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青銅の雲

作者: 一の瀬光

 水がうずまいている。

 川の途中にある幾段もの小さな滝をすべり落ち加速する水の流れは目で追うことができぬほど速い。

 昔ここにたいそう偉い坊さまが来たものの自力では渡れないため神蛇におすがりして、その神通力でようやく渡してもらえたという言い伝えの残る激流だ。力自慢の者でもここに落ちたらまず助からないだろう。ましてやこの青白くきゃしゃな体つきの彫り物師が足をすべらせでもしたら、それこそあっという間に一握りの泡ぶくになってしまうにちがいない。いや、泡にすらならないまま二度とこの世に浮かびあがってこないかも知れぬ。

(ありがたいじゃないか。そうなればもうこんなに苦しまずにすむのだ)

 この彫り物師はそう思った。

 若い。みればその男は二十歳を少しこえたばかりのようす。近在の村の者で名を甚佐といった。先ほどからずっとこの激しい水の流れをじっとのぞきこんでいる。遠い京の都の室町幕府はとうになくなり戦国の世となって久しいが、その流れは戦国の嵐が吹き荒れるこの世の様子を映す鏡でもあるかのように荒々しく光り輝いていた。

 この崖のへりに若者がへばりつくようにして流れをながめだしてからだいぶ時が経つが、若い彫り物師はまだあれやこれやと思案していた。

(うわあ、やっぱりあそこの岩がいやだな。あんなに鋭く突き出ていやがる。あれじゃ水に入る前に頭をふつけちまうよ。やっぱり他の場所がいいかなあ、でもここが一番流れが速いしなあ。それにほんとうに今がいいのかな? まだまだ人通りのある時間じゃないか、邪魔されたらどうする。天気もこんなにいいし。天気だって? 天気が何の関係があるっていうんだ! それっ、とびこんじまえばいいんじゃないか! 早くしろ! そう決めたんだろう、ほら早く! しかし……それにしても、なぜ、今、ここで? 他にもっとぴったりの所があるんじゃないのか?……)

 轟音一閃。

 天地が銀色に染まった。

 バリバリバーン! 

 若者は腰を抜かした。雷がこれほど近くに落ちたのは初めてだった。おまけに急に夏とも思えぬ冷気が吹き渡り、若者は思わず着物の前を両手で抱きしめるように閉じ合わせた。

 大粒の雨だ。天気の不意打ちをくらい、彫り物師は反射的に雨をしのぐ場所をさがした。つい今の今まで死のうと考えていたはずの人間がさっさと足早にその場を離れ、雨をしのぐ場所がないなら早いとこ家へ帰ろうとまで考えていた。

 このように生き死にの神聖な境を軽薄に飛び越える愚か者を罰するかのように、天は大量の大雨粒と強風を激しくたたきつけてきた。今や道はすっかり消され、またたく間に泥の小川に変わった。

 昼とは思えない暗さ。横殴りの雨風で息をすることさえむずかしい。川の水で溺れ死ぬのも雨で息ができなくて死ぬのも同じことであろうに、この彫り物師はすっかり動転していた。彫り物師の若い頭の中から死ぬことなどすっぽり抜け落ちて、今はただなんとか雨宿りの場所を見つけようと懸命になっていた。

 そこに大きな岩棚が見えた。庄屋の屋敷ほどもあろうかというその大きな岩棚の下には洞窟のような穴まであいていて、えらく乾いているように思えた。突風に押されるようにして若い彫り物師はその穴へ走り、勢いのままそこへ飛び込んだ。

「え? わわあーっ!」

 いきなり真っ逆さまに落下していた。飛び込んだそこには地面がなかったのだ。

 宙に投げ出された彫り物師の目には次から次へといろいろな色が飛び込んできた。緑かと思えば黄色、赤かと思えば紫へと、それはまるで虹の中に迷い込んだようだった。だが彫り物師にそれを楽しむ余裕などあろうはずもなく、どんどん下へ下へと落ちていくなかで手足をバタバタさせていた。そしてついに気を失ってしまった。

 それからどのくらい時が経ったのかはわからない。おや? と思って若い彫り物師が目をあけると、そこには金や銀の美しく軽やかな帯のようなものが空中を舞っている。何か聞こえるので耳を澄ましてみると、いともあでやかな楽曲がひそやかに流れてくる。どこからともなく上品な香のかおりさえも漂ってくる。そうか、ここは天国か。おれは死んだんだな、と彫り物師は考えた。

「いやいや、そんなはずはない。自死をたくらんだものがおいそれと極楽入りを許されようはずがない。だったらここはどこだ?」

 そんな独り言をつぶやいていると、風が起こった。音がやんだ。綺麗な帯もどこかへ消えた。ただ香りだけが残っている。

 ずん、と重い音が響いてきた。するとまた風が吹き抜けたが、それは先ほどよりも強いように思われた。

 再び怪音が響く。ゴゴー、ガラガラガラ。なにか大きな荷車が砂利道を駆け抜けるときのような、そんな音に感じられた。その音はさらに大きくなり、吹き抜ける風もだんだん強くなる。あの心地よい香りもいつしか消えていて、あたりは生臭いにおいでいっぱいになっていた。こんな所が天国であろうはずがなかった。

