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ひとつ屋根の下  作者: 瑞原唯子
本編

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第22話 名前のない関係

「おまえもただの男というわけか」

 剛三は正月ということで身に着けていた羽織袴のまま、革張りの椅子にゆったりと身を預けて溜息をついた。その表情は渋い。正面で背筋を伸ばして立つ遥にあきれたような視線を送る。

「激情にまかせて殴りつけるなど愚の骨頂だ。今回は罪に問われないが、おまえのしたことは十分傷害罪になりえるのだぞ。目撃者が二人もいるのだから言い逃れはできない。復讐したいのなら頭を使って上手くやるのだな」

「申し訳ありません」

 遥は素直に頭を下げた。

 今朝の諍いについては原因も含めて剛三に報告されている。この屋敷で彼に隠しごとをするのは不可能だといっていい。半年前に遥と七海が別れたことも、そのあと七海と武蔵が交際を始めたことも、当然のように把握されていた。

 剛三が危惧しているのは、直情的な行動により足をすくわれることである。些細な過ちが命取りになりかねない立場なのだ。どこで誰が手ぐすねを引いているかわからない以上、常に冷静に対処しなければならない。

 だが今回にかぎってはそういう心配はないだろう。武蔵の存在自体が秘匿されているため表沙汰にできないのだ。そこまで計算して殴りかかったわけではないが、頭のどこかで承知していたのかもしれない。

 遥としては何より殴り返されたことが不覚だった。頬はすこし腫れが引いたもののまだジンジンと疼いている。武蔵のほうが身のこなしも腕力も上ではあるが、落ち着いていればあのくらい防げたはずだ。

「良かったではないか」

 つらつらと考えごとをしながら頭を下げていた遥に、予想外の言葉が降った。怪訝に顔を上げると、剛三は椅子にもたれたまま鷹揚に腕を組み、意味ありげな笑みを口元にのせていた。

「まだあきらめておらんのだろう?」

「……あきらめたくはありません」

「それならば早くよりを戻すのだな」

「努力します」

 遥は抑揚のない声でそう答えたあと、わずかに目を伏せた。

 言われるまでもなくそうしたいと考えてはいたが、簡単なことではない。七海は離れても振られても一途に武蔵を想い続けている。事実、まだ武蔵が好きだからとすでに一度断られているのだ。


 年末年始の休暇が終わるころには、頬の内出血はほぼ消えていた。

 長期休暇中だったのは不幸中の幸いである。殴られた痕跡を残したまま会社に行けば、後継者という立場ゆえにあることないこと騒がれ、おかしな噂を立てられていたかもしれない。

 武蔵とは顔を合わすことさえ滅多になくなった。これまでは話をしないまでも出くわすことは度々あったが、いまは食事も自室ですませ、仕事へ向かうときくらいしか出歩いていないようだ。

 そして七海とは——。


「週末、映画に付き合ってくれない?」

 七海の冬休み最後の日、彼女に請われて数学の問題を教えたあと、緊張を押し隠してさらりとそう切り出した。彼女は問題集とノートを閉じようとした手を止め、微妙に困惑の表情を浮かべる。

「何の映画?」

「これ」

 遥がそう言いながら机のひきだしから取り出したのは、アメリカのミステリ小説を原作とした映画の前売り券である。日本での公開は今週末だが、本国では二か月前に公開されて高い評価を受けているらしい。

「あ……ちょっと行きたいかも」

「じゃあ行こうよ」

 控えめに興味を示す七海に、遥は焦燥感を悟られないよう注意しながら後押しする。それでも彼女はまだすこし迷っているようだったが、しばらくすると曖昧にはにかんで頷いた。


「うー……なんかもやもやするっていうか、腹立つっていうか」

 土曜日の昼すぎ、約束したとおり二人で例のミステリ映画を観た。しかし上映が終わるなり、七海は思いきり眉を寄せてそんなことをつぶやく。遥は座ったまま隣の彼女に視線を流してくすりと笑った。

