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ひとつ屋根の下  作者: 瑞原唯子
本編

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第32話 プラチナ

 あれは——。

 むわりと熱がわだかまり、息苦しささえ感じる薄暮の雑踏の中、遥は行き交う人々のあいだからチラリと見えた人影に目をとめた。軽やかな足取りで縫うように進んでその背中を捉えると、飛びついて肩を抱く。

「おわっ!」

 そんな声を上げて前につんのめったのは、富田だ。

 彼は怪訝に振り向き、至近距離で遥と目が合うと小さく息をのんだ。その一瞬で傍目にもわかるくらい顔が紅潮するが、すぐに気持ちを静めるようにそっと呼吸をして、口をとがらせる。

「おまえな、こんなところで何するんだよ」

「富田の背中を見たら驚かせたくなって」

 遥はふふっと笑う。

 こんなふうに後ろから自然に富田の肩を抱くことなど、昔はできなかった。精神的な話ではなく物理的な話である。富田より背が低く、十センチほど差をつけられたときもあったのだ。

 だが、あきらめかけた高校三年生のときに成長期が訪れた。男子にしては低めの身長をひそかに気にしていたので、富田はともかく、男子の平均身長を超えたことは率直に嬉しかった。

 それまではずっと双子の妹である澪と同じくらいだった。男女の違いがあるのに、顔だけでなく背格好までよく似ていたのだ。富田がいまでも二人を重ねて見ているのはそのせいである。

「じゃ、行こうか」

 遥はぽんと背中を叩いた。

 まんまと驚かされてしまったことがくやしいのだろう。富田はじとりと恨めしげに横目で睨んでいたが、それでも遥に促されると素直に歩き出す。その頬はまだほんのりと熱を帯びているように見えた。


 二人が向かう先は同じである。

 仕事のあといつもの店で飲もうと約束していたのだ。予約時間ちょうどに着くと、落ち着いた雰囲気をまとった壮年の男性店員に、あたりまえのようにいつもの個室へと案内された。

 都心の夜景が見渡せる二人がけのソファに並んで座り、メニューに目を通す。この個室には間接照明しかないため、近づかないと読みづらく、必然的に寄り添うようなかたちになる。

「ねえ、シャンパンをボトルで頼んでいいかな。富田と一緒に飲みたいんだけど」

「俺は何でもいいぜ」

 過去の経験上、聞くまでもなく彼がそう答えることはわかっていた。店員を呼び、先日ホテルで七海と飲んだシャンパンの銘柄を告げる。ついでに料理もいくつか適当に頼んでおいた。

「何かいいことあったのか?」

 店員が出て行くと、富田が不思議そうに問いかけてきた。

 シャンパンのボトルを頼んだことは何度かあるが、いずれも誕生日や就職祝いなど何かしらの名目があったので、今回もそうだと考えたのだろう。まあね、と遥はふっと微笑を浮かべて肯定する。

「実は、七海と結婚することになったんだ」

「えっ?」

 驚くのも当然である。数年にわたって七海にふられ続けたあげく、完全にあきらめざるを得ない状況に追い込まれたことを、彼は知っているのだ。我にかえると心配そうにおずおずと尋ねてくる。

「無理強いしたわけじゃないよな?」

「もちろんだよ」

 先日、武蔵にもほとんど同じことを言われたなと、遥はひそかに苦笑する。この急転直下では疑われるのも仕方がないだろう。ただ、富田はその返事を聞くなり素直に信じたらしく、安堵の息をついていた。


「乾杯」

 冷えたシャンパンを二つのグラスに注ぎ、富田と乾杯する。

 芳醇で濃厚な香りを楽しみながらグラスを傾けると、喉の奥がカッと熱くなるのを感じた。今日は酔いつぶれるわけにはいかないので、飲み過ぎないよう気をつけなければと思う。

「で、どうやって七海ちゃんを説得したんだ?」

「ああ……」

 もともと隠す気はなかったので正直に話していく。もちろん拉致事件に関しては全面的に伏せたし、七海を強引に抱いたことも割愛したが、話し合いの要点はおおまかに伝えたつもりだ。

 聞き終わると、富田はゆっくりとソファにもたれて息をつく。

「お互いに言葉が足りなかったってことか」

「何年もすれ違ってたかと思うとくやしいよ」

「……でも、よかったな」

 寄り添うような優しい声だった。

 遥はきらめく都心の夜景に目を向けたまま、つられるように、安堵するように、ふっと表情を緩めてありがとうと応じた。そして一呼吸おくと、すこし真面目な顔になって言葉を継ぐ。

「富田には本当に感謝してる」

「俺は別に何もしてないけど」

「協力してくれただろう?」

 掲げた左手の薬指には、すっかり馴染んだシンプルなプラチナリングが輝いていた。そして富田の左手にも——彼はそこに目を落とし、その存在を確かめるようにそっと右手の親指で触れた。

「俺はただ指輪をはめてただけでしかないけど、おまえが一途に想いつづけた相手と結婚できるなら、この八年が報われたような気がするよ」

 そう、八年だ。

 大学入学後、女子にまとわりつかれてうんざりしていた遥に、澪が思いつきで突飛な提案したのが始まりである。それを聞いて、遥は嫌がる富田に面白半分で協力させてしまった。まさか八年も続けることになるとは夢にも思わずに。