「なんだ、おれはまだ生きているんだな。そうか穴に落っこちたんだっけ」

 よっこらしょと自分で声をかけながら立ち上がって、若い彫り物師はようやく気づいた。目の前に何かいるのだ。それも大きくて大きくて、すぐには気がつかなかったほどの大きなモノが。

 彫り物師は顔を上げた。

 そこには龍がいた。

 とっさに彫り物師は逃げ道をさがしたが、右にも左にも見当たらない。つい上の方を見たが、天井が高くて自分の落ちてきた穴すら見つからない。どうやら大きな洞窟の中にいるらしいが出口がわからないのだ。

 彫り物師は再び龍を見た。龍は寝ているらしい。先ほどからの生臭い風は龍の鼻先にある二つの巨大な鼻孔から出ている寝息だった。鼻先といっても彫り物師にしてみればちょっとした小山だ。

(よく眠っていそうだ。寝ている間なら危ないこともあるまい)

 相当に無理してこんな独り言をあえて言うことで彫り物師は恐怖心をなんとかねじ伏せようとした。それでも手足がガクガク震えてとまらない。逃げようにも一歩も動けそうになかった。

 しかしその時、彫り物師の目に龍の肌の反射光が飛び込んできた。そう明るくもない洞窟内なのにその輝きは彫り物師の目を、そして心を貫いた。

「こ、これは何としたことか!」

 気づいてみれば、それはあまりにも見事な龍の体の造形美であった。あまりの素晴らしさに彫り物師は立ち上がり、今度は恐怖心でなく好奇心でその場に釘づけになった。

 龍は裸ではなくいくさ人のように甲冑を見にまとっていた。肩当て、胴、すね当てに至るまでその全てが色鮮やかで美しく力強く輝いている。龍の頭のすぐ脇にころがっている兜などは、あたかもみやこにしかないという黄金造りの多重塔のごとき威容を放っている。

 だが真に驚嘆すべきは龍の体そのものだった。全身は鱗におおわれているが、その一枚一枚が銀とも緑とも青とも知れぬ豪勢な色で濡れて輝き、まるでどれもが見事な宝石のようだ。

 磨き抜かれた象牙のように光る爪、上うるしを固めて練りあげられたように優雅な曲線ではねあがった長い長い髭、大伽藍の青瓦のごとき調和と重厚さを兼ね備えた眉毛など、それらすべてが呼吸のたびに微妙な色彩の変化を伴って妖しくうごめくのだ。

 彫り物師はつい考えてしまった。今とじられているあの両目はいったいどのような色と形を持っているのだろうか、と。あの両の目さえ開いたならば、目の前のこの奇跡の造形もいよいよ完全なものとなるにちがいない、と。

 ひとたびこう思ってしまうと彫り物師の好奇心はいやがおうにも増していき、ついには抑えられない暴れ馬のように猛々しいものへとなっていった。

 もはや好奇心の奴隷となった彫り物師はいつしかその手に石を握りしめていた。そして、なんとその石をなんの躊躇もなく龍に向かって投げつけたのだ。彫り物師は龍を起こそうというのだった。

 石は当たった。しかし龍の寝息は相変わらず続いていた。それはそうだろう。そんな小石で起きるはずがないのだ。

 待てよ、あの兜はどうだ? あれはちょっとしたお寺の鐘みたいな空洞があるじゃないか。石がぶつかればそれこそ鐘のような大きい音がするのではないか。そしてその音はこの洞窟中に反響しはしないだろうか。

 好奇心にかられた若い彫り物師の気は短かった。石が兜に当たり、予想を上回る鋭い音で大反響が起きた。

 ビクリ。龍の髭がふるえた。龍のまぶたが軽く痙攣したかと思うと、その目はゆっくりと開いていった。

 しかし目が完全に開いたわけではなかった。かろうじて半分くらいが開き、なんともなげやりな目つきで面倒くさそうにあたりを一瞥し、そこに一人の人間がいることにも明らかに気づいたふうではあったものの、そのまま目は閉じられてまた寝息が始まった。

 龍の目の色と形はまるで確かめられなかった。彫り物師は憤慨した。持てるだけの石をかき集め、手当たり次第に兜に投げつけた。長い間それを続けたので不揃いのけたたましい不快の音が洞窟中に響きわたり、龍はついに大きくその目を見開いた。

 目は青だった。ひきこまれそうなになるほど深い青をたたえたその目の真ん中には猫の目のような細長い瞳が盾に入っていたがその色ときたらまばゆいばかりの金色なのだ。眼球はみずみずしく、赤い血管の筋などどこにもなくてあくまでも透きとおっていた。

 彫り物師は心ゆくまでその目を堪能したが、やがて気づいた。龍の目はまっすぐ自分のことを見つめているのだ。

 再び恐怖の気持ちがわいてきたが、それでもひと言いわずにはいられなかった。

「なんという偉大な美しさ、なんという調和だろう。美しさと強さと優雅さ競いながらも一体となることが出来るなんて!」

 その時だった。龍がすさまじい勢いで首筋をピンと立てて恐ろしいうなり声を雷鳴のごとくとどろかせた。

「きさま! ワシの姿が見えるのか! そうか、見えるのだな!」

 龍の青と金色の瞳がまたたく間に色を変えて、あの涼しげな青色から一転、それは憤怒の激情ほとばしる真紅となりはてた。

 それだけではない。強い感情のためか、髭は鋼のように荒々しく張りつめ、全身の鱗にいたっては沸騰した鉄のように赤黒く逆立った。鋭すぎるその爪が自分の前でむき出しになったときは、ずたずたに引き裂かれてその爪の先にぶらさがっている己の姿が一瞬みえたような気がして彫り物師はヘナヘナとその場に尻もちをついた。

