十六夜
維月は、維心に抱かれて、維心の広大な領地の中にある、維心の持ち宮の中でも、殊に美しいと言われる宮を見て回った。維心の領地には維心自身の大きな結界が張ってあり、危ないことなど何も無い。なので、二人は、本当に二人きりで、あちらこちらを見て回った。
そして、滞在する宮を選んでは、そこを侍女に知らせ、侍女達が準備をして、そこで休むという毎日を送っていた。中でも維月が気に入ったのは、北の宮と呼ばれる露天風呂のある宮で、静かでひっそりと、隠れるようにある静かなところだった。
「ここは、我が生まれた場所であっての。」維心は、維月の肩を抱いて、二人で月を見上げながら言った。「母は人であった。我が父は、我を生めば母が死するのを、知っておったのだ。それなのに子をなして、我を生ませた。我は、それがどうしても許せなかったのだ。なので、成人して時が満ちるのを待ち、父を弑した…思えば、我は恨みだけの幼少期、青年期を過ごしたものよ。」
維月は、維心の背を抱きしめた。
「維心様…。」
維心は、そんな維月を見て、ふっと笑った。
「何を憂い顔をしておる。我は今は幸福であるぞ?何よりと望んだ妃を迎え、こうしてここで二人で過ごしておるのだ。維月…主と出会って、我は何と幸運であったのか。我は感謝しておるのだ。主が我の側に居てくれることに。我に愛するということを教えてくれたことにの。」
維月は、それを聞いて涙ぐんだ。
「私は…最初、どれほどに失礼でありましたことか。維心様が信じられず、長くお答えいたしませんでした。今では、とても後悔しておりまするの。もっと、早くに維心様を知って、信じておれたらと。」
維心は、首を振った。
「何を申す。良いのだ。我とて、あの頃は浅はかであった。あの時無理に娶らずで良かったと、今本当に思う。想い合って愛し合うのが、真に幸福なのだと知った。此度は、これで良かったのだ。」と、月明かりの中、維月の頬に触れた。「さあ…もう休もうぞ。褥へ参ろう。今夜も、退屈はさせぬぞ。」
維月は、ぽっと赤くなった。
「まあ維心様…。」
正式な婚姻から、もう三週間経っていた。それでも維心は、それは愛情深く、毎日維月を求めて止まなかった。その愛情は、時が経つにつれて余計に増して行くようだった。維月もそれに応えるように、日に日に維心を愛して行った。二人で居ると、心の底から幸福で、落ち着くことが出来た。そんな自分は、ほんの三週間前には想像も付かなかったことだった。
維心に抱き上げられて褥へと運ばれながら、維月は維心の胸に身を摺り寄せた。維心様が居なくなってしまったら、きっと私も生きてはいけない…。
その時、維月はめまいと共に胸を突き上げて来るような不快感を覚えて、慌てて口元を押さえて横を向いた。どうしたんだろう…気分が悪い。月になってから、ついぞこんなことはなかったのに。
維心は、維月の様子に驚いたように見た。
「維月?!どうしたのだ、具合が悪いか?!」
維月は、大丈夫だと言いたかったのだが、胸を突き上げる吐き気に、とても答えられず、ただ頷いた。維心は、慌てて維月の顔を覗き込んだ。
「…何と青い顔を。どうしたのだ、気が乱れておる。」
維月は、嘔吐を繰り返し、褥に伏せてしまっている。維心は、慌ててその背を擦った。
「維月!おおどうしたこと。今朝までは健やかであったのに。何やら顔色が悪いのではと、思うてはおったが、主が何ともないと申すから…。」
維月は、やっとのことで言った。
「少し…疲れたのかもしれませぬ。少し、休めば…。」
維月は、また口を押さえた。維心は、必死に維月を抱き上げると、言った。
「本宮へ!治癒の龍に診せる!」
維月は、とにかく頷いた。それしか出来なかったのだ。
維心は、心配のあまり自分まで顔色を青くしながら、本宮へと一気に飛んで行った。
維心が本宮へと降り立つと、宮は一気に大騒ぎになった。
「治癒の者は全員我の部屋へ!維月が具合を悪くしておる!」
皆は仰天して、宮の中を奥の間へと飛び去る維心を追って飛んだ。なんとしたこと…やっと見つけた王の妃が!
