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ひとつ屋根の下  作者: 瑞原唯子
番外編

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39/39

恋ではなかったはずなのに

「武蔵が好きなんだ。だから、僕とつきあってほしい」

 まさか七海から恋心を告白される日がくるなんて、夢にも思わなかった。

 武蔵にとって彼女は恩人の娘である。その恩人が自分のせいで亡くなったことに責任を感じ、天涯孤独となった彼女と一年半ほど一緒に暮らしたが、そのときはまだプレティーンの子供だったのだ。

 あれから三年半が過ぎ、再会した彼女は十六歳の女子高生になっていた。見た目はそれなりに女性らしく成長したものの、口を開けばあのころのままで、そのせいか不思議と認識が変わることはなかった。

「悪いが、おまえのことを恋愛対象として見たことなくて」

「そんなのわかってるよ。これからそう見てくれないかなって話」

「…………」

 そう言われても、冷静に考えてつきあうべきではないだろう。

 彼女とは親子ほど年が離れているし、何より武蔵はまだこの国に認められていない存在だ。いまは秘密裏に会談するために入国を許されているが、自由に外に出ることさえできないのである。

 そんな自分が、彼女の青春を浪費することは許されない気がした。彼女には日の当たるところで笑っていてほしい。年相応の相手と年相応の恋愛をしてほしい。それが彼女の幸せだと思った。

「俺にはいまでも忘れられないひとがいるから」

「……そのひととはつきあってないのか?」

「ああ、もう他のひとと結婚して幸せになってる」

「まさか略奪しようとか……」

「いや、そもそも許されない間柄だからな」

 言ったことに嘘はない。澪のことは親子と判明したいまでもまだ忘れられずにいる。ただ自分の中ではもう一応の整理がついているので、ここで持ち出したのはあくまで断るための方便である。

 七海はすこしのあいだ難しい面持ちで考え込むと、顔を上げた。

「じゃあ、そのひとのことを忘れられるかどうか僕で試せばいいよ。つきあってるうちに僕のことを好きになるかもしれないだろう? すこしでもチャンスがもらえるなら僕も好都合だし」

「ちょっと待て」

 何か、とんでもないことを言い出した。大人の女ならともかく、すくなくとも十六歳の子供が言うようなことではない。衝撃を受ける武蔵に、七海はうっすらと寂しそうな顔になりながら言葉を継ぐ。

「僕のことが嫌いだっていうならあきらめるけど、年齢とかそんなことで、すこしも考えてもらえないままふられるのは嫌なんだ。だからいますぐ答えを出すんじゃなくて、もうしばらく真剣に考えてもらえないかな」

「…………」

 確かに、彼女の気持ちもわからないではない。

 ここで強硬に断るより、いったん保留にしたほうが彼女には納得してもらえそうだ。しばらく考えたふりをしてから丁重に断ればいい。このときはまだそんなふうに軽く捉えていた。


 それから七海はたびたび武蔵のところへやってきた。

 武蔵は仕事のために来ているので暇ではないし、彼女も学業や習いごとがあって何気に忙しいので、さすがに毎日というわけではなかったが、二、三日おきくらいという結構な頻度である。

 正直、彼女と過ごす時間は楽しい。お菓子を食べながらとりとめのない話をするくらいだが、一緒に暮らしたあのころに戻ったみたいで気持ちがゆるむ。仕事で疲れた身にはいい息抜きになった。

 だからといって恋人としてつきあうつもりはない。それとこれとは別である。ときどきあきらめてくれるようやんわりと説得を試みるが、彼女の気持ちは変わらず平行線のままだった。


 その均衡が崩れたのは、三週間が過ぎようとしていたある日のことだった。


「おまえもさ、他の男に目を向けてみればいいんじゃないか?」

 七海と向かい合わせでクッキーをつまみながら談笑していたとき、話の流れで何気なくそう提案した。もっともどうせ聞き流されるだけだろうと思っていたのだが——。

「やったよ。他のひととつきあってみたけど、ダメだったんだ」

「え、つきあった……?」

 自分で言っておきながら、すでに実行に移していたと知ると微妙な気持ちになる。ただ無邪気に好きと告白して、つきあってとねだって、恋に恋をしているだけではないかと思っていたのに。