 その情けない姿を見て少し機嫌を直したのか、龍が頭をおろしてまた寝そべる姿勢にもどった。

「にしても、ふう、人間ごときにこの姿を見られるとは……この傷も思いのほか深いとみえるわ……」

 それまで彫り物師は気づかなかったが、ほの暗いこの洞窟でもよく目をこらして見れば龍の背中に何本もの小さい柱のようなものが不規則に並んでいるのがわかった。だがすぐに彫り物師はハッとした。それは柱などではなく折れた槍のようなものだとわかったのだ。そういうつもりでもう一度龍の体を見回してみると至る所に槍とか矢とかが突き刺さっているのが見て取れた。

 若い彫り物師は怒りにふるえた。それはまるで自分が彫り上げた自慢の彫り物を理不尽に傷つけられ、おとしめられ、恥ずかしめられたような気がしたからだ。なぜ美しいものをこのように無残に傷つけ破壊しようというのか、許せない! そう思った彫り物師は思わずこう叫んでいた。

「わたくしめが傷の手当てをいたしましょう!」

 その言葉に龍は一瞬おどろいた様子だったが、やがて体をゆすって笑いだした。大咆哮ともいうべきその笑い声は洞窟全体を揺るがし、彫り物師の立っている地面もぐらぐらと揺れた。彫り物師は耳がつぶれてしまわないように両手で頭をおおったが、そのとき龍の口角のあたりからボロボロと土くれのようなものが大量に落ちるのを目撃した。よほど長い年月のあいだ龍は笑わなかったとみえる。

「おまえが、貧弱なおまえがワシの傷を癒すだと? 仏敵調伏の大聖軍指揮官たる我を、天界大元帥たる我のこのいくさ傷を人間ふぜいが治すとな? ウワッハッハッハッ! これは法外な冗談だ」

 龍の目は最初に見た時の青さを取り戻していた。

「だがな、こわっぱ。いったいどのようにして治すというのだ? そのような華奢な腕では一番小さい矢羽一本たりとも抜けはしまい? よしんば抜けたところで、その後その傷をいかようにして癒すというのか。幾千歳ふるワシの体は傷をつけることさえ容易ではないのに、それを癒すことなどまさに至難ぞ。もしそれが出来るものがあるとすれば、それはこれをおいて他にないのだ。見よ!」

 龍は片手を差し出してその手を開いた。すると洞窟中がパアッとまばゆい光にあふれた。「こわっぱ。きさまにもこれが見えるか? 感じるか?」

 龍の手の上には光り輝く見事な玉があった。色を問われてもとても説明できるものではない。ありとあらゆる光がそこにあった。

「で、では大将軍さま、それをお使いになればよろしいでしょう?」

 彫り物師はついそんなことをつぶやくように言ってしまった。

 さも愛おしげにその玉を見つめていた龍はきびすを返すと彫り物師をねめつけた。

「これをワシのために使うだと! とんでもないことじゃ! これなる玉は畏れ多くも天帝さまのみしるしなるぞ。ワシごとき一将軍なぞがわたくししてよいものではなかろうが、このタワケめが! 見よ、このお美しさ、この高貴なるたたずまい、神々しさを……まあ、そう言ってみても人間なぞにこの尊さはとうていわかるまいがな」

「わかります! わかりますとも! 私にだってその宝玉の美しさはよくわかります。しかしながら、ほんとうに美しいものなら人の役にだってたつもののはずではないでしょうか? 龍であるあなた様のお役にだってたつもののはずではありませんか」

 おのれの卑小さにもかまわず龍たる自分に意見する人間の無鉄砲さに呆れながら、龍は彫り物師を見据えて言った。

「ふん、きいたふうなことをぬかしおるわい。おぬし、名をなんと申す」

「甚佐でございます」

「ジンサとやら、ふだんは何をしておるのか」

「私は彫り物細工師でございます」

 そこまで聞くと龍はおもむろに玉を見つめた。すると玉の中の光がわずかにゆらいだようだった。龍はひとりうなづくとまた甚佐の方を見た。

「彫り物師というのはどうやらまことらしいな。ならばこの宝玉のえもいわれぬ尊さも少しは感じられよう。もうよい。無礼の程は許してやるからもう行ってしまえ!」

「お言葉ですが私は無礼など申したおぼえはございません。私はただその玉であなた様のその見事なお体が癒されるのを望んだだけでございます」

「くどい!」

 龍の怒号は洞窟の壁を揺るがせたが、意外にも彫り物師はひるまなかった。

「いいえ、さがりませぬ!」

 豆粒ほどの存在にすぎない人間が示したこの反抗に龍は少なからず興味をおぼえた。

「ふむ、ならば聞かせてやろうか。いいか、先にも言うたがワシは天界の軍勢を率いる頭領で今はいくさの真っ最中じゃ。とある一将軍がよからぬ望みを抱いて天帝様の秘宝たるこの玉を狙っておる。きゃつはこの玉を割ってその力をわが物とし天界の支配者になろうなどと血迷うておる。お前は知る由もあるまいがワシら龍は生まれた時から龍だったわけではない。みなもともとは小さな生き物だったが、各々死ぬより辛い修行と試練を積んでそのたびごとに少しずつ高い次元の生き物に変わりやがて龍に至るのじゃ。だがな、龍にまで至るとその先の高みに至るにはこの玉の力を借りるよりほかはない。まあ、このようなことはおぬしら人間ごときには縁のない話じゃがな」

