西山と学生生活
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この日本において、我々は避けて通れないものがある。小学校や中学校生活はその代表例だ。高校は行かない人もいるだろうから、高校はともかくとしても、そのいずれか、もしくはその両方で、何らかの苦しい体験をした者は決して少なくないだろう。
例えば、歌のテストだ。クラスメイトの前で、普段歌わない歌を歌う恐怖…、想像するだけでも恐ろしい。僕の友人の田中はいつも、人前に出ることを考えただけで、顔を赤くするやつだったが、失禁した。歌う順番が、奴が好きだっためぐみちゃんの前だったことは本当に同情の念を抑えきれない。
しかし、まあこんなことは良い思い出だ。奴も今は、飲み会での鉄板トークだと言ってるし、めぐみちゃんも目の前で失禁した男と結ばれたのだから。
だが、僕の苦しみの記憶―それは“宿題”という名を冠している―は、決して奴のような良い思い出にはなっておらず、現に今もその幻影に苦しめられているところだ。
西山はコーヒーがなくなっていることに気づくと、口寂しくなり、紙コップの端をカシカシと噛み始めた。
「西山研究員、“されてしまった”とはどういうことだ。これは我々にとって喜ばしいことではないか。」
「そうだぞ、西山研究員。…はっ、そうか、西山研究員、君はこの素晴らしい分析結果を見て、あまりにも感動的だから、茫然としているのだな。」
西山にとって、矢幡の勘違いは、佐久間の追求を逃れるためにいつも都合が良かった。
「なんだ、そうだったのか、仮眠室は空いているからな、西山研究員。黄金を胸に抱いて眠りたまえ。まあ、興奮して眠れるかはわからんがな、はははっ。」
「ああ、君の言うとおりかもしれないな、矢幡研究員。佐久間研究員のお言葉に甘えて、仮眠させてもらうことにするよ。」
たいして疲れているわけではなかったのだが、立ち上がるとめまいがしたので、西山は、やはり分析の結果が相当、効いているな、と感じた。後ろで、佐久間の声が聞こえる。
「矢幡研究員、それでは早速、この栄光の結果をレポートにまとめようではないか。」
ああ、僕の仮眠が終わる頃にはきっと、僕の悪夢は現実になっているんだ…。
西山は、仮眠室に入ると、白衣を脱ぐことなく、ベッドに倒れ込んだ。
西山は、子どもの頃、勉強が苦手だった。今こそ、社会学者としてその一線を担っている彼だが、小学校、中学校と彼の成績は酷いものだった。三者面談では、成績のことで、いつも親と教師に怒られていたし、授業と友人たちについて行けないときのプレッシャーは、彼の勉強嫌いをいっそう強くした。
しかし、最も彼を勉強嫌いにさせたのは、「宿題」だった。成績が悪いことで、特別にたくさんの宿題を課されていたので、毎日毎日、訳のわからない計算や文章問題に辟易していた。
彼の母親もこれまでの担任も宿題に対して、どうも妙な思い入れがあるらしく、宿題があれば成績が上がるという論者の一人だった。西山にとっては、そんな考えは全くの迷惑で、宿題をやってこなければ怒られ、わからなければ怒られ、散々な日々だった。
そんな西山の人生が変わったのは、彼が十五歳、中学二年生の時だ。
ああ、憂鬱だ。いつもいつも、学校に向かうときの朝は憂鬱だ。どうして学生には有給休暇なるものがないんだ。父さんも父さんで、なにが、“お父さんは企業戦士だから休みがいつでも取れるんですー”だ。戦士なら休み無く闘うべきだ。
朝から機嫌の悪い西山少年の横を、大声で楽しそうに、わいわい話しながら一年生の集団が通り過ぎていった。登校中だというのに、サブバッグ一つ持っていない。すると、集団の一人が後ろを振り返った。
「おーいっ、コースケ、おせーぞ。」
それに他の奴らも続く。
「はやくこいよー」
「このままだと遅刻だよーん、コースケちゃーん」
「お前、基礎レンの時もいっつもおっせーよなー」
西山少年が振り返ると、エナメルバッグやサブバッグ、バット入れらしい細長い筒を、いくつも身につけた、少し太っちょな一年生が苦しそうに歩いていた。
「ご、ごめんよ…、ちょっと、ちょっと、待ってくれ」
どうやら運動部でよくある“いじり”というやつらしい。こういったことがあることは知っていたがいざ目の前で見ると、胸がはじけそうだ。でも、この胸の痛みは、コースケに対する哀れみの気持ちじゃないぞ。何なんだろう、この胸のくるしみは…。
西山少年は足を止め、そのザワザワとした気持ちがどこから来るのかと考えていた。彼には幸いにも、このような“いじり”をする馬鹿な友人はおらず、そのようなことを受けた記憶も無かった。いったい何が、彼の心を揺さぶるのだろうか。
そんな時、コースケが西山少年のそばで力尽き、倒れ込んでしまった。
「おいおい、あいつ倒れたぞ」
「だっせー、そんなんだからコーチにも怒られるんだよ」
「さっさとたてよー、ほんとに遅刻しちまうだろうがよ」
コースケは立とうとしているが、荷物があまりにも重いのだろう、身体を起こすことができないでいる。