「そう、か……でも一度ダメだったからってあきらめるのは早いだろう。きっと相手がよくなかったんだ。自暴自棄になって変な男とつきあったんじゃないのか?」

 気を取り直してそう言うと、今度は七海が複雑そうな面持ちになって小首を傾げる。

「そんなに変ってほどでもないと思うんだけどなぁ」

「どんなヤツだったんだ?」

「どんなって……えっと……まあ、遥なんだけど……」

「えっ? ちょっと待て、え、遥? あの遥か?」

「そうだよ。もう別れたんだし細かいことはいいだろ」

「…………」

 逃げるように顔をそむけた彼女を見つめたまま、武蔵は呆然とする。

 遥はかつて誰も好きになったことがないと言っていたし、恋愛にも興味がないようだった。そんな彼がつきあっていた? 自身が面倒を見ている子と? とてもにわかには信じられなかった。

 だからといって彼女がこんな嘘をつくとも思えない。おそらく事実なのだろう。どういう経緯でつきあうようになったのか、別れたのか、詳しいことは聞けずじまいなのでわからないけれど。

 遥のことを信頼して七海を託したのに、なぜ——。

 ふつふつと怒りが湧き上がる。

 どういうつもりであれ、親代わりという立場で七海とつきあったことは許せない。さすがにもてあそんだわけではないと思うが、親代わりとして為すべきことはそれではなかったはずだ。

 ただ、武蔵としても責任を感じていた。自分が別れを惜しむ間もなく故郷に帰ってしまったせいで、彼女は気持ちの整理もできず、それでもどうにか忘れようと必死にもがいていたのだろう。

「……じゃあ、俺とつきあってみるか?」

「え、ほんと?!」

 どうすれば彼女のためになるのかは、正直わからない。

 ただ、武蔵を忘れるために好きでもない男とつきあった彼女があまりに哀れで、申し訳なくて、せめて気のすむまでつきあってやりたいと思ってしまったのだ。


 翌朝、地下のジムに行くと遥が一心不乱にエアロバイクをこいでいた。

 武蔵は気安く声をかけてから隣のエアロバイクをこぎ始めるが、彼は七海とつきあい始めたことをすでに聞き及んでいたらしく、冷ややかに難癖をつけてきた。

「いいかげんな気持ちなら手を引いて」

「真面目に考えてるぜ」

 自分のことを棚に上げて保護者面する彼にひどく腹が立ったが、あえてその素振りは見せない。ペダルを踏む足を止め、ハンドルから手を離し、すっと上体を起こして誰もいない真正面に目を向ける。

「七海のことは好きだけど、さすがに恋愛感情ではなかったし最初は断った。望みはないが忘れられないひとがいるってことも話した。それでも七海はあきらめなくてな。そのひとのことを忘れられるかどうか僕で試せばいい、なんて……そんなセリフどこで覚えてくるんだろうな」

 そう言ってハハッと笑った。

 遥はひそかに口をつぐんで動揺しているようだった。どうにか表情を取り繕おうとしながらも、口元はこわばり、瞳も揺らいでいる。それでも武蔵は素知らぬふりをして話をつづける。

「おまえの言うように、七海はもう小さな子供じゃなかった。結婚もできる年齢だっていうし、いまの七海なら恋人として付き合うのも問題ない。俺自身いつまでも澪に未練を残すのはどうかと思ってるしな。いい機会かもしれない」

 そう煽ると、遥は怒りを隠そうともせず横目で睨めつけてきた。

「つまり七海を利用するってこと?」

「お互い納得のうえだ」

「保護者の僕が納得していない!」

 エアロバイクから飛び降りた遥に激しく胸ぐらを掴まれて、武蔵はサドルからずり落ちかける。壁際で待機していた護衛係の二人があわてて駆け出すが、それを片手で制し、蔑むような冷ややかな目をゆっくりと遥に向けた。