「あなた様はずいぶんと人間をバカになさるのですね」

「当然であろう? 欲にまみれて相手をだしぬくことばかり考えては自分勝手にその日暮らしをしておるうぬらごとき人間の姿に堕してしまえばけっして龍の高みに至ることなどかなわなくなるのだからな。人間を敬うなど論外じゃ」

「りゅ、龍というのはそんなにも徳の高いものなのでございますか? な、ならばどうして互いにいくさなどするのでございますか? おかしいですよ、天帝様は別格としてもその下に軍隊の身分の上下があったり、龍のくせに悪だくみをするかたがいたり、血を流して争ったり。これじゃあ私どもヒトの世界と変わりないではございませぬか!」

「わっぱめ! 口がすぎるぞ! お前ごときにワシの神聖な目的がわかるものか! 何百年というあいだワシは己を少しでも高みに上げようと辛苦してきたのだ。それがどれほどの苦労だったかお前などに想像がつくものか。ワシは耐えた。ワシは龍の身になった。ワシがまだ一匹の鯉であったときですら、いつか華厳の滝をおのれだけの力で昇りきってみせると心に誓い、そのこころざしは周囲のケモノや人間どもよりはるかに高かった。高位の次元に上るほどにこころざしはますます高まっていった。その極致たる天界のことわりを、そうして卑しいお前などにわかるというのか」

「わ、私めが理解できぬのは、それほど苦労なさって得たその有り難いお体をどうしてそのように傷だらけのままほっておかれるのかということです。その玉をもって傷をなんとかしないといずれはお命にまでかかわりましょう。それほどまでに辛苦を重ねて成就した龍の体をなぜ大切になさらないのかということが私には理解できません! なぜ生きようとなさらないのですか!」

 これを聞いて龍は意地の悪そうな薄笑いをうかべてみせた。

「ほほお、生きることを考えろだと? よく言うわ。お前こそよく考えてみろ。その言葉はお前の口から出るのにふさわしいものなのかどうかをな。ついさっきまで川の流れに身を投げようとしていたのは誰だ!」

 彫り物師はびくりと身をふるわせた。

「ひとたび死を決したくせに小さな雷におどろいて地べたにへたりこんだおかげで水の中に落ちずにすんだのは誰だ! あろうことかそのことをもっけの幸いとばかりそこから逃げ出したのは誰なんだ! そのようなやからが誰に向かって生きろと説教しようというのかな?」

 彫り物師は先ほど見た光景を瞬間的に思い出していた。あの玉の光がゆらめいた情景だ。あの玉は人の一生をすべて見通す力があるにちがいない。龍はおれの人生をすべて見て取ったにちがいない。そう悟るとあまりの恥ずかしさに彫り物師は顔を手でかくしてうずくまった。その背中に龍は氷のような侮蔑の視線を投げかけている。

「わかったようじゃな。この玉の前では隠し事はかなわぬぞ。お前が死のうと思ったのはこの近くで寺院が造営されたことがきっかけだな? お前は請われてその寺院のために彫り物を納めたわけだ。ずいぶんと自信の品だったとみえるが、あいにく評判は悪かった。そこで悲観して自殺を考え川べりをうろついていた。そんなところか。どうだ、この話どこをとっても中身のない虚栄の見本ではないか。そんなお前がワシに向かって生きろだの何だのと説教するのは笑止千万」

 彫り物師は顔をおおった手の指のすきまからかすかに言葉をもらし始めた。

「わ、私は……おれは仕事が好きだった、彫るのが楽しかった。あの仕事を頼まれた時だって初めのうちはただただ楽しくて夢中で彫っていたんだ。国中の彫り物師がまわりで仕事をしていても何の気にもならず自分だけの世界に没頭していた。おれは自分の彫りたいものが彫れればそれで満足だったんだ。

 ところが仕事が進んでくるとおれの彫った部分が評判を呼ぶようになって、そのうちに殿さまやら都の貴婦人やらがおれの仕事ぶりを見に来るようになった。あの連中がおれの耳もとにささやくおべっかを聞くうちにおれの気持ちは変わっていった。気がついてみると私はいつしか、なんとかおれこそが世間で一番の彫り物師と呼ばれたいと、そればかり願うようになっていた。ここはこれじゃだめだ、もっと人をあっと驚かせるように仕上げなくては、もっと奇抜に派手に評判をとるように彫らなくては! おれはもっともっと有名になれるぞ! そう思っておれは一心不乱に彫った。そしてついに完成した! ところが出来上がったおれの彫り物を見ると、それは……クッ! それはきのうのことさ。おれたち国中の彫り物師たちが力をこめたあの門の彫り物がお披露目となった。ついに幕が切って落とされたときおれはびっくりした。だっておれには自分がどこの部分を彫ったのかまったく見つけることが出来なかったんだ、自分の彫り物がどこにあるのかおれはわからなかったんだよ! 他の彫り物師が彫ったものの中におれの彫り物は埋もれちまってた、他の彫り物師の作同様におれの彫り物もまったく光を放っていなかった、くそっ……おれは……おれは自分をどこかになくしてしまったんだ……」

