらくトイレを出ることができなかった。

 やっとのことで事務室に戻って周囲を見回すと、二人の女性事務員も総務課長も、何も知らない様子で仕事をしている。知らないはずはない。狭い事務室で、課長の席から美咲の机の上はよく見えるし、ほかの二人の事務員の机は、いずれも美咲の机と隙間なく隣り合っている。そのナイフについて誰にも尋ねることができぬまま、美咲はそれをビニール袋に入れて、そっと通勤用のバッグにしまった。

 美咲は、切り裂かれた心をようやくのことで繕い、仕事にとりかかるべくパソコンを立ち上げた。

 ディスプレーに映し出された、汚い罵りと侮辱の言葉が美咲の目を射た。再び嘔吐感が突き上げてきそうな、卑猥な言葉も交じっていた。しかも、画面の色は、いつも美咲が使っている、薄いグレイの背景色に黒い文字ではなく、黒い背景色に赤い文字になっている。そして最後の行に、わざわざ四倍ほどの大きさにした赤い文字で、「死ね」と書き込まれてあった。

 美咲は、震える手でその画面をUSBメモリーにセーブしてから削除した。

 それまで美咲の様子を見ていたはずの総務課長も、二人の同僚事務員も、先ほどと同じように何の反応も示さなかった。ただ無言で美咲の隣で仕事をしている。この人たちは、一体何者なのだろう。つい最近まで同僚として何のトラブルもなくともに仕事をし、自分の身の上や家庭のことを話し合ってきた人たちであり、和やかに談笑しながら食事をしたり、一緒に酒を飲んだこともある人たちだった。美咲は、課長も二人の女性事務員も、善良で平凡な会社員としての顔しかもっていない人たちだと信じて疑わなかった。それがいま、妖怪のように、不気味に沈黙している。沈黙しながら、美咲を激しく攻撃しているのだ。

 職場全体の空気が美咲を圧し、美咲は息苦しさを感じた。運動もしていないのに動悸がして息が荒くなった。

 その日、美咲は早退した。何度も電話をして、夕方になってようやく連絡がとれた。美咲は口早に富樫弁護士に会社での出来事を訴えた。富樫弁護士は、

「それはひどい。とりあえず抗議の電話をしておきますが、やはり裁判に訴えるしかないな」と言った。

 美咲はシャワーを浴びて夕食の仕度を始めた。

 電話が鳴った。美咲が受話器を取って耳に当てたとき、ツー、ツー、ツーという電話の切れた音が聞こえた。受話器を置いて、食事の支度を始めようとすると、また鳴る。受話器を取ると、またツー、ツー、ツーという音。

 そんなことをするのは、篠田だろうか。それとも、沈黙をもって美咲を攻撃している会社の同僚たち、あるいは総務課長か。美咲は、心中に際限なくこだましていく疑念に捉われて、食卓に向かったまま呆然と時を過ごした。食事を作る意欲も、食欲も萎えていた。

 美咲は職場で篠田以下の職員たちが自分を取り沙汰している様子を思った。笑いながら「あいつは被害妄想だ。社長に恨みをもって、変な弁護士を使って会社を潰そうとしている。離婚して頭がおかしくなってるんだ」

 さまざまな想像が積乱雲のように美咲の心に充満して、美咲を苦しめた。

 私は被害妄想なんかじゃない。そう思いそう口に出して言いながら、美咲には、それを訴える相手、苦しみを理解してくれる人がいない。

 しかし、今こうして何度も電話が鳴っている。これは一体誰の仕業なのか。こんなことは、この件がもち上がるまでなかったことだ。これが、篠田や職員の誰かによる自分に対する悪意に満ちた攻撃でなくて何だろう。

 美咲は、部屋の中で周りの壁が崩れてのしかかってくるような強い圧迫感を感じて、体が軋むような気がした。会社であったように、突き上げるような嘔吐感に襲われてトイレに走った。しかし、胃液以外、もう吐き出す物はなかった。