「確かに後味は悪いよね」

「あのラストはなぁ」

 ミステリ・サスペンスという分類になっているものの、重厚な人間ドラマに重きが置かれており、事件を解決して大団円という類の話ではなかった。遥としては現実の理不尽さを突きつけるこの結末も悪くないと思うが、七海の好みではないだろう。

「今度はもっと楽しそうなのにしようか」

「……うん」

 今度があるとは考えてもいなかったのだろう。七海はきょとんとして流されたように返事をする。驚いてはいるものの嫌がってるようには見えない。遥はひそかに胸をなで下ろした。

 しばらくして退出の人混みがまばらになってきたころ、二人は席を立った。


「坂崎?」

 シネコン直結のエレベーターで一階に下りて、エントランスを歩いていたとき、雑踏にまぎれてふいにそんな声が聞こえた。七海の名字は坂崎だ。七海も遥もつられるように振り向く。

「え、二階堂?!」

 七海が甲高い声を上げた。

 そこには彼女が中学時代から親しくしている男子がいた。休日なのでダウンジャケットにジーンズという私服姿だ。半年前に見かけたときよりも背が伸びている。もう遥の身長を超しているかもしれない。

「こんなところで坂崎に会うなんて驚いた」

「僕もだよ」

 二人はそう笑い合った。通行の邪魔にならないよう端に寄りつつ話を続ける。

「遊びにきたのか?」

「うん、映画を観てきたところ」

「俺はスパイクを買いに来た」

 彼はスポーツ用品店の手提げ袋を軽く掲げて見せる。部活で使うものだろう。高校でも野球部に入り、一年生ながらレギュラーに選ばれているらしい。前回の身辺調査報告書にそう記載があった。

「七海の友達?」

「あ、うん……同じ高校の二階堂」

 背後から白々しく声をかけると、七海は当惑して気まずそうに二階堂を紹介した。彼は遥の存在に気付いていなかったらしく、無言のまま驚いたように顔をこわばらせたが、すぐに我にかえって会釈する。

「こんにちは」

「橘です」

 遥はよそいきの顔で微笑んだ。それが相手に与える影響を十分に承知した上で。案の定、二階堂は逃げるようにわずかに視線をそらした。その微妙な空気を感じ取ったのか七海はおろおろする。

「えっと、僕がお世話になってる家の人でさ」

「知ってる」

 中学のときは、入学式や卒業式の他にも三者面談などで何度か学校を訪れている。そのたびに騒がれていたので七海の友人なら当然知っているだろう。七海の誕生日に高校まで迎えに行ったときも遠くから見ていたはずだ。

「あの」

 ふいに二階堂が切り出した。その目は思いつめたように遥を見据えている。しかし半開きの唇はなかなか続きを紡ごうとしない。「何?」と遥が促すと、緊張をにじませながらも意を決したように口を開く。

「あなたと坂崎さんはどういう関係なんですか?」

「簡単に答えられるような関係ではないね」

「それは、保護者だけじゃないってことですか?」

「厳密にいえば七海の保護者は僕ではなく祖父だ」

 望んだ答えが得られなかったのだろう。二階堂は傍目にもわかるくらい不満そうな顔になった。

「君は何を聞きたいの?」

 見当はついているが、わざわざ意を汲んで答えてやる義理はない。聞きたいことがあるならはっきりと言えばいい。そう挑発するように冷ややかな声音で聞き返すと、二階堂は顔をしかめて遥を睨んだ。

「立場を利用して交際を強要してませんか?」

「仮にそうだとして、素直に認めると思う?」

「…………」

 彼はおそらく七海の誕生日に校門前で目撃していたのだ。遥が七海の頬に手を伸ばそうとして拒否されたところを。そしてそのあと彼女が仕方なしに車の助手席に乗ったところを。それしか知らなければ強要していると思うのも無理はない。もちろんいくら騒ぎ立てたところで何の証拠もないのだから、心配はしていないが——。