 ここまで言うと彫り物師は泣き崩れた。めめしくおのれを憐れんで泣く人間を龍はうとましく思い、もうたくさんというため息をついた。

「かような世迷言など耳の穢れぞ。ええい、いっそのことワシがお前をこの世から消してやろうか」

 龍は本気ではなかった。こんな一言でこのわずらわしい男がどこかへ行ってくれればよいと思ったのだ。龍はあくびをこらえていた。

「いやです!」

 両目を真っ赤に泣きはらした彫り物師の口から出た言葉あまりにも意外なものだったので龍のあくびはひっこんでしまった。

「いやです! 死ぬなんてまっぴらです!」

 龍にはそれがひどく未練がましく潔くない言いように思え、ふつふつと怒りがわいてきた。

「ええい、なにごじゃ! あしたに死を願っておった奴がゆうべには命乞いか! つくづく見下げ果てたやつじゃ、見苦しいぞ!」

 今や龍は本気でこの彫り物師を殺そうと考えた。だから目は怒りで真っ赤に燃え、髭は憤怒でぴんと張りつめ、上半身は洞窟の天井まで高くそびえ、爪は鋭く光っていた。

 ところが驚いたことに若い彫り物師は龍のこの姿に動ずる気配もみせず、それどころか落ち着いた様子で静かに立ち上がり、はっきりとした口調でこう言ったのだ。

「私はいま死ぬわけにはまいりません。私は生きたいのです!」

 怒れる自分の正面に立ち、あまりにもきっぱりとした話しぶりに龍はとまどってしまった。

「あなた様がお持ちの宝玉も私の心の願いまでは映し出さないのでございましょうか。では私の口から申しましょう。私はいまむしょうに生きたいのです。私は今わかったんです、自分の彫りたいものが何なのか、私が今したくてしたくてどうしようもないものがわかったんです。あなた様のそのお姿を見て私は気づいた、いや思い出したんだ、今ほんとうにわかったんだ! 力強く、美しく、高貴で、それでいて荒々しい! これこそ私が彫りたかったものなんだ、私の心から気に入ったものなんだ! 私は今こそ彫りたい、彫りたい、彫りたい! あなたの体のようにしなやかで生気にあふれて真に美しいものを! だから私は生きていたいんです!」

 その言葉には一切の虚飾がなかった。それが龍に衝撃を与えた。いきなり投げつけられたこの純粋すぎる言葉に龍は圧倒されていた。

 龍がハッと気づくと、その若い男は話すのをとっくにやめていて今は自分の体を穴があくほど見つめているのだった。じっくりと至る所を、それこそ何一つ見逃さないぞという気迫と喜悦に満ちたその若い男のまなざしはまるで夢の中を漂うに恍惚としていた。怒れる自分を無視して自分だけの喜びの世界にひたるその若者の前で龍は気おくれしていた。それどころかみじめさすら感じていた。若者の目はますます輝き、いっそう澄み渡っていくようだった。その目に全身くまなく見つめられると龍はなんだか己の身のどこかに穢れがあるような気すらしてくるのだった。そして人間などに心を動かされているというその事実自体が龍を動揺させていた。

 龍の体をひとわたり見終えた彫り物師はさっぱりとした顔で言った。

「それでもあなた様が私の命をお取りになるというのならやむをえません。でもあと一つだけ私が何かを彫るまで待っていただけないでしょうか。いま私は彫りたくて彫りたくてその思いで胸がはちきれそうです。何かあと一つ彫る、それをお許しいただければその後はいかようにも仰せに従いますから」

 龍は目を閉じた。もちろんその言葉は単なるこの場しのぎの命乞いなどではなかった。

「うむ」

 そううなりながら龍の片手はかたわらの兜を引き寄せていた。そして龍の両手はその兜を龍の偉大な頭にしっかりと据え付けた。

 龍はまるで今からどこかへと飛び立とうとするかのような姿勢となっていた。

「よかろう、お若いの。その申し出は考えておこう。だがその返事はいましばらく待たねばならぬぞ。今はワシにもやることがあるのだ。傷を癒せというおぬしの助言はありがたいがワシは戻れねばならぬ。おぬしも知ってのとおり今はいくさの最中じゃ。決戦の時がワシを待っておる。というよりもワシが戦場に戻ればおのずから決戦となろう。実のところこの玉を隠し持って何百年かこの場でじっと勝機をうかがうつもりじゃったが、おぬしに会って気が変わったぞ! さらばじゃ!」

 突如その翼を全開にしてさらに巨大となった龍の姿に度肝を抜かれた彫り物師であったが、その頭の中は龍が言った最後の言葉のことで一杯だった。自分に会うことで気が変わったとは、いったいどういう意味なのか?

 龍が翼を上下に動かすと、その動きに呼応するように洞窟の天井が一気に開いた。そこには夜の空が現れて三日月がくっきりと光っていた。音もなく龍は天空に吸い上げられ素晴らしい速さで月をめざして上昇した。

 龍はすぐに見えなくなった。するといずこからか黒雲がわきおこり明るい月を隠し不気味な雷光を放ちだした。それはやがていかずちの怒号となり豪雨となった。

 雨は激しく、一晩中つづいた。

 あくる朝、若い彫り物師は自分の家で目が覚めた。あれからどこをどう歩いて、あるいは走って帰ってきたのかまったく覚えていなかったが、ふと外へ目をやると晴れあがったいい陽気になっていた。風もなくおだやかで、その晴天に誘われるように若い彫り物師は小さな庭へ出た。

(天界での大いくさがあったはず。もう終わっただろうか?) 

