ぬこ01
我が輩は”ぬこ”である。物心ついた時から周りにそう呼ばれているので、きっとそうなのだろう。
周りの人間達はぬこについて色々教えてくれた。我が輩が立派なぬこになるために躾けてくれたのである。我が輩が立派なぬこになるための努力をすると周りの人間達は穏やかに過ごしてくれる。しかし、我が輩がぬこの道を外れると周りの人間達は我が輩に対して酷い扱いをする。つまり、我が輩がぬこであろうとするならば、”ここには”我が輩の居場所があると言う訳である。
だから、我が輩は”ぬこ”であり続けるのである。
――それは時代が変わり、環境が変わっても、変わらないはずなのである――
「そうかぁ」
そして、この気の抜けたような相槌である。
我が輩の目の前には少女が居た。
初夏ということもあり少女は水色の洋風草履を履いていた。足の指先には少し砂埃がついている。目線を上げると、膝まである白いつなぎ服の裾が風で少し揺れている。白とは対照的な真っ黒な髪が墨を垂らしたかのように肩から胸元へ注いでいる。麦わら帽子をしているが、顔はほどよく日焼けして頬と鼻頭は少し赤みがある。目を見開いた時の瞳はドングリのようであった。更に視線を上げると・・・少し首が痛いが少女の背後に木立が聳え、その更に高みを青い空が支配しているという状況である。そして、ここは公園と呼ばれる場所である。
「ねえ、何をしているの?」
丸みを帯びた幼い輪郭を隠すかのように麦わら帽子から零れ出る艶やかな黒髪を頬へ撫でつけながら少女は目を少し細める。我が輩に顔を近づけるためにしゃがんでいるのだが、こちらから下着が丸見えなのは全然気にする様子は見えない。
ほう、水色横縞か・・・たいしたものだ。
この少女も数年もすれば雄を意識し始め、恥じらいという概念が芽生えるのだろう。我が輩は彼女のような服を着ることはないため、その時に我が輩と出会ったら、今こうして開いている股をどうするのか少し気になった。
唾を飲み込むと咽の奥で鉄の味がした。
おっと、話題が逸れてしまったが、我が輩は平静さを保ちつつ答えようではないか――仲間を待っているのだ、と。
少女は納得したのか手を叩きながら大声を発した。
「そうか!」
そうだ!
「何して遊ぼう?」
少女は我が輩の答えなど気にもせず、自分のやりたいことをぶつけてくる。人間のこういう所が我が輩は非常に苦手である。インタァネッツによるとこういう事を”空気嫁なし”と呼ぶそうだ。今回相手は少女なので嫁と言うよりは婿と呼ぶ方が的確であろうか?それとも”キマシタワー!”なる雌同士の番いもあると聞くのでこのままでも良いのかもしれぬ。そもそも、発情期に入っていそうもないこの少女に番いの概念を当てはめるのも変な話であるが。
さて、何と答えるべきか――。
「そうだ、膝枕ごっこしよう!」
クリクリと動かしていた眼球が止まると少女は急に立ち上がって両の握り拳を胸の高さまで持ち上げ、興奮した声を上げた。こちらの思いなどまったくの無視、傍若無人という言葉はこの少女のためにあるのであろう。我が輩は呆れ果てるばかりである。
少女は我が輩の居る公園の長椅子の端に腰掛けると、我が輩を持ち上げて不器用だが尻だけで横に移動して膝の上に置いた。
「これねー、お父さんがいつもお母さんにお願いしていたんだけど、お母さんに断られていたんだよ」
見下ろす少女の首筋に――汗で張り付く幾筋の髪が何かの模様にも見えて、我が輩は視線を逸らすことができなかった。
「だからね、私がしてあげるって言うと、お父さん『お前にはまだ早過ぎる、母さんのようにもっとムッチムチになってからじゃないと父さんを満足させることはできないゾ』って言って、いつもお母さんに怒られていたんだよ。褒めているのに怒るのって変だよねー。大人ってよく分からない」
長椅子に座った少女は地面に足が着かないため、膝から下を交互にブラブラさせながらそんな話をした。骨と筋の硬い感触を感じながら、我が輩は彼女の父親の言葉に深い共感を得ていた。
「どーお、幸せな気分になってきた?」
我が輩を覗き込むこの少女、父親から膝枕は人を幸せにすると教わったのであろうか。だが、我が輩は人間の一趣向で感情が左右されるということは”絶対に”ないのである。
日が傾き始めているとはいえ、強い日差しに当てられた我が輩は顔に汗を掻き始めていた。
――シクシク。
少女は泣き出した。あまりの唐突さに我が輩は混乱した。
少女よ、どうしたというのだ?
