モジニゲル
たかしくんは、勉強の得意な男の子です。でもこのごろ、テストやプリントを白紙で出すことが続いてしまい、お父さんとお母さんに心配をかけたり、しかられたりしています。そのたびにたかしくんは黙ってそれを受け入れるものの、「僕は悪くない」といわんばかりに唇がとんがっているのでした。
心配になったお母さんは、ある日担任の門司先生のもとへ相談に行きました。すると、先生も優等生のたかしくんの白紙提出を、とても気にかけていました。
「たかしくん、このところなにか悩んでいるみたいですね。授業中の態度は今までと変わりませんし、お友達ともトラブルはないようですけれど、私のほうからも聞いてみます」といってもらえて、お母さんはほっとしました。
「たかしくん、ちょっといいかな?」
たかしくんのお母さんから相談を受けた次の日、門司先生は二〇分休みに図書室へ行こうとしていたたかしくんを呼び止めました。
「なんですか」と銀縁眼鏡の向こうから、訝しげな眼が門司先生を見つめ返します。先生はそれを笑ってかわすと、「うん、ここに来て」と自分の事務机の椅子にたかしくんを座らせて、プリントを一枚ひらりと机の上に置きました。
「何でもいいから、何か書いてみて」
そういわれて、たかしくんは珍しく少し困った様子を見せました。そしてそのあと軽くため息をついて、机の上のジャムの空き瓶に入れて立ててあった鉛筆を一本取ると、名前の欄に西原たかしとやや乱暴な字でさらさらと書きつけました。それだけ書くとたかしくんは鉛筆をプリントの上に転がして、じっと自分の書いた文字を見つめました。先生も、同じように見つめています。
少ししてから先生が残念そうに、「やっぱり私が見てると駄目か……」と呟いたので、たかしくんはぎょっとしたように先生の顔を見上げました。
先生は少し笑って、「たかしくんが何に困ってるか、多分私知ってるの」といって辺りを見回しました。幸い、今この教室に残っているのはたかしくんと門司先生だけです。あとのみんなは、たかしくんが行こうとしていたように図書室か、お天気がいいので校庭で遊んでいるようです。外でボール遊びをしてキャーキャー騒いでいる女子の声を聞きながら、たかしくんと先生はしばらく黙ってお互いを見ていました。
「文字が、逃げてしまうのでしょう?」
先生の言葉を聞いて、たかしくんは思わず息を止めてしまいました。それから、「……何をいってるんですか、先生は大人なのに」と呆れたようにいいましたが、その声は少し震えています。
「学校では、君たちが知らないだけでいろんなことが起きているのよ。書いた文字が逃げてしまって、せっかく解答を埋めたのに白紙になっちゃう子だって、たまにはいるわ」とこともなげに口にしました。
「本当ですか」
たかしくんが、眼鏡のブリッジを押し上げて先生に聞きます。先生はええ、と強く頷きました。
「書いた文字がふわりと紙から浮き上がって、真ん中で左右に分かれて逃げてしまうでしょう?」
「――はい」
今まで口にしたら馬鹿にされると黙っていた秘密を、先生は的確に言い当てました。
「それは、『モジニゲル』の仕業なのよ」
「――名前が安直過ぎませんか?」
思わず突っ込んでしまうと、門司先生は顔を真っ赤にしてプンプンと怒りました。
「仕方がないじゃない! 私が決めたんじゃないもの。妖怪の名前なんてね、安直なものなんです! 小豆とぎとか、砂掛け婆とか!」
「なるほど」
そこでたかしくんはようやくほっと肩の力を抜くことが出来ました。そして。
「一週間前からなんです」とぽつぽつ話し始めました。
塾の成績も学校の成績もいいし、これなら私立中学の受験も大丈夫だろうと、塾の先生から太鼓判を押されたこと。
その翌日、学校での授業中にノートを取っていたら、書いても書いても文字がノートから浮き出てどこかへ逃げてしまって、それが今日まで続いていること。
こんなことを話してもきっと誰も信じてくれないから、黙っていたこと。
静かに話し終えると、先生はたかしくんの頭を撫でました。
「えらいね、一人でよく頑張った。急にこんなことが起きて、怖かったでしょう」
しみじみそういわれて、たかしくんは六年生なのに泣いてしまいそうになり、それを眼鏡のブリッジを押し上げることでごまかしました。
「いいえ。それより、モジニゲルをどうやったら退治できるのか教えてください」と背を伸ばします。ところが、先生のお返事は「退治なんてむりよ」とあっさりしたものでした。
「モジニゲルはね、みんなの書き文字に潜んでいるの。逃げなくてもいつもそこにいる。だから、退治は出来ない」
「じゃあ、どうしたら」
たかしくんが途方に暮れていると、門司先生は「大丈夫よ、対策はあるから」とにっこり笑いました。
その日から、たかしくんの二〇分休みは先生とのモジニゲル対策に費やされました。
「まず、筆記用具を整えましょう。シャーペンじゃなく、鉛筆を用意してきて」
六年生にもなって鉛筆だなんて、硬筆の時くらいにしか使わないのにと思いつつ、たかしくんはちゃんと用意してきました。
「それを、カッターを使って自分で削ってごらん」
図工でしか使わないそれを恐る恐る滑らせ、先を尖らせました。鉛筆削りを使えば早いのにと思いつつ。
「ノートを広げて、下敷きをきちんと入れて。それから、文字が逃げてもいいから丁寧に書いてみて。なんでもいい。計算でも、思っていることでも」
たかしくんはどうせ書いてもモジニゲルになってどこかへ行ってしまうのに丁寧に書くだなんて効率が悪いなあ、と思いながら、今日の日付と天気、給食の献立について書きました。