 そんなことを彫り物師は思ってみたが、そこにはただいつものに慣れた青空が広がっているばかりだ。

 それから彫り物師は何の気なしにきのうの川を見に行った。昨夜の豪雨で川は危険なほど水かさを増していた。付近の村人が何人も川べりへ出て不安げに水面を見つめている。だが若い彫り物師はただひとり、ぼうっと空ばかりながめていた。

 そのときだった。

「おおーい、でっけえもんが流れてくんぞー!」

 誰かがそう叫んだのだ。彫り物師がハッとして川面に目を移すと上流から何やら切り出した丸太のようなものがいくつか浮かんで流れてきた。

「うおおっ! なんじゃい、こりゃあ、どうしたこった!」

 何人かがそう叫んだかと思うと、荒れ狂う流れの色が毒々しい赤い色に変わっていた。それはまるで大量のケモノを屠殺したときにでも出る血の色を思わせた。

 ドブーン、ドッブーン、ドブーン。

 大きな音と波しぶきをあげながら流れてくるいくつもの大きなものは切り倒された巨木のように水面をのたうっていたが、それらが近づくと何か異様な輝きがみとめられた。よく見るとその漂流物には金属製の板のようなものがびっしりとはりついているのだった。若い彫り物師はゾッとした。それが昨日みた龍の甲冑姿を思い出させたからだ。それにその流木の切り口は木の年輪のかわりに赤い色でべっとりと脂ぎっている。

 彫り物師は嫌な予感にかられながら川面を凝視した。するとついにそれは流れてきた。

 それは今までのような長い流木ではなく丸みをおびたもので上になったり下になったりと目まぐるしく位置を変えて流れてきた。それが向きを変えるごとに突き出た二本の枝のようなものがピシッピシッと鞭のように水面を打つ。そしてついにそれは位置が定まってはっきりと形がわかるようになった。

 それは大きな首だった。

 あの牙があった。あの兜をかぶっていた。その兜は真っ二つに割られていて、その下に見えるはずのあの印象的な両の目は完全に白目をむいていた。その目は完全に死んでいた。

若い彫り物師は叫び声をあげた。

 誰かが口に出してはっきりとこう言った。

「ありゃ龍の頭でねえか! そら、龍の頭だ、頭だ!」

 人々は興奮して龍の首を、細切れになった龍の体を追いかけはじめた。おとなも子どもも夢中になって川べりを走っている。彫り物師も走っていた。走らずにはいられなかった。

 無残な龍の体はどんどん流されていった。ところが川のある場所にさしかかると突然にそれらすべての切れ端がゴボゴボと音をたてて渦の中に消えてしまった。ひとたび沈んだそれらのものは二度と浮かび上がってはこなかった。

 そのまま半時も経っただろうか。村の見物人たちもひとりふたりとその場を離れだした。

流れもうそのようにおだやかになっていた。どこかにやついたその見物人たちの様子がお若い彫り物師には耐えきれず、そのいたたまれない気持ちがついに爆発して家路につき始めた村人を片っ端からつかまえては詰問しだした。

「ねえ、あなたも見たでしょう? 見ましたよね! 龍の頭だったでしょう、あれは!」

 だが意気込む彫り物師にくらべた村人たちの返答は熱のないものだった。

「え? ああ、見た見た。見たけんど……だけんどありゃあ龍なんかじゃなかろう? 森の木が雷さ打たれて川へ倒れたんさ」

 彫り物師は激昂して他の村人をつかまえる。

「そう、あなただ、あなたは私の隣で見てましたよね! そいでもってあなたは龍だ、龍だ、龍が流れてくると叫んでいましたよね!」

「おらがかね? そりゃそうだけんど、よく考えてみりゃ、あれはどっかのお寺の門飾りかなんかが、ゆんべの嵐っこで吹きとばされたんでねえかな。うん、そうだわさ」

「そんなあ……あれは本物の龍なんだぞ!」

「へ? なんだって? ほんとの龍? ヒャヒャヒャ!」

 周りでこのやりとりを聞いていた見物衆は面白い冗談を言う若者だと気に入って大笑いした。そしてそのまま去っていった。

 がくりと膝をついた彫り物師だが、心の中では熱く確信していた。

「誰がなんと言おうとあの龍だ! おれは確かに見たぞ、あの細切れにされた龍の手には何の宝玉も握られてはいなかった! それは確かだ。ならば龍はいくさに敗れて切り刻まれたのだろうか? そんな、むごい……。おれがきのう、あんなところへ行きさえしなければ……あんな生意気なことさえ言いさえしなければ……」

