炎嘉
維月は、回りが騒がしいような気がして目を覚ました。
すると、維心の声が響いた。
「維月!おお…良かった。どうなることかと…。」
維月は、見慣れた奥の間の天蓋と、維心の顔に目を瞬かせた。そして、回りを見ると、治癒の対のたくさんの龍達、それに臣下達で、奥の間は満員御礼状態だった。
「私…いったい?」
湯殿に居たはず。
維月は、額に手を置いた。維心は、維月を横から抱き寄せて言った。
「湯当たりしてしもうての。慌てて湯から上げて着替えさせ、ここへ運んだのだ。治癒の者達はのぼせただけだと申すが、何かの病ではないかと、我は…。」
維心は、少し小刻みに震えている。維月は、やっと思いだした。では、あの後維心様がこちらへ私を運んで…こんなに心配してくださって…って、私裸じゃなかった?!
「ええ?!あの、風呂場で倒れて、着物は?!」
「我が着せた。」維心は、何でもないように言った。「案じずとも、きちんと拭いたゆえどこも濡れておらぬから。」
維月は、真っ赤になった。お世辞にもスタイルは良くないと思うのに、そんな体を見られたなんて。しかも、拭いてもらったなんて。王なのに。
それを見た維心は、慌てて言った。
「どうしたのだ?!顔が赤い、まだ具合が悪いか?!」と、側に控える龍達を見た。「治癒の者!もう良いと申したのではなかったか!」
治癒の龍達が縮み上がる。維月は、維心の形相に慌てて言った。
「維心様!もう大丈夫でございまする!少し恥ずかしかっただけでありますから!」
維心は、ホッとしたように維月を見た。
「なんだそうか。ならば良い。」
龍達も、ほーっと肩の力を抜く。維心は、そんな龍達に言った。
「では、主らは下がれ。ご苦労だった。」
龍達は、ぞろぞろと頭を下げて奥の間から出て行く。それを見送りながら、維月は言った。
「維心様…ご心配をお掛けしてしまいました。いつなり、このようなことはないのに。」
維心は、維月の頬に触れた。
「良い。大事なかったのだから。」と、維月を抱きしめた。「維月…ならばここで。先ほどの続きぞ。良いであろう?」
維月は、びっくりして維心から身を離そうとした。
「あの…まだ、そのような覚悟が出来ませぬの。いま少しお待ちくださいませ。」
維心は、それでも維月を抱き寄せて頬に頬を寄せながら言った。
「なぜにそのように焦らす…我は、今まで女をこのように思うたことはなかった。主のことばかり考えておるのに。これが愛情なのではないのか。我は主を愛しておるのだ。主の言うた通りになったのに、まだ否と?」
維月は、少し悲しげに、下を向いたまま言った。
「お互いに…と。」維心が、維月の頬に口付けていた動きを止めた。「今少し、お待ちください。」
維心は、しばらく黙ってから、頷いた。
「…わかった。」
そして、そのまま目を閉じた。維月も目を閉じてしばらく、すーすーという寝息が聴こえて来た頃に目を開けた維心は、じっと維月の寝顔を見つめた。維月…主は我を愛しておらぬと言うか。我をこのような感情の中へと放り込んでおいて、まだここで一人待てと申すのか。我は主が欲しい。主を愛している…これが愛情なのだ。なのに、主は我を愛してはくれぬのか。我を拒むのか。この想いをどこへ持って参れば良い…!
それから数日後、龍の宮には、鳥族の王、炎嘉が訪れていた。
維心と炎嘉は千数百年来の友人で、炎嘉は金髪かと見まごうほどに明るい茶色の髪に、赤みがかった茶色の瞳の、それは華やかに美しい神だった。炎嘉の来訪が告げられると、侍女達は皆色めき立った…維月は、そわそわとする自分の侍女に言った。
「…どうしたの?炎嘉様がいらしたから?」
その侍女は、少し頬を赤らめて頷いた。
「申し訳ありませぬ。このようではいけませぬのに。」
維月は、首を振った。
「良いのよ。見に参るのでしょう?私は、庭にでも出ておるから、あなた達は見て来なさい。」
侍女は、驚いたように首を振った。
「まあ、そのような。維月様を放ってなどおけませぬ。」
だが、維月は立ち上がった。
「良いと言っているでしょ?私は、たまには一人で庭を歩きたいと思っただけよ。」と、足を庭へと繋がる窓へと向けた。「ではね。」
侍女は、それが維月が気を遣ってのことだと分かっていた。なので、深々と頭を下げると、嬉々としてそこを出て行ったのだった。
炎嘉は、維心と対面していた。
「何ぞ、相変らず。何でも主が選んだとかいう女を妃に迎えて、少しは落ち着いたかと思うたのに、その険しい顔は何ぞ。」
維心は、ふんと鼻を鳴らした。
「何でも良いようにはならぬわ。して、何をしに来た。」
炎嘉は、ため息をついて玉座に座る維心を見上げた。
「ご挨拶よの。主の妃を見に参ったに決まっておるではないか。すっかり変な女が奥宮をうろつかぬようになって、臣下達も安堵しておると聞いたし、その主をそのように扱える妃というものに興味があっての。」
維心は、眉を寄せた。
「何を言うておる。我が妃に会わせるわけなどないわ。見よ、主が来ると宮の女がかしましいてならぬ。」
それを聞いた、仕切り布の間で炎嘉を見ていた侍女達が、一様に固まった。炎嘉は、それに気付いて苦笑した。
「見るぐらい良いではないか、減るもんでもなし。我は己の姿の出し惜しみはせぬ。」
維心は、不機嫌に立ち上がった。