「・・・・・・ごめんね、ごめん」
少女の涙が見上げた我が輩の頬に落ちる。
「泣かせちゃって、ごめん」
この少女は何を言っているのだ?更に顔に零れ落ちる涙が目に入ろうとし、驚いて我が輩は一瞬目を瞑った。その時に2つの筋が形成され、我が輩の瞳には少女から零れた量よりも多いもので溢れていたことに気付いた。
我が輩も泣いているのか?我が輩の涙が少女を泣かせたというのか?
少女は半袖から覗く健康的な腕で自分の涙を拭うと、崩れた表情を無理矢理笑顔にしようとして失敗した。
「あはは、涙止まらないや・・・・・・」
少女の身体の震えが我が輩にも伝わってくる。
――どれほどの時間が経ったであろうか?
「・・・・・・なぁ」
我が輩は少女が落ち着くのを見計らって鳴き声を上げた。鼻の奥に不快な血の臭いがこびり付いてくる。
少女は驚いて目を丸くしながらこちらを見る。
「初めて話してくれた」
ああ、そうだった。我が輩の声は人間には届かないのだ――おや?
「なぁ・・・・・・」
「なに?」
鼻水を啜りながら少女は我が輩の頭を撫でた。ふむ、悪い気はしない。今度、我が輩も誰かにしてみよう。
なお、少女はもう涙は止まっているがまだ瞼の腫れは残っている。
我が輩は意を決して続けてみる。
「なあ、何があったんだ?」
我が輩が言葉を声として発したのはいつ振りだろうか?
「ぷっ!」
少女は吹き出した。唾液だか、鼻水だか分からない液体が我が輩の顔にかかる。我が輩はすぐに顔を拭おうとしたが鼻の痛みに腕を引っ込めるはめに。
少女は眉を八の字にして言葉を続けた。
「何があったのか聞きたいのはこっちだよう。真っ赤なティッシュをお鼻に入れてベンチで寝ているんだもん」
ああ、そのことか。実は交渉が決裂して顔面をぶん殴られて鼻血出たなんて言って良いものやら・・・・・・。
「まあ、気にするな」
「・・・・・・じゃ、気にしない」
少女は我が輩の頭を持ち上げると長椅子から立ち上がった。そして、ゆっくりと長椅子に持ち上げていたものを降ろす。最初に膝枕をされた時は硬いと思ったが、いざ木製の椅子に戻されると、その柔らかさが名残惜しく感じる。
「私、もう行かなくちゃ」
麦わら帽子を被り直した少女は、帽子の鍔で一瞬我が輩から表情が見えない様にした後、横を向きドングリのような瞳を片方だけこちらに覗かせると更に言葉を紡いだ。
「バイバイ」
「あ・・・・・・」
いつもこうだ、我が輩は人間に対して言葉が出せなくなるのだ。
少女はこちらの言葉を待たずに駆け出していく。麦わら帽子を片手で押さえながら白い洋服の裾と黒い髪を風に靡かせ、その姿は徐々(じょじょ)に小さくなっていく。
「・・・・・・」
我が輩は椅子から身体を起こし、詰めていた鼻紙を取り除くと別の鼻紙で鼻をかんだ。鼻腔にはまだ鉄の香りが漂うが、それほど気にはならなかった。汚いとは分かっていても、かんだ鼻紙を広げて確認してしまう。うむ、汚いな。
何となくスマァホを取り出して待ち受け画面を確認する。
『今すぐ向かう。そこに居ろ』
『今すぐ死ね』
やれやれ。
居場所を確保するのはとても大変だ。それでも死なないために活動を続けなくてはならぬ。
我が輩は”ぬこ”だから。
「ねぇ」
「んがっ!?」
我が輩は背後からの突然の掛け声に奇声を上げてしまった。ついでにスマァホを落としそうになったが何とか膝に挟み込んだ。内股のまま振り返ると先ほど走り去った少女が居る。
「質問に答えていなかったから戻ってきたの」
ああ、確かに我が輩しか答えていなかったな。スマァホを膝からつまみ上げる。
少女はまた泣きそうな表情になったが服をギュッと握り締め、耐えたようだった。
「お、お父さんに似ていたから、お父さん帰って来たのかなって・・・・・・そう思って」
「そうかぁ」
我が輩は枯れた植物で編まれた帽子の上から少女の頭に片手を置いて撫でる仕草をした。少女はその仕草に目を細めて口元を緩ませた。
「また、会ってくれる?」
さて、どうしたものか。頭の中のことではあるので刹那の事ではあったが、不満が込み上げてきた。我が輩は伸ばしていた手を戻した。このままではよろしくない。変えねばならぬ。
「お父さんとしてか?」
我が輩の声が低くなってしまったせいか少女は身体を強ばらせると頭を垂れた。表情は伺えない。
「・・・・・・怒った?」
人間に嫌われることをしないのがぬこだ――そう言われてきた。だから、生理的に受け付けないような人間にも精一杯対応してきた。
だが、今回はどうするべきか?