 怒りなのか、悲しみなのか、それとも後悔なのか、なんとも耐え難い思いにかられて彫り物師は唇をきつくかみながら、はいつくばるようにして川辺にうずくまっていた。




※     




あの川の出来事から何年が過ぎただろう。若い彫り物師はもう若者ではなくなっていた。しかし若くはなくても彫り物師ではあり続けた。

今年も里には春がやってきた。彫り物師は若い時と同じようにおなじみの川べりを今日も散歩していた。ただ、今はその背中に孫を背負っている。目に入れてもいたくないほどかわいいかわいい初孫なのだ。この川でその孫にかける言葉いつも決まっていた。この川には伝説があるんだよ、昔にね、それはそれは立派な龍の将軍さまがこの川を流れていったという言い伝えなんだよ。そう言っては孫といっしょに川べりを行くのが彫り物師のなによりの楽しみだった。

実はその言い伝えのもとを作ったのは誰あろう、この老いた彫り物師だった。若いころからこの話を周囲にそれはもうしつこく語るので言い伝えになったのである。昔はそれでよくまわりから変人扱いもされたものだが、そんなことを覚えている人も今では少なくなっていた。今では変人ではなく「稀代の名人」あるいは「国いちばんの名匠」として知られるようになっていたのだ。

あれから何年も経ち、すでに髪は白く、顔には無数のしわが刻まれていたが、その眼だけは青年のように生き生きとしている。老いてますます精力的なこの名匠は今年になってからも青銅を使っての、これまでにないほどの大きさで龍の彫り物にとりかかったというもっぱらの評判であった。

その技を広く天下に知られたこの老大家は同時にまた温和な人柄で人々に慕われてもいる。共に年老いた妻とは今でも日がな一日語り合うほど仲が良く、さほど遠くない所に住む娘夫婦も幼い孫を連れてよく遊びに来ている。孫が来たときはもう大騒ぎで、この家には笑いが絶えないのだった。

規則正しい老彫り物師の毎日の生活の中でも一日も欠かしたことのないという日課がこの川べりの散策である。晴れ渡った川の上空を雄大な雲が連なってどこまでもどこまでものびてゆく。これをながめるのが老彫り物師には特に楽しみだった。もくもくとわきおこる雄々しい雲はこの老芸術家にいつも龍の飛翔を思わせた。

背中ですっかり眠りこけてしまった愛らしい孫をおぶったまま老彫り物師は今日も雲の姿を美しく映し出している川の流れに見入っていた。

「甚佐先生ではございませぬか?」

 自分にかけられたその若々しく礼儀正しいその声にはどこかハッとするところがあった。

老彫り物師の甚佐は、なぜか異様に高鳴る胸の鼓動を抑えつつ声のほうをふりむいた。

 二十代半ばのきれいで品のある顔立ちの青年が、はにかんだほほえみを浮かべながらそこに立っていた。特にその目は印象的で、ひきこまれるようなその光は青い空の色を感じさせるのだった。その光は甚佐老人の心に直接響いた。その感覚は甚佐名人が仕事場でいざ仕事にかかろうとするときにいつも心に描くその何かによく似ていた。

(どこかで……この目はどこかで見たことがあるぞ)

 甚佐老人は今ではもう抑えがたいほど高鳴る胸をなんとか抑えつけながら思い出そうとしたが、その答えはあっという間に甚佐の心に浮かんでいた。どこでこの目をみたのかを甚佐は思い出したのだ。

(ああ、この目はあのかたの目だ! 忘れるものか、あれから一日だって忘れたことがあろうか! この青年こそは)

 甚佐が心の中で答えを出す前にその青年が言った。

「お久しゅうございます、甚佐どの」

「将軍! 大将軍さま! 生きておられたのか! おおお」

 この青年こそはあの日の龍に違いない。青年の受け応えも甚佐の直観を正しいと言っていた。

「もう将軍ではありませぬ、甚佐先生。この姿こそが私の新しい人生です」

「では生まれ変わったといわれるのですか?」

「いかにも。そのとおりです」

「じゃが、あなたはヒトの姿をしておられる。あんなにヒトをさげすんでおられたのに、どうして? そうだ! あなたは確かこう言っていたのではないですか? 自分は常に高次元の存在へと進んでいくのだ、と。ヒトが龍よりも高次元だというお考えに変わられたのでしょうか?」

「いいえ、ヒトがすぐれた生き物であるなどとは今でも考えておりませんよ」

「では、なぜ?」

 青年はいずまいをただし、甚佐をまっすぐな目で見つめた。

「あの晩、私が出会った甚佐という若い男は他の人間同様に情けない生き物でした。龍であった私の目にはまったく取るに足らない死にぞこないの未熟なしろものとしか映らなかった」

 甚佐はあの晩のように恥ずかしさで顔が赤くなるのをいやというほど感じていた。

「でも……でもその若い男と話しているうちに私にはとうとうわかってしまったのです。その男のほうが私なんかよりも何倍も何万倍も優れた存在なのだということが!」

 甚佐は青年の言うことがまったく理解できないという顔をしてしまった。

「覚えていますか、甚佐先生? あの晩あの穴ぐらであなたは急に強くなりましたね。龍である私の前で命請いをするどころかご自分の言い分を私に押し付けようとした。いや、おそらくご自分のことさえ忘れておられたのではないですか? 正直申し上げてはじめのうち私にはわからなかったのです。何があなたをあれほどまでに強くしていたのかが。だが、あなたの言葉を最後まで聞いたときやっとその秘密がわかりました。

 覚えていますか? あの晩あなたは、生きたいのだと言いましたね。ただ死にたくないから生きたいと言うのではない、今こそ心底やりたいことがあるから生きたいのだと。やっと見つけたほんとに美しいものをつくりあげたいから生きたいんだって!」

