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堪忍袋の緒が切れるどころの話じゃない。
一瞬で吐き気を催すほどの感情が俺の中を満たし尽くし、無意識なのか自意識なのか……おそらくはその両方なんだろう、その感情に抗おうともせず右手に力を込める。
そして得物を振り上げようとしたその時、
「……誠君」
振り上げようとしていた右手が押さえられた。
気が付くと隣にいた角が俺の手を掴んでいるのが分かった。
その行動は恐ろしいほどに迅速で、振り上げようとしていた俺の右手は元の位置から数ミリとして動いていない。
「誠君、お気持ちは分かりますが、ここはどうか抑えて下さい」
隣にいる俺にしか聞こえないような小声でそう言った。
確かにこの状況で俺が暴れ出すのはマズイ事だって言うのは頭では理解できる。
クウの体面上の問題もあるし、綺ヶ崎の後ろにズラリと並んでいる屈強な男達の問題もあるからだ。
しかし、頭ではそう理解していても、俺の感情がそれで収まりが付く訳がない。
今すぐにでもこの手を払いのけて綺ヶ崎を殴り付けたい。殴りまくりたい。殴り倒してそのスカしたニヤケ面を思い切り歪めてやりたい!
けれど、腕はピクリとも動かずどうしようもない。
顔を上げて俺の腕を抑えているいる張本人の顔を睨みつけると……いくら何でもそれ以上暴れる気にはなれなかった。
そこにあったのは、何時もの様な笑顔を俺に向けながらも、その笑顔の下で必死に感情を抑え込んでいると分かる角の姿。
いつもニコニコと温和で滅多な事では感情を負の方向に向ける事もしない彼が。
根っこからの善人で、他人の悪い所より良い所を信じて疑わない彼が。
そんな風に自身を律しなければ表情を維持出来ない程に平常心を欠いている姿を見てしまうと、微かにだが冷静さを取り戻すことが出来た。
しかし、それでも俺の感情の発露は止まらない。
角が俺と同じような心境ならば尚更だ。
俺はなけなしの自制心で、声だけはなんとか低く抑えると、角に食って掛かった。
「でもよ角! あの野郎、クウに向かって、」
「それは僕も十二分に理解しています。しかし、それは姫様が決める事であって、僕たちにそれを決める権利は無いのです。今は姫様のご判断にお任せ致しましょう」
「……ッ! くそッ、分かったよ!」
納得した訳ではない。
決して納得なんかしてはいない。
角が手を離せば、次の瞬間にでも殴りかかって行きそうなこの感情は決して抑えきれるもんじゃあない。
しかし。
その言葉を受けた張本人であるクウを差し置いて、個人的感情に任せて俺がこの場をぶち壊して良い訳ではないのだ。
きっとクウは、俺の何倍、何十倍もの怒りを感じている事だろう。
それでも、それをクウがそれを表に出していない以上、俺が出来ることなんて、きっとこれ以上は無いのだろう。
「……おやおや、随分と躾のなっていない飼い犬を飼っておいでのようですね。主人の言葉の前に吠える野良犬など、さぞかし手を焼いておいでなのではないのですか?」
声が聞こえていたかは分からないが、綺ヶ崎は少なくとも今の俺と角の行動で、おおよその言いたい事は伝わったのだろう。
俺達を……、いや、俺を見る目が人間に向けるそれではなくなった。
あれはモノを見る目だ。
己に何の影響をもたらさない事を確信している、無価値なモノに向ける目そのものだ。
ああ、別にこの場での俺の価値なんてどうでもいい事だ。
それこそ無価値以上の価値など、何処から見ても見出せはしないだろう。
そう、その筈なのに。
「それに比べて私が育てた忠犬は素晴らしいものですよ。主人の命を疑う事などせず、唯々その言葉に従うその姿は正に猟犬と呼ぶのが相応しいでしょう」
クウは綺ヶ崎のそんな自己陶酔を感じるような演説じみた言葉を完全に無視し、無価値である筈の俺を、クルリと一度だけ振り返った。
それこそ俺にしか分からないように一瞬だけ微笑むと、再び目の前の綺ヶ崎へと視線を戻した。
そして、空色の扇子をまるで見せつけるかのようにバサリと広げると、その流れそのままで口を扇子で覆い隠すと言った。
「――ええ、とても愛らしい駄犬でしょう? 私の言い付けなど聞かず、主人に仇成すモノに対しては所構わず吠え散らかす、私の自慢の愛犬ですのよ? それでマコト? 何か言いたい事があるようね。いいわ、言ってごらんなさい」
クウのその言葉を受けて、俺は綺ヶ崎を睨みつけながら憎悪を隠さずに口を開いた。
「今すぐそいつをぶん殴ってやりてえ。そのくそニヤけた馬鹿面……二度と笑えなくしてやる」
俺の言葉に綺ヶ崎の後ろに並ぶ連中が殺気立つが、そんな事知ったこっちゃない。
こちとらとうの昔に頭にきてるんだ。
この段階になればテメエ等みたいな凶悪面だろうとただの標的でしかないのだ。
「さて、私の駄犬はこう申しておりますが……困りましたね。私、こう見えてもその駄犬からの言葉だけは疑った事が生まれてこの方ございませんの」
ちっとも困っているようには聞こえない、ともすればその声は楽しんでいるかのようにも聞こえた。
「そんな者からの言葉を受けてしまっては……仕方ありません。ええ、仕方がありません。ええ、本当に、仕方のない人……」
俺のクセを真似たクウは、最後の己の言葉に小さくクスリと笑った。
しかし、次の瞬間にはその気配が反転した。
「――ッ!」
突如として湧き上がる、とてつもない覇気としか表現のしようがないもの。
思わずゾクリと背筋が寒くなる。
それが直接俺に向かって叩き付けられている訳でもないのに、重圧感すら感じてしまうのだ。
そんな抽象的なものが本当にあるのかと疑問に思う者もいるかも知れないが、そんな者達にはハッキリ言ってやろう。
――これが四鵬堂空姫だ。
正真正銘の小娘。
そんな小娘が今の立場にいるという冗談のようなこの現実は。
それを15年という短い経験で可能とした、その人生の密度は。
それらは、常人の理解が及ぶほど生易しい物ではないのだ。
そんなクウは徐に立ち上がると、口元を隠していた扇子をパチンと音がするほど勢いよく閉じ、流れるような所作でそれを綺ヶ崎に突き付けながら言った。
「――疾く去りなさい痴れ者。貴方達は今この時より、この四鵬堂空姫の敵だ」