どちらにしろ、こんな時間になって維心が戻ったほどなのだから、その緊急性は分かった。治癒の龍が本当に皆維心の奥の間まで来たので、奥の間から居間、王の居間へと続く回廊は、龍達で鮨詰め状態になった。その上、臣下達まで来たので、奥宮は大変なことになっていた。
維心は、維月を寝台へ寝かせて、その手を握り締めて顔を覗き込んでいる。治癒の龍の長、立花が進み出て膝を付いた。
「王。お呼びでございましょうか。」
維心は、頷いて早口に言った。
「立花か!維月を診よ!」
維心は、必死だった。立花は進み出て、維月に手を翳した。
しばらく、じっと診ていた立花だったが、手を下ろして、首を振った。
「王、維月様は月であられまする。いくら見ようとしても、そのお命は光り輝き、眩しくて見えぬのでございます。ただ、気が大変に乱れておられるのだけが、感じ取れまする。」
維心は、イライラと言った。
「そのようなことは我にでも分かるわ!原因は何かと申しておるのだ、治癒の長が!」
維心は、立花を吹き飛ばして、立花は壁に叩き付けられた。維月が、慌てて維心の手を掴んだ。
「維心様…!立花が悪いのではありませぬ!そのようなこと…私が月であるのが悪いのですわ。」
息を乱しながら、必死に言う維月に、維心は我に返って言った。
「おおすまぬ…主は気にせずで良いのだ。主に何かあってはと、我は…気が気でなくて…。」
維月の手を握る維心の手が、小刻みに震えた。維月は、弱々しく微笑んだ。
「大丈夫ですわ。私は、とても丈夫でありまするから。そのようにご心配なさらずとも…。」
維月は、そこでまた口を押さえた。吐き気が収まらない。維心は、それを見ながら回りの龍達を見て、叫んだ。
「誰か!誰でも良い、維月を診れる者は居らぬのか!維月が苦しんでおるではないか!」
立花も、他の治癒の龍達も、うなだれて下を向いている。維心は、胸が締め付けられるようだった。ほんの数日前までは、壮健だった。もしも…もしも維月が何かの病であったら、どうした良いのだ。こうしている間にも、手遅れになるかもしれない。維月が…維月が自分の側から居なくなるなど、考えられなかった。やっと見つけた幸福なのだ。唯一の、光りなのに…。
「大騒ぎだな。」
聞き慣れない声に、皆が一斉に窓の方を振り返った。すると、そこには見慣れない青銀の神に金茶の瞳の、端整な顔の男が立っていた。その強大な気は、維心にも匹敵するのではないかというほどだった。
結界には、何も掛からなかった。
維心は、警戒してその男を見た。
「…主は、誰ぞ?」
相手は、何の構えもなくこちらへ歩いて来た。
「オレは、十六夜。月だ。オレの片割れが、世話になってるな、維心。」
維心は、驚いて維月を見た。月…維月が、片割れと。
「十六夜…?」
維月が、薄っすらと目を開いて言った。
「ああ。」十六夜は、維月に近付いた。「お前なあ、嫁に行くなら一言言えよ。なかなか帰ってこねぇから、そろそろ迎えに行くかと思ってたところだったんでぇ。」
維心は、十六夜と維月の間に割り込んだ。
「何を言うておる。我の妃ぞ。」
十六夜は、維心を見て目を細めた。
「そうだってな。蒼から聞いたよ。オレは反対じゃねぇから、黙って見てたのさ。だがあまりに維月が嫌がるようなら、迎えに来るかと思ってたんだ。」
維月は、十六夜を見上げた。
「そう…十六夜ったら、やっぱり私の、夫じゃなかったのね。滅多に降りて来ないから、そうだと思ってたけど。」