 ここまで言うと青年はにこりとほほえみ、じっくりと言葉をかみしめるようにこう言った。

「今こそ自分は真の美しさへの憧れに生きるのだ、そうあなたはおっっしゃったんです」

 甚佐老人は胸をつかれた。青年が甚佐の生きてきたこれまでの人生の意味を甚佐本人以上に的確な言葉でとらえていたからだ。

「憧れを追い、憧れの中に生きる一生……あの嵐の晩あなたは私にそれを教えてくださったのです。いったんそれに気づくと、いくさに巻き込まれている自分の存在がほんとうにみじめで愚かしいものに感じられましたよ。あのあと私はいくさに身を投じ、その中でバラバラにされてしまいました。しかしそのときすでに私の魂はそこにはなかったのです。

 龍の姿を失ってから私はじっと待ち続け、ようやくヒトとして生きる機会をつかむことができました」

「ではこれからはヒトとして永遠に生きていかれると?」

「永遠?」

「ええ、龍は不死身と聞きました。ヒトに生まれ変わっても不死のままなのでしょう?」

「いえ、それはできません。以前より下位の存在であると天界が定めたヒトの身に一度でもなってしまえばその寿命に従わねばなりませぬ。死ねばそれまでなのです」

 青年は目を閉じてうつむいた。だがすぐに勢いよく顔を起こして言った。

「だがそれがなんだというのでしょう!」

 青年は早口になっていた。

「いくら天界が定めたとはいえ下位だ上位だというぐあいに生き物の価値がはかれましょうか? 大事なのはその生き物が精一杯生きたいるかどうかということなのではないでしょうか?」

 今や青年は興奮を抑えきれないといった様子で話している。

「ああ、私はこの日が来るのをどれほど待ったことでしょう。そしてようやくヒトとして生まれたあとも長い長いあいだ待ちました。十分に成長し独り立ちしてから甚佐先生にお会いしなければと思い待ち続けてきたのです。

そして今日! ようやくお会いすることができました」

 青年は甚佐の方へ距離を詰めた。

「なぜそんなことを、と甚佐先生には合点のゆかぬことでございましょう。でも聞いてください、私は先生にぜひともお願いしたいことがあって、それで! お願いというのは、実は!」

 甚佐の手が青年の言葉をさえぎった。老人はただ静かに、しかし何度も首をたてにうなづいて全てを了解していることを示した。甚佐はやさしくほほえんでいた。

 すると青年の目からは涙が見え隠れして、やがてそれは行く筋かの流れとなってほおをつたった。それを見てあわてたのは甚佐だった。

「すみません、甚佐どの。あの晩あんなに威勢のよかった私が泣くとはさぞ滑稽なことでしょうね。でも私は不安だったのです。あんな無礼をはたらいた私が、これまた身勝手な理由であなたを追いかけたりして、もし断られたらどうしよう、断るほうが当然なのだし……こんなことばかり考えていたのです」

 老人の背中では孫がかわいい寝息をたてている。その孫の温かみと青年の言葉の誠実さが甚佐の心を包み込んだ。

「まいりましょう、将軍さま。家内が待っておりますでな、新しい家族になる方をさっそく紹介させていただきたいのです」

 青年は喜びに顔を輝かせた。大急ぎで涙もぬぐった。しかし、次にのぞかせたのは少し恥ずかしそうな顔だった。

「甚佐どの、あの、その将軍というのは、ちょっともう、さすがに。穴があったら入りたくなってしまうといいますか……」

 甚佐はつい大声で笑ってしまった。孫はおどろいたようにちょっと目をあけたが、またすぐに寝息をたてた。

「それでは申しましょう。実は娘が嫁にいってしまい家が広くなりすぎてからよく家内と話すのです、息子でもいてくれればよかったのにと。もしあなたさまが家へ来て私と仕事をいっしょにしてくれることになれば、これからはその寂しさもなくなることでしょう。娘は出ていったが、今日からは立派な息子どのが来てくださる。そう家内に早く話してやりたいのです」

「甚佐先生……」

「どうですかな、さっそく今日から始めませんかな? ふたりして憧れを見つける旅を」

 孫を背にした老人は青年と連れ立って家路についた。これからの永い年月をふたりして彫り物にうちこむために。美への限りない憧れに身を投ずるために。




 ジェット機がせわしなく空を飛びかい電気自動車が道を埋める現代でも、この地では伝説の名匠・甚佐とその弟子の手になる作品を今でも見ることができる。

 なかでもとりわけ目をひくのが青銅で作られた大きな龍の像である。力強くもくもくとわきおこる雲が徐々に龍の姿へと変わりゆき、それがやがて天へと駆け昇っていく。その繊細な変化の巧みさと圧倒的な勇壮さの組み合わせに誰もが息をのむ。

 しかし、もしもさらに注意深く見てみれば気がつくだろう。その雄大な龍が懸命に身をよじらせ手を伸ばしてつかもうとしているものが玉ではないことに。では何をつかもうとしているのか。龍が今まさにつかみとろうとしている場所にあるものは宝玉ではない。それは一輪の花だ。

 そして龍がどれほどやさしい目つきをしてその花を見つめているのかを知る人は、ほんとうに少ないのである。

               (終)


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