「うう、なんで、なんで僕がこんな目に遭わなきゃイケないんだ…、あいつらの荷物なのに…、ぼ、僕が太ってるからって、馬鹿にしやがって…。」
コースケはなんとかして立ち上がろうとしている。
その姿を見て、西山少年はハッとした。
そうだ、こいつは僕だ。そしてあの荷物は勉強だ、宿題だ。
あいつは、宿題に苦しむ僕なんだ。
そう感じた少年は、とっさにコースケの荷物をいくつか取って、一年生集団のもとへと歩き始めた。ドンドンどんどん迫ってくる少年に一年生共は不快なまなざしを向けている。
「おい、お前。なにやってんだよ。それは俺たちがあいつに持たせてやってるんだよ、邪魔すんなよ。」
少年は荷物を集団の前に下ろすと、コースケのもとに帰って行く。
「おい、おいって、おまえ、聞いてんのかよ。おい、無視すんなよ、オラッ」
少年の背中にバスケットボール大のものが当たった。おそらく、グローブだろう。しかし、彼の動きはいっこうに止まらず、コースケのそばには一つのエナメルとサブバッグが残った。
「あ、あのう。」
コースケが、去ろうとする少年のことを呼び止めた。
「あ、ありがとうございます。」
「……。」
西山少年はコースケを、じっくり見ると、ウンウンと何度も頷いた。
「やっぱり、それぐらいがいいよな。たくさんあれば良いってものでもないよな。」
「は、はあ。」
「コラッ、お前たち、何してるんだ。」
「やべえ、飛騨だ、逃げろ逃げろ」
一年生の生徒指導教員の飛騨が駆けつけてきた。この騒動があった場所は校門からは近い距離にあったものの、直接視認できる位置関係ではないので、この騒動を見た誰かが飛騨に言ったのだろう。
「オイ、ゴラッ、待たんかッ。」
集団は、荷物をてんでに取っていくと、一目散にあさっての方向へ駆けていったため、飛騨が追いかけるのをやめ、二人に近づいてきた。
「おい、お前ら、大丈夫か。なんもケガとかしてへんか。」
なんだ意外と飛騨先生って優しいんだなあ。
「あ、はい、僕は大丈夫ですが、こいつがこけたので、膝かどっか擦り剥いてるかもしれません。」
「おう、そうか。おい、お前歩けるか。名前は。」
「は、はい、大丈夫です。名前は、花田耕助です。」
飛騨先生に付き添われて、コースケがゆっくりと歩き始める。飛騨先生は耕助が歩けることを確認すると、振り返って僕に話しかけた。
「おう、お前、後で話聞きたいから、学年と名前教えてくれ。」
「あ、はい、二年五組の西山です。」
「二年五組か、担任は確か、増野さんやったな。」
「あ、はいそうです。」
そういえば、そんな名前だったな、あの人。
「じゃ、また後で頼むわ。」
キーンコーンカーンコーン
チャイムが鳴った。なんで、僕も走らなきゃイケないんだよ、そう感じながらも、西山少年のザワザワは収まって、胸はスッキリとしていた。
息を切らしながら、自分の席に腰を下ろすと、田中が声をかけてきた。
この田中は、あの田中だ。
「おい、西山、お前が遅刻なんて珍しいな、飛騨先生が怒ってたけど、それとなんか関係あんの。」
「相変わらず、察しが良いな。まあ、そんなところだよ。」
「何があったのよ。」
「いや、何がって…、そうだなあ、簡単に言うと…」
「簡単に言うと…」
田中の反応は面白くて好きだ。
「自分を助けた」。
「へ、なんて。」
「だから、自分を助けたの。じ・ぶ・ん。」
「は、はあ、まあでも、お前が怒られたんじゃないことはよくわかったよ。」
やっぱり察しが良い。
「それにしても、先生遅くない?」
「あ、そうそう、それを言おうとしてたんだよ。なんか、マッス―、おととい、両腕骨折して昨日から入院してるんだってよ。」
「え、そうなの。」
一瞬、声がうわずった。平静を装いたいが、そんなこと考えている場合ではない。なんたって、先生が休みって事は宿題が減るってじゃ無いか。そう考えただけでも、自然と笑みがこぼれてしまいそうだ。
「その代わりに、別の先生が来るって。」
「え…。」
やはり良いことはするものだ、と数秒前に実感したばかりなのに…。
ガラガラ
「おはようございまーす。」
新しい先生が入ってきた。
「えー、知ってる人はもうすでに知っていると思いますが、増野先生はケガをされて、二ヶ月ほど入院されることになりました。えー、その間、代わりにこのクラスの担任を務めさせていただく、」
そう言いきると、先生はチョークで自分の名前を書き始めた。
「月宮観人、つきみやみるひとっていいます。短い間だけどよろしくねー。」
「みるひとって言うんだ、なんか平安時代みたいー。」
クラスのトラブルメイカーたちは今日もよく騒ぐ。
「平安時代とかめっちゃ似合ってるんですけどー。歌とか読めそうー。」
「ねーねー、ウタ読んで、センセ―。」
「よんで、よんでー、きゃははは。」
月宮は、突然、クラスが騒ぎ出したことに狼狽しながらも、丁寧に、奴らに応えていた。
「え、えー、そんなにすぐには歌は詠めないなあ。」
なんだか頼りなさげだなあ、と西山少年は感じると同時に、この先生は宿題をたくさん出すのだろうかと、不安にもなっていた。
その日の夜、西山少年は思い悩んだ結果、宿題と書かれた空が落ちてくる悪夢を見ることになった。