もちろん、今は先生が見ていますから書いた字がすぐモジニゲルになることはありません。でも、先生が目を離した一瞬で、ノートはまっさらの状態になっているのです。筆圧のかかったあとだけを残して。
くやしそうにノートを見つめるたかしくんに、先生はのんびりと声をかけます。
「残念だけど、特効薬はないの。焦らず、じっくりいきましょう」
「――はい」
焦るなという方が無茶だ、と思いながら、いい子のお返事をするたかしくんです。
先生からお母さんへどう伝えられたのかは知りませんが、たかしくんはしばらく塾をお休みすることになりました。夕方からの時間が自由になっても、優等生のたかしくんは予習と復習を欠かしません。
書いても書いても文字はノートから浮かび上がり、まっぷたつに割れて、走って逃げていきます。手で捕まえようとしてもするりと上手にかわして。
「なんなんだよ、あいつらは……」
たかしくんは、途方にくれました。
二〇分休みをモジニゲル対策に使いはじめて二週間。
カッターで鉛筆を削るのはとても上手に、早く出来るようになりました。たかしくんは鉛筆を削る時の、カッターが木に入る柔らかい感触や、削っている時に心が静かになるのがすっかりお気に入りです。
シャーペンと違ってすぐに先が丸くなってしまいますが、ノートに書きつける時の鉛筆のさらさらという音はいいなあと思います。
ノートには、その日の日付と天気、それから最近ではその時の気分なんかも書くようになりました。逃げていくと分かっていても、きれいにていねいに書かれたノートは、何だかとても素敵です。
でも、今日のたかしくんはいらいらしているようです。それもそうでしょう、なかなか成果は表れないし、図書室に行く時間がなくてちっとも本が借りられないのです。
なので、『はやく元に戻りたい』『塾に戻って遅れを取り戻さないとヤバイ』『ここに残れよモジニゲル!』と書き連ねます。
そして、今までは一行にきちんと収まるように書いていたのに、ノートを左右のページいっぱいに使って『俺には、書きたいものがあるんだよ!!!!!』と大きく記した瞬間。
その文字が、ぴょこんとポップアップカードのように、ノートの上に立ち上がりました。そして、今までのように左右に分かれて逃げるのではなく、もじもじと恥ずかしげに動いています。これではモジニゲルではなく、モジモジルではないか、とたかしくんは思いました。
「そうか、これがたかしくんの本当の気持ちなのね」
先生がそばに来て、一緒にノートの文字を眺めます。それでも、立ち上がった文字はノートに戻らず、ゆらゆらしていました。
「――はい」
たかしくんも、素直に先生の言葉を認めます。
たかしくんは小さい時から本を読むのが好きした。ですから、他の子よりも習っていない漢字を読み書きするのが早く、勉強も得意でした。
たかしくんの両親は、がんばるたかしくんを後押ししたいと思いました。塾へと通わせ、私立中学への進学を決めたのも、たかしくんの可能性を伸ばしてあげたい一心からです。
両親が期待を寄せる一方で、たかしくんはずっと自分の気持ちをいえずにいました。本当は塾も私立進学もどうでもよくて、頭の中に暖めている物語を書きたくて仕方がありません。
自分の将来を考えてくれている両親には打ち明けられないまま塾へ通いだせば、物語を書く時間などどこにもなく、文字は受験のため、暗記のためにだけ書かれるようになりました。
あんなに楽しかった物語も、いつしか書かれないうちに消えそうになっています。
もじもじと揺れているたかしくんの本当の気持ちの周りに、今まで逃げ出して行ったモジニゲル達がぞろぞろと集まってきました。そして、一つ二つと合体していくと、力強く書かれた文字をかこむように、『たかし がんばれ』『おはなし まってる』という文字になって、ノートにすっと納まりました。『か』は鏡に映したみたいに反対だし、『ま』の丸めるところも逆だしお世辞にもきれいな字ではありません。でもこれは、モジニゲルたちからの精一杯のエールです。
「やだな、これ、僕が書いたと思われたら恥ずかしいよ」
たかしくんはテレ笑いをしていましたが、本当はモジニゲルたちの気持ちが嬉しくてたまりませんでした。
「書くよ」
はじめてきちんと書いた、本当の自分の気持ちを見つめてそう静かに宣言すると、もじもじしていた文字は『わかった!』とでもいうように一度大きくはねて、そしてモジニゲル達と同じように、ノートへと戻りました。
ノートに記された言葉たちは、一度ノートを閉じてもう一度開いても、次の日になっても、逃げることなく残りました。そしてその日を境に、たかしくんの白紙解答提出はなくなったのです。
あれからたかしくんは、お父さんお母さんと話をして、私立の受験と塾通いをやめることにしました。予習復習をしても余った時間でちょっとしたお話を書いては、二〇分休みにみんなの前で読むこともあります。近頃では熱心な読者もいるのですよ。
頭の中の物語も、少しずつ書くようになりました。でもとても長いお話なので、なかなか終わりそうにありません。そんな時には、門司先生にいわれた『焦らず、じっくりいきましょう』という言葉を思い出し、そして宝物になったあのノートを開いて、書く力をもらいました。
たかしくんがその小学校を卒業して一〇年、門司先生の元に、一冊の本が届きました。
壮大なスケールで描かれたその本を開くと、最初のページに『門司先生へ そしてモジニゲルたちへ 感謝をこめて』と書かれてありました。