「おまえ、七海とつきあってたんだってな」

 瞬間、彼の顔から血の気がひいた。

 うしろめたいことだという自覚はあるのだろう。七海がこの三年半どうしていたのか彼に尋ねたときも、それについては一言もなかったのだ。武蔵の胸ぐらを掴んでいた手から力が抜けていく。

「……もう終わったことだ」

「そうはいっても未練タラタラに見えるぜ」

「いまさらどうこうしようって気はない」

「じゃあ七海とつきあってもいいんだな?」

「僕の許可なんて何の意味もないだろう」

「おまえの立ち位置を明確にしたいだけだ」

「邪魔はしない」

 すっかり頭が冷えたらしく遥はよどみなくそう答えた。しかし意を決したようにグッと表情を引きしめると、乱暴に胸ぐらを掴み直し、武蔵の目をまっすぐ射るように見据えて釘を刺す。

「でも、七海を悲しませるようなことをしたら許さないから」

「恩人の娘なんだ。言われなくても大事にするさ」

 武蔵は手を払いのけ、再び前に向きなおりエアロバイクをこぎ始めた。

 その隣で遥はしばらく無言のまま睨みつけていたが、やがて勢いよく背を向けると、スポーツタオルを引っ掴んでジムをあとにした。


「今日はケーキ持ってきたんだ、食べよ!」

 つきあい始めても、七海との関係はそれまでの三週間とあまり変わらなかった。二、三日おきに七海がやってきて、お菓子を食べながらとりとめのない話をするといった感じである。

 正直、拍子抜けした。

 恋人としてのスキンシップどころか甘い雰囲気にさえならない。それでも七海は楽しそうで十分満足しているように見える。彼女にとってはこれがつきあうという認識なのかもしれない。

 だとすれば、遥ともこういうつきあいしかしていなかったと考えられる。

 遥なら年齢を考慮して手を出さなかったとしてもおかしくない。あるいは七海を守るための形式的な交際だった可能性も捨てきれない。ろくでもない男にひっかかることのないようにと。

 実際のところは遥に聞かないかぎりわかりようがないが、わざわざ尋ねるのも癪にさわる。いずれにしても過去の話なのだ。自分は自分として七海と向き合っていくしかないだろう。


 そうこうしているうちに数週間が過ぎたが——。


「くそっ」

 自室に戻るなり、武蔵はぐったりと応接ソファに身を投げ出した。

 このところ仕事が難航しているのだ。交渉はずっと平行線のままでまったく先行きが見えない。だからといってあきらめるわけにもいかない。この交渉に故郷の未来がかかっているのだから。

 そんな日々の中、七海と過ごす短い時間だけが癒やしとなっていた。とりとめのない話をして無邪気な笑顔を見ることで心が安らぐ。ただ、ここ一週間は顔を合わせることさえできていない。

「会いたい……」

 情けない声が無意識にこぼれた。

 彼女の存在がこれほどまでに大きくなっていることを、彼女をこれほどまでに強く求めていることを、武蔵はそのとき初めて明確に自覚したのかもしれない。


 結局、七海に会えたのはそのさらに一週間後だった。

 交渉はまだ難航しているが、それでも延々と追い込むように議論するのではなく、適切な時間を定めてという方針に変わったのだ。どうやら橘剛三の口添えがあったらしいと聞いている。

「久しぶり、元気だった?」

 約束の時刻になると、彼女は無邪気な笑顔を見せて部屋に入ってきた。あたりまえのように武蔵の隣に腰を下ろし、持参したクッキーを広げてつまみながら、この二週間にあったことを話す。

 本当にいつもと何も変わらない。

 そのことがうれしく、同時にすこしだけ寂しくもあった。会えなくてつらく感じていたのも、会えて気持ちが昂ぶっているのも、それでいて若干緊張しているのも、すべて自分だけなのだろうか。

 クッキーを頬張りながら楽しそうに話している彼女の姿を、あらためて横目で窺う。大きめの半袖Tシャツにデニムのショートパンツという、まったく普段どおりの格好をしているのだが——。