「では、我が政務を終えるまで待て。主が来たとかで会合の途中で呼び出されたのだ。あと一時ほどぞ。ではの。」
炎嘉は、そう言って去って行く維心に、もはや反論する気持ちにもなれなくて、ため息をついて謁見の間から出た。そして、側の大きな窓を見ると、ふらりと南の庭へと出て行ったのだった。
維月は、奥の池の前で、ぼーっと立っていた。
維心が、嫌いではない。むしろ愛おしいと思うようになって来た自分に、維月は戸惑っていた。だが、信じていないわけではなかったが、それでもあの維心が、自分に飽きてまた以前の状態に逆戻りするのでは、と不安でならなかった。正式に妃になって子まで産んで、浮気し放題になった夫に苦しむ自分など、考えたくもない。どうしたらいいのか、維月は本当に分からなかったのだ。
「…主?」
維月は、問いかける声に振り返った。そこには、目が覚めるほど華やかな男が立って、こちらを不思議そうに見ていた。
「あ、あの…宮は、あちらでありまするけれど。」
維月が、道にでも迷ったのかとそう言うと、相手は、首を振った。
「この宮のことは何でも知っておる。それよりも主、珍しい気よな。見たこともない女ぞ。名は?」
維月は、深々と頭を下げた。
「はい。維月と申します。」
相手は、驚いたような顔をした。
「なんと…主は、維心の妃か。」
維月は、まじまじと相手の顔を見た。
「はい…あの、あなた様は?」
炎嘉はまた少し驚いたような顔をしたが、笑って答えた。
「そうか、知らぬか。我は鳥族の王、炎嘉よ。維心は我の友。本日は主の顔を見に参った。」
維月は、袖で口元を押さえた。まあ…これが、炎嘉様。侍女達が騒ぐはずだわ。
維月は、その炎嘉の人懐っこい親しみの持てる感じに、思わず微笑んだ。
「まあ…炎嘉様。初めてお目に掛かりまする。お話は、維心様からも侍女達からも聞いておりまするわ。」
炎嘉は、笑って手を差し出した。
「そうか。良い噂であれば良いが、維心は我を良くは言わぬだろうしのう。だが、侍女達には自信があるぞ。」
維月は、その手を何のためらいもなく取った自分に驚きながらも、ふふと笑った。
「確かにその通りでございまするわ。炎嘉様がいらっしゃると、侍女達も華やいで宮が明るくなってよろしいこと。維心様も、炎嘉様と友であられて少しはお気が晴れるのではありませんか。」
炎嘉は、維月の手を取って歩き出しながら頷いた。
「まあ、我でなくば維心の友など長年出来ぬよ。あれは難しい…女好きとか言われておったが、あれはそんなタイプではない。我は知っておる。」と、まだじっと炎嘉の顔を見ている維月を見た。「それにしても、そのようにじっと見つめられたら、困ってしまうの。」
維月は、ハッとして慌てて横を向いた。そうだった、神世ではあんまりじっと顔を見るのは無作法だったのだわ。
「も、申し訳ありませぬ。私は元は人であったので、美しい方々を見慣れておりませず…つい、このように。無作法でございましたわ。」
しかし、炎嘉は首を振った。
「良い。主に見つめられると心地よい。ほんに、不思議な女ぞ。」と、維月を引き寄せてじっと見つめた。「そうか…あの維心が選ぶだけはあるの。我も主を娶りとうなったわ。」
維月はびっくりして炎嘉から手を放して下がった。
「そ、そのような。お戯れはおよしになってくださいませ。私は、普通の神の女とは違って、とても気が強い上に妃がたくさん居たり、女癖の悪いかたは大嫌いですの!きっと、それだけで神の男は嫌がるのではありませぬか?」
炎嘉は、また首を振った。
「いいや。下々のタチの悪い女好きの王ならばそうやもの。だが、我らほどの格になれば違う。従順な女など飽きたのだ。そんな人形ではなく、もっと個が強い女の方が良い。主は、己というものを強く持っておるだろう。その目の強さを見ても分かる。」と、維月の手をまた握った。「…維心の気がせぬのは始めから知っておったが、それがこれほどに嬉しいとはの。まだ維心の手が付いておらぬのなら、我が娶ってやろうぞ。」
維月は、慌てて後ろへ退いた。
「な、何をおっしゃいますの!わ、私は、維心様の妃でありますわ!」
炎嘉は、首を振った。
「何を言うておる。維心と主がまだ身を繋いでおらぬことは、一目で分かるわ。」
維月は、目を丸くして炎嘉を見た。
「え、ひ、一目で?」
炎嘉は、頷いた。
「そうか知らぬか。ならば教えてやろう。」と、維月を再び引き寄せた。「誠夫婦であるなら、主から維心の気が立ち上るはず。なぜなら体に残すものがあるからだ。その気が己より強いと、他の男は手を出せぬ。本来なら、神世で一番強い力を持つ維心の妃などに、我でも手を出せぬところ。それが、主には維心の気がせぬのだから、何とでも出来るわけぞ。維心は主を、己のものとして守るつもりがないのだろうの。」
維月は、呆然とそれを聞いていた。そうなのか…あれは、そんな意味も持っていたのだ。維心が早く自分のものにしたがるのは、意味があったのだ。
「え、炎嘉様!」維心のことに思いが至って、維月はハッと我に返った。「それでも、私は維心様の妃なのですわ!お放しくださいませ!」
維月がジタバタとしていると、炎嘉は、それをこともなぜに押さえた。
「…他愛も無いの。我に敵うと思うておるとは。」
唇が近付いて来る。維月は、硬く目を閉じた。もう、駄目…っ!!