「ちょっと待てよ!」

 重い空気を破ったのは七海だった。その頬は紅潮している。

「遥がなんか思わせぶりなこと言ってんだけどさ、強要も何もそもそも付き合ってないからな。何度もそう言ってるのに何で信じてくれないんだよ。そんなに信用ない?」

「あ、いや……ごめん」

 二階堂はきまり悪そうに詫びるが、付き合っていないと信じて納得したわけではないはずだ。しかし当の七海にここまで強く言われてしまった以上、もう追及はできないだろう。すくなくとも彼女の前では。


 二人は二階堂と別れ、チョコレートショップの二階に併設されたカフェに入った。

 これまでにも何度となく七海と訪れていたところである。チョコレートの名店だけあってチョコレートパフェが絶品なのだ。ただ、ひとりでは来ていなかったのでおよそ半年ぶりである。

 窓際の席に案内され、二人でメニューを見ながらデザートとドリンクを注文する。遥はチョコレートパフェ、七海はブリュッセルワッフルだ。どちらにも名物のチョコレートアイスがふんだんに使われている。

「ごめん、なんか二階堂が暴走して」

 エアコンの暖房が効きすぎるくらい効いたなか、七海は冷たいグラスの水を飲んで一息つくと、そう切り出した。

「でも否定しなかった遥もどうかしてる」

「過去に交際していたのは事実だからね」

「強要はされてないけど?」

「立場だけで強要になることもあるから」

「うーん……」

 立場的に優位な者からの要求は断りづらい。たとえば里親と里子の関係であれば、断ったら家を追い出されるかもしれない、生きていけないかもしれない、そう考えて意に沿わない承諾をすることはありうる。

 二階堂もおそらくそのあたりのことを心配していたのだろう。彼に悪気があったわけではない。七海が好きだからこそ黙っていられなかっただけである。そのくらいは七海もわかっていると思うが——。

「なんだよ」

 無遠慮な遥の視線に、七海は居心地悪そうに眉をひそめる。

 遥はグラスの水を飲んでゆったりと椅子にもたれた。意図的に表情を消してポーカーフェイスを作ったまま、ちらりと七海に目を向けて言う。

「二階堂君にずいぶん好かれてるみたいだね」

「……中学のときに告白されたことはあるけど」

「へえ、それでどうしたの?」

「遥と付き合ってたし断るに決まってんじゃん」

「じゃ、いまあらためて告白されたらどうする?」

「二階堂と付き合うとか考えられない。無理」

「そう」

 それなりに親しくしているのに無理とまで言われてしまった彼には、男として同情を禁じ得ない。ただ遥としては安堵した。自分はかつて付き合っていたのだから無理ということはないだろうし、望みは十分にあるはずだ。

「なら、僕と付き合うことを考えてみてほしい」

「……まだ武蔵のことが好きだって言ったけど」

「それでも構わない」

 七海の目を見つめて真剣に告げると、その瞳が揺らいだ。すかさず付け入るように畳みかける。

「そもそも僕らはそこから始まったんだからさ、またそこからやり直せばいい。これからまた二人ですこしずつ積み上げていこうよ。何なら僕を利用するくらいの気持ちでも構わない」

「……ごめん」

 七海はうつむき、どうにかそれだけ絞り出すように答えた。

 ちょうどそのとき注文したものが運ばれてきた。遥の前にはチョコレートパフェとコーヒーが、七海の前にはブリュッセルワッフルと紅茶が並べられる。ワッフルはチョコレートアイス、バニラアイス、生クリームが添えられた豪華なものだ。

「食べようか」

 遥は何事もなかったかのように声をかけた。

 先に食べ始めると、続いて七海もフォークとナイフを手に取った。最初こそ気まずそうな顔をして下ばかり向いていたが、食べているうちにすっかり元気を取り戻したらしく、笑顔で声をはずませる。

「やっぱチョコレートアイスはここのがいちばんおいしいよな」

「じゃあまた来ようよ。映画やカフェなら付き合ってくれる?」

「……うん」

 一瞬の戸惑いは見えたが、それでもはにかみながら頷いてくれた。

 いまはこれでいい。望みがあるということは十分に感じられた。二人で楽しい時間を過ごしていれば、いずれ頑なな気持ちも氷解するだろう——このときはまだ、二人の関係についてそのくらい楽観的に考えていた。


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