 ごくり、とひそかに唾を飲む。

 白くなめらかなうなじも、深い襟ぐりから覗く素肌も、薄い布地を押し上げる胸も、すらりと伸びた健康的な脚も、あまりに無防備にさらされていて、いままでどうして何とも思わなかったのかわからなくなった。

 ほしい。

 七海のすべてがほしいという強烈な衝動が湧き上がる。これがただの知人や友人でしかないのなら我慢するところだが、彼女は恋人だ。求めても許されるのではないかと短絡的に考えた。

「えっ……ちょっ……や……っ!」

 彼女に手を伸ばし、こちらに顔を向かせながら口づけようとしたら、彼女は逃げるように体をよじって武蔵の顔を押しやった。

「嫌か?」

「あ……その、嫌ってわけじゃないけど……いきなりで……」

 あわてて手を引っ込め、しかし目は泳がせたまましどろもどろで答える。その言葉どおり、嫌がっているのではなく戸惑っているような感じだ。それを認識して武蔵はようやくすこし冷静になれた。

「悪い、こういうことは初めてだよな?」

「え……違うけど……」

 あいつ、手を出してたのか——。

 思わず眉が寄る。守るためにつきあっていたという推測は的外れだったようだ。いつになってもまったく恋人らしい雰囲気にならないので、そういった経験がないものと勝手に思い込んでいたのだが。

「遥とやってたんなら俺もいいよな?」

「それは……そう、だよな……」

 合意の言質は取った。しかしながらどうにも歯切れが悪く、目も泳いでいて、まだ当惑していることが見てとれる。

「ぁ、んっ……」

 腹立たしさを覚えながら強引に覆い被さり口づけたが、彼女はもう抵抗しなかった。おずおずとではあるが武蔵の舌の動きにも応じてくる。そのことに脳がしびれるような快感と歓喜を覚え、夢中になっていく。

「……ん、はぁ」

 口づけを解いたときには、彼女は濡れた唇を半開きにしてくったりとしていた。武蔵はすかさずその体を横抱きにして立ち上がる。

「遥のことなんか忘れさせてやる」

「え……」

 彼女の何とも言えない表情には気付かないふりをして、抱きかかえる両の手にあらためてグッと力をこめると、足早に奥の寝室へと向かった。


 翌日、七海の里親である橘剛三に呼び出された。

 この屋敷にいるかぎり武蔵は何も秘密にできない。使用人からか、護衛からか、きのうの件について剛三に報告がいったらしい。苦言を呈されたものの、結論としては合意のうえなら止めはしないということだった。

 遥もどこまでかはわからないが知っているようだった。廊下ですれ違ったときに射殺すような目で睨めつけられた。その顔はどう見ても保護者としてのものではなく、嫉妬する男のものだった。


「あぁ……っあ、ん……!」

 それからは、毎回ではないもののたびたび体を重ねるようになった。

 引き締まった健康的な肢体、豊かな胸、ハリのあるなめらかな肌——七海の体は客観的に見ても極上といえる。感度もよく、声にもそそられ、武蔵は年甲斐もなく夢中になっていた。

 ただ、彼女のほうはまだ戸惑いを拭えないでいるようだ。どこか遠くを見ながら心をさまよわせているというか、目のまえの武蔵を見ているようで見ていない感じで、焦ることも多々あった。

「七海……っ、俺を見ろ、おまえを抱いてるのは俺だ……っ!」

「ん……ぁ、あ……ぁあん!」

 潤んだ漆黒の瞳がぼんやりと武蔵を捉える。

 けれど、やはり武蔵を武蔵として見ていないような気がした。武蔵はグッと奥歯を噛みしめ、自分を刻みつけるように何度も強く腰を打ち付ける。それ以外にどうすればいいかわからなかった。


 季節は夏から秋へとうつろい、そして冬になろうとしていた。

 ただ、自由に外に出られないので季節の実感はあまりなく、七海ともあいかわらず屋敷内でしか会っていない。お菓子を食べながら話をしたり、体を重ねたり、一緒にトレーニングをしたり、表面上は順調といえる交際をつづけていた。