「怒ってはいない、だけど、俺は君のお父さんじゃない」
少女は顔を上げ、我が輩を見詰め返してきた。その目には何か強い意志のようなものを感じ、我が輩の心は反射的に身構えた。
「そんなの分かっているよ!」
じゃあ、どんな理由なのだろうか?
「お兄さんはお父さんじゃないけど、子供にはお父さんが必要なの。その、本物のお父さんじゃなくて偽物のお父さん!そう・・・2番目のお父さんとか?」
はっきり言って滅茶苦茶である。だが、人間の子供というものはこういう屁理屈的な持論を展開するものである。
「まあ、一番だろうが二番だろうがお父さんは無理だ」
それでは先がなくなる。
「そんなぁ・・・・・・」
落胆する少女。彼女はこのままでは我が輩を嫌うだろうか?拒否で終わらせてはならない――妥協できる選択肢を提示せねば。
「だが、友達にならなっても良いぞ」
若干の間を置いて、さっきまで蕾だった植物が花咲いたかのように少女は笑顔になる。しかし、人間の仔というのは表情の変化が激しくて見ているこちらも振り回されそうになる。べ、別に我が輩も嬉しい気持ちになったわけではない、ということを勘違いされないため、ここに補足しておく。
目線を一度少女から逸らすと、いつの間にか日もだいぶ傾き、日没を迎えようとしていることに気付いた。
「じゃ、お友達。まずは大きいお友達になってよ!」
うーん、何かその言い方には違和感があるが、まあ些末なことである。我輩は頷いた。
少女は長椅子の背後からを回り込んで我が輩の隣りに座る。
「とはいえ、友達になるにはお互い名前を知らないと始まらないな」
「そうだね。お兄さんのお名前は?」
我が輩の名前か・・・・・・えーと、あれ、我が輩の名前って何だったであろう?
「???」
つぶらな瞳で我が輩の名前を待ち続ける少女。すると突然――
「お巡りさん、あそこです!」
遠くから年配の女性の声が聞こえる。声の聞こえる方向に目を向けると、そこには大人の人間達の群れができていた。その中には警察官の姿も見えた。群れの中からその警察官がこちらに向かってくる。
膝枕――泣かせる――偽物のお父さん――頭を撫でる(イリーガルユースオブハンズ)
ヤバイ!
導き出されるその結論はその3文字だった。
「すまん。また今度にしよう」
我が輩は立ち上がると、警察官に背を向けた。
「え、ちょっと待って!お名前は?私は菜々子だよ!」
走り始めた我が輩はやっと自分の名前を思い出したが、警察官が迫るこの状況で自分の名前を叫ぶことの問題を確と認識している。では、なんと言えば良いか。
そうか、我が輩はぬこである!
「ぬ、ぬこ!」
背後を振り返ることもせず、我が輩は大声で発した。
*****
「ぬぬ子じゃなくて、菜々子だよぉ~」
お兄さんは名前も教えてくれず、私の名前も間違えて走って行っちゃった。もう、バカ!
「君、大丈夫?さっきの男に変なことされなかった?」
「おじさんもバカ!」
「えっ、ええ~~!?」
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