「やっぱり本当はつらかったよね?」

「いや、そうじゃないけど……」

「人生のいい時期が台無しになったし」

「俺はそんなこと思ってないからな」

 あわてて訴える彼に、遥は横目で淡く微笑んでシャンパンに口をつける。

 自由恋愛する権利を奪われたうえ、同性愛者だと陰口をたたかれたり、遥と別れてほしいと詰め寄られたり、ときには不条理な暴力をふるわれたりと、偽装恋人など彼にはデメリットしかない。

 だが、いくら終わりにしようと提案しても受け入れようとしなかった。それどころか逆に続けようと説得してくる始末である。遥はその自己犠牲的な優しさにただひたすら甘えてきたのだ。

「ほんと富田ってお人好しすぎるよね」

「別に、おまえが思うほどじゃない」

「八年も付き合ってくれたのに?」

「……俺がそうしたかったってだけだ」

「そういうことにしておく」

 遥が軽く笑うと、富田はどこかきまり悪そうな面持ちで目をそらし、グラスに残っていたシャンパンを一気にあおった。遥はワインクーラーに冷やしてあったボトルを取り、空のグラスに注ぎながら言う。

「富田は何か困ってることない?」

「ん、今のところは特にないけど」

「何かあったら遠慮なく言って」

「ああ」

 富田は曖昧にはにかんで答えた。

 彼の捧げてくれた八年は決して安くない。本当は相応の対価を支払うべきだと思っているのだが、彼はどうしても受け取ろうとしない。友情を金で買われるようで抵抗があるのだろう。

 だから彼と同じような方法で返すしかないのだ。頼まれたらどんなことでも可能な限りきくつもりでいる。ただ彼の性格上、あまり遥に迷惑をかけるようなことは望みそうにない。

 彼の八年に見合うだけのものはなかなか返しきれないだろう。それでも親友としてのつきあいを続けていくなかで、自己満足でしかないが、すこしずつでも返していけたらと思っている。

 注ぎ終わると、ボトルをワインクーラーに戻してソファに座り直す。それを待ち構えていたかのようなタイミングで、富田は無造作にテーブルに手を置いたまま、ちらりと横目を向けて尋ねてきた。

「指輪、外さないといけないんだろ?」

「そうだね」

 七海と婚約したからといって勝手に外すのも失礼なので、今日、富田に報告してから外そうと思っていた。当然ながら富田にも外してもらう必要があるのだが——。

「僕が外すよ」

「えっ?」

 信用していないわけではない。

 外してと頼むだけなどあまりにも薄情な気がしたのだ。自分のわがままで八年も嵌めさせた指輪を、自分のわがままで外してもらうのだから、自分が関わるのが筋だろうと結論づけた。

 彼の左手を取り、様子を窺いながらそっと自分のほうへ引き寄せる。明らかに戸惑っているが抵抗する気はないようだ。薬指の指輪をつまみ、すこしずつずらしながら慎重に引き抜いていく。

 外れた——関節で若干もたついたものの、さほど苦労することなくきれいに抜くことができた。そのプラチナの指輪を夜景にかざすように眺めてから、シャンパングラスの足下に置く。

 そうして一息つくと、今度は自らの左手をすっと彼のまえに差し出した。

 その意図を理解したのだろう。彼はごくりと唾を飲み、壊れ物でも扱うかのように優しく手を添えると、プラチナの指輪を丁寧に引き抜いた。それをもうひとつの指輪にそっと寄りかからせる。

 繊細な泡のはじけるシャンパンの下で、一対の指輪はろうそくの灯りを受けてやわらかく輝いた。とても偽装とは思えない雰囲気だ。説得力を求めてプラチナにしたことが功を奏している。

「ふたつとも富田にあげるよ」

「えっ?」

 虚を突かれたように、彼は目をぱちくりさせて振り向いた。

 遥はくすりと笑うと、当惑している彼の左手をもういちど掴み寄せて、外したばかりの二つの指輪をその手のひらに落とした。カチン、とプラチナがぶつかりあって硬質な音を立てる。

「持っててもいいし、捨ててもいいし、売ってもいいし、好きにしてくれて構わない。売ればお小遣いくらいにはなると思う」

「…………」

 黙って話を聞いたあと、富田はゆっくりと手の中にある指輪に目を落とし、そのまま固まったように動かなくなってしまった。

「富田?」

 怪訝に思い、声をかけて覗き込もうとする。

 その動きを察知してか、彼は何でもないのだとアピールするかのように、どことなくぎこちない笑みを浮かべて顔を上げた。手のひらに置かれていた二つの指輪を握り、その手を軽く掲げる。

「もらっとくな」

 そう言い、ごそごそとスラックスのポケットにしまった。

 感傷的になってるのかな——遥はシャンパンに口をつけながら横目を向けて、思案をめぐらせる。八年も続いたことが終わるのだからわからないでもない。片時も外さなかった指輪にも愛着を感じているように見えた。もしかしたら友情の証のように捉えているのだろうか。

「指輪がなくても僕たちは変わらないよ」

「……ああ」

 目が合うと、富田はうっすらと笑みを浮かべて頷いた。

 二人はあらためてシャンパングラスを掲げて乾杯する。いつまでも変わらない友情を誓って。そのどちらの手にもくっきりと残っている指輪の跡が、消えてなくなってしまっても。


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