表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひとつ屋根の下  作者: 瑞原唯子
本編
5/39

第5話 井の中の蛙

「いじめ?」

 それは、梅雨入りしてまもないある日のことだった。

 遥が大学から帰ると、玄関で待ち構えていた執事の櫻井から、内密で話したいことがあると切り出された。彼はこの家に長年仕えている信頼のおける人物だ。すぐ空き部屋に連れて行き、ガラスの応接テーブルを挟んで向かい合った。

 そこで聞いたのが、七海がいじめを受けているらしいという話だ。毎日元気でそんな様子はまったくなかったので、にわかに信じられず聞き返すと、彼は遥を見つめたまま顔を曇らせて首肯した。

「体操服が何度か泥水で汚れていまして」

「七海に話は聞いたのか?」

「学校にいじわるな人がいるのだと」

 我知らず眉が寄る。一度ならず何度もとなると、彼の言うようにいじめである可能性が高いが、それだけで安易に決めつけるわけにもいかない。

「わかった。僕から七海に聞いてみるよ」

「よろしくお願いします」

 櫻井が頭を下げる。

 しかし保護者であれば対処するのは当然のことだ。彼に頼まれるまでもないし頼まれるいわれもない。遥は表情を動かさず、口を結んだまま小さく頷いて立ち上がった。


「七海、ちょっと話があるんだけどいい?」

「いいけど、何?」

 櫻井と別れてすぐに七海の部屋を訪ねた。

 彼女は真面目に勉強していたようで、学習机の上には開いた教科書やノート、辞書などが乱雑に置かれている。中断させてしまうことを申し訳なく思うが、こちらも大事な話だ。部屋に入らせてもらいベッドに腰掛けた。

「櫻井さんから体操服のことを聞いた」

「ああ」

 七海は軽く頷いて椅子に腰を下ろし、口をとがらせる。

「なんかさ、教室を離れたときに校庭に捨てられたりしてさ。授業前なのにドロドロになって困るんだよな。さすがにあんな状態じゃ着られないし」

 着ているときに暴行を受けたのではないかと心配したが、そうではなかったようでほっとした。しかしながら安心はできない。いじめらしき事実があったことには違いないのだから。

「じゃあ、体育の授業はどうしたの?」

「予備のを持ってる人が貸してくれた」

「そう」

 どうやら少なくともひとりは七海の味方がいるようだ。この様子からしても孤立はしていないのだろう。

「体操服を汚した人は誰かわかってる?」

「それがさぁ」

 七海は思いきり眉をひそめる。

「たぶんそうだろうなって思う人はいるんだけど、証拠がないんだ。こんな卑怯なマネやめろよって言っても、証拠もないのに犯人扱いするなって言い返されて。でも薄笑いしてるし間違いないと思うんだよなぁ」

「誰?」

「綾辻瑠璃子、あと手下の三船百合奈と三枝琴音。こいつら何か知らないけど僕を目の敵にしててさ、くっだらない嫌味や悪口を言ってくるんだ。あんまり相手にしないでほっといたけど」

 その対処は間違っていないと思うが、七海を泣かせたいのにまったく相手にされず、ムキになってエスカレートしたとも考えられる。このまま放置していたらどうなるかわからない。

「よし、まずは証拠を集めよう」

「え、だから証拠はないって……」

「今度そういうことをされたら、なるべくそのままの状態でとっておいて。指紋とか、分泌物とか、犯人の痕跡が残っている可能性があるから。目には見えなくても警察で調べればいろいろとわかるんだよ」

 そう告げると、彼女は微妙に顔を曇らせながら、言いづらそうに切り出す。

「あの、僕、警察とかあんまりオオゴトにしたくないんだけど」

「警察はあくまで最後の手段。証拠となるものを握っているという事実が大切なんだ。彼女たちも言い逃れがしづらくなるからね。戦うための武器ってこと」

「そっか……うん、わかった」

 彼女は真面目に頷くと、ほっとしたように表情を緩めて笑顔になる。こういうのなんかちょっとワクワクするね、などと無邪気にはしゃぐのを見て、遥もつられてくすりと笑った。


「いろいろ集まったね」

 切り裂かれた体操服、らくがきされたノート、破かれた教科書——あれからたった数日で証拠となりそうなものがこれだけ集まった。ビニール袋に入れて床に並べたそれらのものを眺め、遥はわずかに眉を寄せる。

 正直、ここまで一気にエスカレートするとは思っていなかった。体操服を何度も踏みつけてずたずたに切り裂くなど、かなりまずい状況だ。教科書の破り方にもただならぬものを感じる。

 しかしながら七海はケロッとしていた。発見したときにどう感じたかまではわからないが、すくなくとも今現在ショックを受けている様子はない。それどころか期待に満ちた目で遥を見つめている。

「どうかな、証拠になりそう?」

「十分だよ」

 体操服だけでは突きつける証拠として微妙なところだが、ノートは思わぬ収穫だった。これだけわかりやすいものがあれば中学生相手に戦いやすい。それを聞いた七海はすっかりやる気になっているが——。