 美咲は部屋にいることに耐えられなくなって戸外に出た。ねっとりとした夏の夜気は、唐突に背後から自分を抱き締めてくる篠田の感触と体臭を感じさせ、美咲は身震いした。

 翌日、美咲は電話で体調が悪いことを理由に休暇をとりたい旨を伝えた。応待した同僚の事務員は、

「わかりました」と言っただけで、向こうから電話を切ってしまった。その日を境に、美咲は会社に出勤できなくなった。

 美咲は、何度か電話をしてようやく連絡のとれた富樫弁護士に無言電話のことを話した。きっと、それは重要な証拠になるから、何とか証拠をとれるように、電話器を記録のとれるものに換えるなりするよう指示があるものと思った。しかし富樫弁護士は、

「そうですか」と受け流しただけだった。何があったのか、そのときの富樫弁護士は美咲の話どころではなく、何か気掛りなことがあるらしくとても忙しそうだった。

 仕方なく美咲は警察に電話をした。

「そういうの、最近多いんですよ。それで、注意するにしても、証拠がなくちゃできないことなんですが、それ、ありますか?」と、対応した係官は美咲に尋ねた。

「とりあえず電話会社に相談してください。そういう電話をブロックする方法、たとえば電話番号を変えるとか、記録がとれる電話器に換えるとか、いろいろあるようですから、それでやってみてください。そういう対策をとって、その上で相手に警告して、それでも続けるようだったらまた連絡してください」

 警官とのやり取りはそれで終わった。しかし、相手が職場の篠田以下の複数の職員だとすると、電話番号を変えることは全く意味がなかった。職場に自宅の電話番号を知らせないわけにはいかない。美咲はやむなく、家庭用電話のコネクターを抜き、携帯電話だけを使うことにした。 

 富樫弁護士は裁判所に訴状を出した。その二日後に、美咲宛に訴状の写しが郵送されてきた。内容は、損害賠償と陳謝を要求するものだった。美咲には、そのワープロで書かれた文字の連なりが、どれほどの力をもつものか、本当に篠田を屈伏させうるものか、わからなかった。自分が受けた苦しみが金額に置き換えられることも悔しかった。もし仮にそれを払ったとして、篠田はどれほどの痛みを感じるだろうかと思った。

 被告である篠田が提出した答弁書の写しが届いたのは、それから一週間ほどしてからだった。さらに総務課長と二人の事務員の陳述書も出されていた。そこに書いてあることは、美咲の主張を真っ向から否定し、これは離婚歴等のある、極めて協調性に欠ける原告の捏造であり、種々の過去の行状から神経症的傾向のある原告の虚言であり、被害妄想にもとづく訴えだとあった。その中の、「数々の過去の行状」については、二人の事務員の陳述書に、美咲は自分の経歴についてほとんど嘘を言っているとか、美咲が入社以来、事務用品が頻繁に紛失しているとか、美咲は離婚歴がある淫乱症ともいうべき女で、若い男性職員にセクハラをしかけたとか、美咲には読むに耐えないことが書き連ねてあった。

 それらの文書を読むうちに、美咲は、食事がとれず日ごとに体重が減っている自分の体が際限なく闇の深みに墜ちていくような感覚に襲われた。

 それでも美咲は富樫弁護士の指示に従って、虚偽と悪意に満ちた篠田の答弁書と総務課員三人の陳述書に対する反論を、夜明け近くまでかかって書き綴った。美咲の陳述書に記されたことこそが真実だった。そして、裁判に向けての打ち合わせの日、美咲は、書き上げた陳述書と、あのナイフと、悪意に満ちた書き込みを収めたUSBメモリーを持ってA法律事務所を訪ねた。

 美咲は、また狭い部屋で待たされた。

「いいですか、犯罪は、それを犯した人だけが悪いんじゃないんです。私たちが暮らしているこの社会にも責任があるんです。私たちは、そういうことも踏まえて、法の定めに従って犯罪者の弁護人を務めるわけです。被疑者、被告人の犯した罪が窃盗であれ、暴行であれ、殺人であれ、そういう犯罪そのものをよしとして、正当だとして弁護をするわけではないのです。どうか誤解のないようにお願いします」

 隣の部屋から聞こえてきたのは、富樫弁護士の声だった。

「そうじゃなくてね、先生。あなたは私の息子が、あの男に暴行を受けて大怪我を負って、顔に傷跡が残り、左脚を骨折して、下手をすれば障害が残るかもしれないことはご存じでしょう。それをあのNがやったことは明々白々なんですよ」