「え、僕の部屋?」

 そう七海に聞き返され、武蔵はティーカップを置きながら言葉を継ぐ。

「いつも来てもらってばかりだし、たまにはいいんじゃないかと思ってな。七海の部屋を見てみたいってのもあるし。まあ嫌じゃなければだが」

「嫌じゃないよ! いまから行こう!」

 彼女はパッと顔をかがやかせてそう言うと、待ちきれないとばかりに勢いよくソファから立ち上がる。武蔵は驚いて目を瞬かせながら隣の彼女を見上げた。

「いまからっていいのか? 片付いてるのか?」

「いつもちゃんと片付いてるよ」

 彼女は笑って武蔵の手を引く。

 これまで一度も自室に誘われたことがなかったので、もしかしたら入れたくないのかもしれないと思っていたが、そうではなかったらしい。武蔵はほっと小さく息をついて立ち上がった。


「え……あ、今日は仕事だったんじゃ……」

 七海と武蔵が扉を開けて入ろうとしたところで隣室の扉が開き、遥がひょっこりと顔を出した。彼女はひどく気まずそうな顔をしてしどろもどろになるが、遥は平然としたまま答える。

「予定が変わったんだ。今日はだいたいずっと部屋にいるから、時間ができたら来てくれる? 進路について話そう」

「うん、わかった」

 七海がどうにか気を取り直したように頷くと、遥は部屋に引っ込む。

 なるほどな——どうやら遥が不在の予定だったので武蔵を連れてきたようだ。武蔵を部屋に入れたことを知られたくなかったのか、あるいは一緒にいるところを見られたくなかったのか。

「えっと、どうぞ……」

 難しい顔をしたままじっと考え込んでいると、七海はきまり悪そうにおずおずとそう声をかけて、武蔵を部屋に招き入れた。


 彼女の部屋はシンプルで、本人の言ったとおりきれいに片付いていた。

 そもそも物が少ないのだ。そんな中、目についたのは本棚に飾られたイルカのぬいぐるみだった。それは父親の形見ともいえるもので、いまでもこうして大切にしているのだとわかり胸が熱くなる。

「お茶とか何か飲む?」

「さっき飲んだし俺はいいよ」

「ん、じゃあ僕もいいかな」

 七海は使用人に内線電話をかけようとしていたようだが、そう言うと受話器を置き、イルカのぬいぐるみを見ていた武蔵の隣にやってくる。

「それ、覚えてる?」

「忘れるわけないだろう」

「そうだよな」

 真面目に答えた武蔵に、彼女は軽く笑いながら同調した。

 直後、背後でガタンと大きな物音がした。どうやら壁の向こうの遥の部屋から聞こえてきたようだ。偶然なのか、故意なのか——武蔵は思わず眉をひそめて内心で舌打ちしたものの、すぐに真顔に戻る。

 きっと遥は聞いている。聞きたくないと思いつつも聞き耳を立てずにはいられないはずだ。そうして腹立たしさのあまり物に当たってしまったのかもしれない。しかし彼には止める権利などない。

「七海……」

「えっ、何? や、ちょっ……んぅ……」

 抱き寄せて顔を近づけると軽く抵抗されたが、構わず口づける。

 彼女は戸惑いながらもそれ以上は拒まなかった。舌を絡める武蔵の動きにもおずおずと応じてくれる。しかしベッドに押し倒すと途端に顔色が変わった。

「待って、ここじゃダメだって」

「遥がいるからか?」

「……声とか聞かれたら気まずいし」

「つきあってるって知ってるだろ」

「そういう問題じゃない」

 組み敷く武蔵をあわてて押し返そうとするが、退くつもりはない。彼女の腰にまたがったまま両手首を押さえつけ、動きを封じたうえで、額が触れそうなほど顔を近づけて声を低める。

「まさか、遥に未練があるんじゃないだろうな」

「……そんなんじゃない」

 彼女の体からすこし力が抜けた。

 すかさず衣服をはだけさせつつ体に触れていく。もう彼女は抵抗しなかったが、口元に手の甲を押しつけて必死に声を抑えていた。それでも弱いところを攻めると次第に堪えきれなくなり——。