維心が驚いて維月を見る。しかし、十六夜は答えた。
「あ?お前はオレの嫁だよ。蒼の月の命を作ったろう。」
維心は、首を振った。
「我の妃だと言うておる!」
十六夜は、維心を睨んだ。
「違うと言ってねぇだろうが。それでもいいって言ってやってるじゃねぇか。あのな、維月とオレは対の命なんでぇ。オレ達は陰陽。離れることなんてねぇんだよ。維月を月にしたのはオレだぞ?偉そうに言うんじゃねぇよ。お前には寿命があるだろう。オレ達月は不死。だから、別に今お前も維月の夫でもいいって言ってるんだよ。嫌なら他当たりな。連れて帰るからよ。」
維心は、ぐっと拳を握り締めた。思えば自分は、維月のことをあまり知らない。維月は、月だと最初に会った時から言っていた。その後は、月の屋敷へ帰ることを、自分が許さなかったから…。
維心が黙っていると、十六夜が維月に歩み寄って、その額に触れた。維心が慌てて止めようとすると、十六夜はすぐに放して、言った。
「…なんでぇ。お前のせいじゃねぇか。」
維心は、驚いて十六夜を見た。
「我の?我は維月を下にも置かぬほど大切にしておる。」
十六夜は、ちらと維心を見た。
「だからだよ。腹の子が、維月の気を乱してるんだ。」と、維月を見た。「悪阻みたいなもんだ。直に治る。オレが調整しといてやるよ。」
維月は、十六夜を見て、弱々しく微笑んだ。
「ありがとう、十六夜。」
十六夜は微笑むと、維月に手を翳した。すると、みるみる維月の顔色は良くなって行った。
「…よし。後は、まあ生む時ぐらいだな。大丈夫だよ、オレ達は死なねぇから。」
維心は、呆然とそれを見ていた。子…。子と言ったか?
「…それは…我の?」
十六夜は、あからさまに嫌な顔をした。
「ああ、オレの子じゃねぇな。お前の子だ。気を読んでみろ。ったく、子が出来たぐらいで大騒ぎしやがって。上まで聞こえるってぇの。」
回りの臣下達が、みるみるぱあっと明るい顔になり、そして涙ぐんだ。維心は、沸々と喜びが湧き上がって来るのを感じた。子…我と、維月の!
「おお維月!これほど早ようにとは、思わなんだ!」
十六夜は、けっ、と横を向いた。
「三週間前ぐらいじゃねぇか?気付けよ、結婚したら子が出来ることもあるんだからよ。」と、維月の頬に触れた。「じゃあな、維月。お前、一回あっちへ帰って来いよ。蒼だってほったからしだろう。オレが見てるから問題ないが、何かあったら大変だ。あいつも心配してたぞ、母さんがあんな大きな宮で務まるはずがないってさ。」
維月は、最早顔色も回復して、頷いた。
「わかったわ。」
維心は、維月の手を握って言った。
「何とめでたいことよ。では、婚姻してすぐのことであったのだの。おお、祝いの宴ぞ!」
臣下達が、準備に飛び出して行く。十六夜は、あーあと伸びをした。
「まだ生まれてもねぇのによ。じゃ、オレは帰る。維心、お前維月を独り占め出来ると思うな。あくまでオレがオレの嫁を貸してやってるんだぞ。里帰りさせな。約束できねぇなら、今すぐ連れて帰る。あ、子が生まれたらそれはここへ連れて来てやる。」
維心は、とんでもないとぶんぶんと首を振った。
「そのようなこと!…わかった。わかったゆえ、連れて帰るでない!」
十六夜は、満足したように頷いた。
「最初からそういえば良かったのによ。」と、維月に手を振った。「じゃあな、維月。また来るよ。今度は迎えにな。」
維月は、苦笑しながら頷いた。
「わかったわ。」
そうして、十六夜は光の玉になると、月へと打ちあがって行った。