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ひとつ屋根の下  作者: 瑞原唯子
本編
18/39

第18話 終幕にはまだ早い

 コンコン——。

 部屋の扉が叩かれた。

 遥は手を止めてノートパソコンの時刻表示に目を向ける。まもなく二十二時だ。扉の叩き方や足音からすると七海に違いない。腰を上げかけたものの立たずに座り直し、一呼吸おいてから返事をする。

「開いてるよ、入って」

「うん……」

 戸惑いがちな声が聞こえて、静かに扉が開く。

 おそらくあれからずっと武蔵と過ごしていたのだろう。七海はまだ制服を着ていた。いつもなら何の遠慮もなく中まで入ってくるのに、今日は扉に手を掛けたまま不安そうに立ちつくしている。

「座って」

 窓際のティーテーブルを示しながらそう言うと、七海はこくりと頷いてようやく部屋に入ってきた。遥はノートパソコンを閉じて立ち上がり、ベッドサイドの内線電話に手を伸ばす。

「ノンカフェインのお茶でいい?」

「あ、お茶はいいや」

 七海はきごちない笑みを浮かべて断り、椅子に座った。

 長居をするつもりはないという意思表示だろうか。あるいはここにいたくないという深層心理だろうか。遥は受話器を戻し、何もないティーテーブルを挟んで向かいに腰を下ろす。

「ごめん、お仕事の邪魔して」

「構わないよ」

 胸がざわつくのを感じながらも表情には出さず、さらりと応じる。

 だが、七海はこの部屋に来たときから緊張を隠せていない。話さなければならないことがあるのだろう。どうやって切り出そうか悩んでいる様子が見てとれた。

「あの、プレゼントありがとう」

「ああ……気に入ってくれた?」

「うん、大切に使うよ」

 七海への誕生日プレゼントは執事の櫻井から渡してもらった。中身は財布だ。なるべく彼女の好みに合うものを選んだつもりである。二年半も付き合ってきたのだから外しはしない。

「それとさ……その……」

 ここからが本題のようだ。七海は言いにくそうに言葉を詰まらせてうつむいた。膝の上にのせた手をギュッと強く握りしめる。表情だけでなく全身がこわばっているのがわかった。

 重い沈黙が続く。

 気の遠くなるようなとてつもなく長い時間に思えたが、実際はそうでもない。無意識に息を詰めていたことを自覚したそのとき——七海が顔を上げ、強い意志を秘めたまなざしでしっかりと遥を見据えて言う。


「僕と、別れてほしい」


 冷たい手で心臓を鷲掴みにされたように感じた。

 覚悟はしていたつもりだった。武蔵が帰ってくると聞いたときからこうなる予感はしていた。そして七海が部屋に入ってきたときの様子を見て確信した。それでも現実の衝撃は耐えがたい。

 小さく呼吸をして、遠のきそうになった意識をどうにか繋ぎ止める。黒一色に塗りつぶされていた視界も戻ってきた。最初に映ったのは、表情をこわばらせてじっと返事を待つ七海だった。

「やっぱり僕より武蔵が好きなんだね」

「ごめん……遥のことはちゃんと好きだった。すごく大事にしてもらったし、楽しかったし、付き合ってよかったと思ってる。でも武蔵と会った瞬間、心の奥から気持ちが逆流してきたみたいに感じて……自分じゃどうしようもなくて……」

 その話に嘘はないと思う。

 要するに心の奥底ではずっと武蔵を求めていたということだ。二度と会えないと聞いていたから無意識に抑え込んでいただけで。再会してあらためて自覚した気持ちは無視できないだろう。

「自分でもひどいと思うけど、こんな気持ちのまま遥と付き合えない」

 彼女の声は涙まじりでかすかに震えているように聞こえた。目も潤んでいるが、涙をこぼさないよう必死にこらえているのがわかる。そんな彼女を、遥は眉ひとつ動かすことなく見つめていた。

「僕と別れて、武蔵と付き合うつもり?」

 責めたつもりはないが、そう捉えられても仕方のない口調になってしまった。七海はビクリとして、その顔に冷や汗をにじませながらうつむいていく。

「そういうつもりは……っていうか……」

「多分、武蔵のほうに恋愛感情はないよ」

「わかってる」

 その反応からすると、遥が言うまでもなく一応の理解はしていたようだ。武蔵と暮らしていたころの七海はまだ小さな子供だったので、冷静に考えればあたりまえではあるのだが。

「それでも僕の気持ちは伝えたい」

「そう……じゃあ、ふられたら戻っておいでよ」

「そんな都合のいいことできるわけないじゃん」

「僕はむしろ戻ってほしいと思ってるんだけど」

「無理だよ……そんなの僕が許せない……」

「……わかった」

 戻らないというのは彼女なりのけじめだろう。ふられてもないうちから言い合っても仕方がないので、とりあえず彼女の意思を尊重する姿勢を見せたが、あきらめる気はさらさらない。

「でも、保護者としてはこれまでどおりだから」

「あ……」

 七海は小さな声を落とした。そこまで考えが及んでいなかったらしく、きまり悪そうに目を泳がせながら逡巡したあと、遠慮がちに尋ねる。

「遥はそれでいいの?」

「ふられたからって途中で投げ出したりしないよ。七海が成人するまで僕が面倒を見ることになってるからね。きちんと務めを果たすだけの責任感はあるつもりだから、心配しなくていい」

 答えたことに嘘はないが、責任感よりも役目を誰にも譲りたくない気持ちのほうが大きい。恋人でなくてもせめて保護者でいたいというのが正直なところだ。だからこそ彼女の心情は無視できない。

「もし七海が嫌ならじいさんに相談するけど」

「僕は……別に、嫌だなんて思ってない……」

「それならよかった」

 戸惑いながらも受け入れてくれた七海に、遥はほんのりと笑みを浮かべて応じ、腰を上げる。

「さ、そろそろ寝ないと」

「うん……」

 明日は平日なので学校に行かなければならない。七海は渋々ながらも頷いて椅子から立ち上がった。それでもまだ物言いたげな様子を見せていたが、遥は気付かないふりをして扉のほうへ促す。

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ……」

 扉を開けると、彼女はチラチラとこちらを気にしながらも、結局は何も言うことなく隣の自室へと戻っていく。それを見届けてから、遥は音を立てないようゆっくりと扉を閉めた。


 はぁ——。

 扉を背にして寄りかかり、思いきり息を吐き出しながらうなだれた。緊張の糸がぷっつりと切れてしまったらしく、一気に疲労感に襲われて、そのままずるずると崩れるように座りこむ。

 七海と別れた。

 こんなことになるなんて思いもしなかった。武蔵が帰ってくると知らされたあの日までは。平穏に付き合い続けて、七海が大学を卒業するころに結婚する。漠然とそう考えていたのに。

 だが、まだ終わったわけではない。

 武蔵が七海の告白を受け入れることはないはずだ。七海を恋愛対象と見ていないというのもあるが、そもそも他に好きなひとがいる。もう可能性は微塵もないのに忘れられない相手が。

 勝負は七海がふられてからだ。すぐには難しいだろうが必ずわからせてみせる。叶わなかった幼い憧れにいつまでもしがみついているより、遥といたほうが幸せになれるということを。

 それを実現するにはどうすればいい——蛍光灯の白い光が満ちた部屋の中、遥はゆっくりと顔を上げて前を見据え、冷静に思案をめぐらせ始めた。


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