「七海、ここから先は僕に任せてくれないかな」

「そんな、僕のことなんだから僕がやるよ!」

 こればかりはいくら懇願されても聞き入れられない。真剣に彼女を見つめ返して言い聞かせる。

「七海が大丈夫だと言うなら出張る気はなかったけど、さすがに度が過ぎてる。悪いようにはしないから僕を信じて任せてほしい」

「……わかった」

 不満はあるのだろうが、それを飲み込んで遥の願いを聞き入れてくれた。そんな彼女の信頼を裏切るわけにはいかない。遥は神妙に頷き、必ず結果を出そうとひそかに気合いを入れた。


「綾辻瑠璃子さん」

 放課後、校門からすこし離れたところで例の三人組に声をかけた。

 瑠璃子は怪訝に振り返ったが、すぐに誰だかわかったようでハッと息を飲んだ。入学式のときに見て知っていたのだろう。なのに、逃げるどころか嫣然と微笑みながら近寄ってきた。

「坂崎さんの保護者の方ですね」

 艶のある声で、中学一年生とは思えない大人びた受け答えをする。

 彼女は大手製薬会社の創業家一族の娘だ。四人きょうだいの末娘ということもあり、ずいぶん甘やかされて育ったらしい。それゆえわがままで、小学生のときから女王様気取りだったという。

 実際、腰近くまである艶やかな黒髪や、美人になるであろう整った顔、物怖じしない堂々とした態度からも、そういう雰囲気がにじみ出ている。もちろんそれ自体は決して悪いことではないのだが。

「すこし話をさせてもらえませんか。三船さんと三枝さんも一緒に」

「ええ、構いません。それでは……あちらの喫茶店でいかがです?」

「綾辻さんさえ良ければ」

 話をするなら人目のあるところでなければと考えていたので、喫茶店なら問題はない。後ろの二人は勝手に話が進んでとまどっているようだが、瑠璃子は気にもせず、当然のように遥と並んで喫茶店に向かい始めた。


「綾辻さん、あなたは七海の何が気に入らないんですか?」

 広くはない喫茶店で、遥は二人掛けソファに並んで座る瑠璃子にそう切り出した。彼女は予想していたのだろう。焦る様子もなく、うっすらと思わせぶりな笑みをたたえて聞き返す。

「坂崎さんの言うことを信じてらっしゃるの?」

「心当たりはないと?」

「言いがかりをつけられて困っているわ。ね?」

 向かいの二人は請われるまま頷き、ひどく落ち着かない様子でオレンジジュースに手を伸ばした。一方、瑠璃子はストローをつまんで悠然とアイスレモンティを飲み、話を続ける。

「坂崎さんってもらわれっ子でしょう? 育ちがよくないせいか平気で嘘をつくの。本当に困った人だわ。本来なら東陵に来られる身分じゃないのに、そのことをわかってらっしゃらないみたいだし」

 その発言から、七海をいじめる理由が透けて見えた。

 くだらない選民思想だが、彼女がそういう思想を持つことを咎めるつもりはない。それに基づく七海への不当な行動を止めたいだけだ。遥はビニール袋に入った証拠品を鞄から取り出した。

「これ、覚えはありますよね」

「さあ、証拠はあるのかしら」

 瑠璃子はとぼけるが、向かいの二人が表情をこわばらせている。大変なことになったという心の声がダダ漏れだ。七海の読みどおり彼女たちの仕業で間違いない。遥は冷静に観察したのち溜息をついてみせた。

「こちらとしては二度としないでほしいだけなんですが……そちらが認めないのであれば警察に被害届を出します。器物破損はれっきとした犯罪ですから。指紋照合や筆跡鑑定をすれば、犯人が誰かは容易に突き止められるでしょう」

 そう告げると、瑠璃子の顔色が変わった。

「警察なんて……そんなことパパがさせないわ」

 気付いているのかいないのか認めたも同然の物言いだ。さきほどまでのお嬢様然とした表情はどこへやら、眉を吊り上げながら苛立ったように睨みつける。それでも遥はすこしも動じない。

「へぇ、君のパパに何ができるっていうの?」

「パパは綾辻製薬の社長よ。何だってできるわ!」

 彼女は安い挑発に乗って声を荒げた。何だってできる——製薬会社の社長にできることなどたかが知れているが、彼女は本気で信じているのだろう。大人ぶっていてもまだ子供である。

 遥は名刺を一枚取り出してすっと彼女の前に置いた。大学生ではあるが、祖父の仕事を手伝うために会社の名刺を作ってあるのだ。普段は当然ながら仕事相手にしか出さないけれど。

「パパに伝えてくれる? 売られた喧嘩は買うって」

 うっすらと唇に笑みをのせ、名刺に手をそえたまま身を乗り出して覗き込む。彼女が耳まで真っ赤にしてのけぞったのを見ると、すぐに表情を消し、テーブルに置いた証拠品を手早くしまって立ち上がった。

「今週中には警察に届けを出そうと思ってるから、そのつもりで」

「イケメンだからっていい気になってると痛い目見るわよ」

 彼女は顔を火照らせたまま恨めしげに睨み、捨て台詞を吐いた。

 遥は目を細めてふっと思わせぶりな笑みを浮かべると、伝票を取ってレジに向かう。背後から、こんな会社パパにつぶしてもらうわ、あとで泣きついても知らないんだから、覚えてらっしゃい、などと喚く瑠璃子の声が聞こえてきた。


 青ざめて冷や汗をだらだら流した瑠璃子の父親が、地面に頭をこすりつけんばかりの勢いで謝罪に来たのは、その日の夜のことだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