「七海、いいな?」

「んっ……ぁ……あ、あぁ……ッ!」

 きっと隣の部屋にいる遥にも届いているだろう。

 思い知ればいい。いま七海にこんな声を上げさせられるのは武蔵だけなのだ。たとえ互いにどれだけ未練を残していたとしても。ふるふると首を振って涙をこぼす彼女を見下ろしながら、武蔵はグッと眉を寄せた。


 最低だ——。

 武蔵は隣で静かに眠る七海を見下ろし、溜息をつく。

 彼女はあきらかに嫌がっていたのに強引に体を重ねた。いまだに七海に気持ちを残している遥にも腹が立ったし、遥に聞かれたくないと必死になる七海にも腹が立った。焦っていたのだ。

 罪悪感を覚えながら、彼女の目尻に残っている涙のあとをそっと指で拭う。彼女は小さく身じろぎするが、目を覚ましたわけではないようだ。そのまま甘えるように大きな手に顔を寄せてくる。

「ん……は、るか……」

 目のまえが一瞬で真っ赤に染まった。

 夢うつつの幸せそうな声音で呼ばれたのは、自分の名前ではない。それでも武蔵は突き放すことも追及することもできず、グッと奥歯を食いしばって息を詰めたまま、ただじっと耐えていた。


 それから一か月。

 武蔵と七海はいままでどおり交際をつづけていた。あれから特に気まずくなったということもなく、変わらない日々を過ごしている。性的な行為のときに見せる遠いまなざしもそのままだ。

 もういいかげんわかっていた。武蔵を好きだというのは本当だろうが恋愛ではなかったのだ。彼女自身が思い違いをしていたようだし、もしかしたらいまだに気付いていないのかもしれないけれど。

 このまま目をそらしつづけていても誰も幸せにならない。本気で彼女のことを好きになってしまっただけにつらいが、本気で彼女のことを大事に思っているからこそ、武蔵は決断した。

「七海、俺と別れてくれ」

「えっ?」

 隣の彼女はきょとんとして振り向く。

 突然のことで、にわかには事態を飲み込めないでいるようだ。しかし武蔵の表情を目にして、どうやら嘘でも冗談でもないのだと悟ったらしく、混乱したような不安そうな面持ちになっていく。

「……なんで?」

 武蔵はひどく胸が締めつけられるのを感じながらも、用意した答えを返す。

「七海のことはいまでも好きだ。でもそれはあくまで家族や仲間みたいな感覚で、恋人としてじゃなかった。付き合ううちに馴染んでくるかと思ってたけど、どうしても違和感が拭えなくてな」

「……そっか」

 彼女はうつむき、いまにも消え入りそうな声で言葉を落とした。ソファの上に置いていた手をゆっくりと握りしめると、静かに顔を上げ、どうにかこうにかという感じでぎこちなく笑ってみせる。

「そういうことなら仕方ないよな。いままでつきあってくれてありがとう。武蔵と一緒に過ごせてうれしかった」

「俺も……七海と過ごせてうれしかった。おまえの幸せを祈ってる」

 それは嘘偽りない心からの言葉だった。

 けれど伝わったかどうかはわからない。彼女は泣きそうに顔をゆがめると、それを隠すようにうつむいてソファから立ち上がり、そのまま振り返ることなく武蔵の部屋をあとにした。


 それから二日。

 年末年始で仕事もなく、ひとりで過ごしていたところへ遥がやってきた。

 和服姿だったので驚いたが、正月ということで次期当主として盛装する必要があったらしい。彼についてきた使用人が紅茶と菓子を用意しているあいだに、向かいのソファを勧める。

 何の用件かは察しがついていた。しかしそれを悟られることのないよう素知らぬ顔をして平静を装う。一方で彼はソファに深く腰掛けてゆったりとした空気を醸し出しつつ、軽やかに切り出す。

「ちゃんと話すのは久しぶりだね」

「ああ、あのとき以来か」

 あのとき——七海とつきあい始めたことを知った遥にジムで絡まれたときだ。喧嘩別れのように彼がジムをあとにしてからというもの、ほとんど口をきいていない。武蔵はだんだんと喉が渇いていくのを感じながら視線を上げる。

「俺を非難しに来たんだろう?」

「もうそんな気はないよ。いつまでも気まずいままでいたくなかっただけ。七海が幸せにしているなら何も言うことはないし、それが続くよう支援もしたい。何があっても七海の味方でいようって決めたから」

 ん——?