 初めて聞く男の声は厳しく尖っていた。

「いや、被告人のNがやったかどうかということは、法廷で白黒がつけられる話で、いまここであなたにそう言われても、被告が、やっていないと主張している以上、被告の弁護人である私には何とも申し上げられません」

「あのときあの場所にいたのは、うちの息子とNだけなんですよ。それも、息子はNに呼び出されたんだ。Nは、高校時代から手のつけられない不良だった。うちの息子は何度も金を脅し取られているんだ。今回もNは金を貸せと言って、断わるといきなり息子に足を掛けて転がして、さんざん蹴ったり殴ったりした。生きていたのが不思議なくらいなんですよ、先生」

「被告は暴行の事実を認めていません」

「だから、あなたから認めるように説得してください。息子の話は事実なんですよ」

「それはできません」

「あなた弁護士でしょう。正義を尊ぶ立場の人じゃないですか。それがなぜ、嘘を言っていることが見え見えの犯人について、その主張に沿った弁護をするんですか。あまりにも無責任だ。このことで、息子や私たち家族がどれほど苦しんだかご存じですか。それじゃ、社会正義も何もないじゃないですか」

 男の声は怒りに震えていた。

「とにかく、それはできません。裁判は始まって、こちらの主張は、検察の主張は事実無根で、N被告は無罪だということなのです。それをこちら側から覆せるわけがないでしょう」

 富樫弁護士の声は苛立っていた。

「先生、これはあなただけのことではないようですが、弁護士さんは逮捕拘留されている被疑者に会うと、必ず『あなたは自分にとって不利な証言をする必要はないんですよ』とか、『取調べ官や検事に何か聞かれても、答えたくないことは答えなくていいんですよ』と言うそうですね」

「当然です。それは法に定められている被疑者の正当な権利です」

「でも、それじゃ、真実は明らかにならないじゃないですか。真実より犯罪者のほうが大事だというんですか」

「私の仕事は真実を追求することではなくて、被疑者の人権を守ることです。検察の主張と被告の主張を聞いて、何が真実であるかを判断するのは裁判官の仕事です」

 この富樫弁護士の言葉の後、人が動く気配がして、隣の部屋は静かになった。

 三十分後、富樫弁護士は黒っぽいスーツ姿で現れた。相変わらず疲れた様子で、顔色はくすんでいる。美咲は、自筆の陳述書とナイフとUSBメモリーを入れた袋を富樫弁護士の前に差し出した。

「これで何とか私を助けてください。先生、お願いします」

 そう言った後、美咲は涙が頬を伝い流れるのを感じた。

 美咲の陳述書を何頁か流し読んだ後、富樫弁護士は口を開いた。

「被告側は事実関係を否認している上に、証人がたくさんいて、現にあなたの同僚の事務員さんたちも総務課長も、早々と社長側の主張に沿った内容の陳述書を裁判所に出しています。お読みになったでしょう。あなたの側に立った証言をしてくれる人が一人でもいてくれれば随分有利に運べるのですが。現状でこの証拠を出しても、裁判官の心証はどうなるか、難しいところです。相手が悪いと、反訴といって、こちらが起こした裁判で、逆に名誉毀損で訴えられることもあるんです」

 この富樫弁護士の言葉に、美咲は言葉を失った。

「何とか和解に向けて努力しましょう。こちらの希望どおりというわけにはいかないかもしれませんが」

 富樫弁護士の和解という言葉を聞いて、あの篠田との間に、一体どんな和解が成立し得るのだろうと美咲は思った。

「それで、復職のことはどうしますか?」

 富樫弁護士は無表情に尋ねた。

「それは難しいと思います」

 美咲はやっとのことでそう答えた。かすれた、小さな声しか出なかった。

「そうですか。やはり難しいかもしれませんね。一応これは預からせてください。今日はこれで」

 富樫弁護士は忙しそうに、美咲の陳述書と証拠品の入った袋を持って席を立った。

 美咲は屋外に出て、夜の歩道に立った。強い風が吹いていた。その風に、一枚の紙切れが音を立てて路上を飛ばされていく。美咲の耳元に、吹き抜けて行く風の悲鳴が聞こえた。

           了 


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