 言葉はわかるのに、何を言っているのか理解できない。混乱して思わず眉をひそめたが、直後、ひとつの可能性に思い至った。

「もしかして聞いてないのか?」

「何を?」

 やはりそういうことか。

 七海の許可なく暴露していいものかどうか迷ったが、このままでは話が進まない。すっと背筋を伸ばし、表情を引き締めると、怪訝な顔をしている遥をまっすぐに見つめて告げる。

「おととい七海と別れた」

「……は?」

 彼は唖然とした。それでも武蔵は淡々と言葉を継いでいく。

「七海のことはいまでも好きだ。でもそれはあくまで家族や仲間みたいな感覚で、恋人としてじゃなかった。付き合ううちに馴染んでくるかと思ってたけど、どうしても違和感が拭えなくて……それで別れた」

 七海にも遥にも本当のことを教えてやるつもりはない。そこまでお膳立てしなければ上手くいかないのであれば、縁がなかったということだ。七海にはもっとふさわしい相手が見つかるだろう。遥なんかよりも——。

「つまり、武蔵が捨てたってこと?」

「俺から別れてくれと言った」

 遥は腿のうえに置いたこぶしをグッと握り込むと、平然と答えた武蔵を射殺さんばかりに睨めつけ、呻くような声を絞り出す。

「やることやっておいて、いまさら……」

「抱いて初めてわかったんだから仕方ないだろう。話してるだけのときは普通に楽しかったし、こんな違和感を感じるなんて思いもしなかった。澪には感じたこともなかったのにな」

 事情も知らないくせに責めるようなことを言ってくる遥に腹が立ち、あえて挑発的な物言いをする。せめてもの意趣返しだ。そもそも彼がもっと七海に寄り添っていればこうはなっていなかったのに——。

 ガシャン!

 瞬間、遥がティーセットを蹴散らしながらローテーブルに飛び乗り、固く握り込んだこぶしを頬に叩き込んできた。あわてて護衛係が羽交い締めにするが、それでもまだ憤怒を露わにして武蔵を激しく睨めつけている。

「……放してやれ」

 武蔵は顔をしかめて殴られた頬を押さえると、一瞥して言う。

 護衛係はわずかに驚いたような表情を見せたものの、すぐに拘束を解いた。その場で遥はくずおれるように膝をついてうなだれる。

「最悪だ。何で帰ってきたんだ……武蔵さえいなければ……」

「七海の心を掴めなかったのはおまえ自身だろうが」

 そう突き放すと、彼は再びカッとして殴りかかってきた。

 しかし今度はそのこぶしを片手で払うように受け流し、逆に頬を殴りつける。細身の体は勢いよく床に転がった。その無様な姿を、武蔵はソファに座ったまま冷ややかに見下ろす。

「殴られてやるのは一度だけだ」

「……もう顔も見たくない」

 遥はかすかに震える声でそう言い捨てた。

 そしてどうにか立ち上がり袴についた破片を軽くはらうと、手を貸そうとする護衛係を拒絶し、フラフラとよろけながらひとり武蔵の部屋をあとにした。


「手当てはいい。片付けだけ頼んでくれ」

 内線電話で武蔵の手当てを頼もうとしていた護衛係に、ティーセットの破片と紅茶が飛び散った惨状を示しつつそう告げて、武蔵は寝室に引っ込んだ。

「痛って……」

 頬がジンジンと熱く疼き出したのを感じながらベッドに寝転がり、縋りつくようにシーツを掴み寄せる。けれどそこにはもう七海の痕跡は何も残っていなかった。ただひとつ思い出を除いては——。


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