未来を想う人、過去を振り返る人 part2
「ふふ、これでやっと夢が叶うのね……」
ローブが風で持ち上がらないようにきつく胸元と腰の部分を止め、息を切らせてキーブンが雑貨屋に駆け入ると、セルジスは飛び起きるや否や、待ちきれない様子でキーブンから手紙を受け取った。
手紙とはいっても、内容は開けばすぐに読み終わる程度でしかない。なのに、手紙を開いたまま固まって、小さく呟くセルジスの横顔は、弟子のキーブンの欲目を抜いても美しかった。
細まる目元、頬は緩やかに持ち上がり、口元は優しげだ。「単一族の封印」という人間の生死をかけた夢だというのに、決死の悲壮は一切なく、聖母のような微笑み。キーブンが初めて見る表情だった。
思えば、黙っていればその相貌は整っていて、美人な部類だろう。いつもは周囲全てを圧巻するような凄みのある笑みか、悪戯を楽しむ、どこか幼くてずるい笑みか、弟子の出来具合を見守る、僅かな目元と口元だけの笑みか……さもなくば、口付けるときのとろけるような微笑か。後の二つは、キーブン以外がこの町で見ることはまずないだろう。
本当に、なんて綺麗なヒトなのか。
他者を安易に頼らず、自分自身の手で夢を掴み取ろうとする姿は、凛として眩しい。それでいて、良いも悪いも種類はあるが、笑みを絶やさない。自らの自信に溢れる美しさは、触れたいと願わずにはいられないのに触れがたい、高貴な輝きを放っている。
惹かれていく気持ちはある。だというのに、元々彼女なんていたことのないキーブンだから、手に余ることも多い。アーレンの持つ激昂と対になるかのように、父の最期はキーブンの胸に奈落を落ちるに等しい痛みを残していたので、異性と深く付き合おうとは思えなかったのだ。
名家に取り入ろう、あわよくば玉の輿を、学院で出会うクラスメートにはそう願う女子が多くて、くだらない駆け引きにうんざりしていたこともある。キーブンのように優れた術師なら、嫁いだ自分が苦労せずとも楽に暮らせると思っていたのだろう。
そんな、小さな女性ではない。きっとキーブンがこの先にいてもいなくても、彼女は変わらず暮らしていくはずだ。
共にいる時間は、家族よりも長いかもしれない。特に、母が龍の元にいるのでは、近くにいるという感覚はより強い。
母代わりはいる。ルミアの助手の、ラグル。息子同然に育ててもらった自覚はある。家族と変わらず、大切な第二の母だ。
大切な、という繋がりでは、助手であり、一緒に育ったレックス。学生時代に友達と呼べる存在はいなかったので、唯一の友達だ。自分の助手まで務め、心配も隠さず口にしてくれる、無二の友人。
けれど、そういった家族や友を大切に想う気持ちと、セルジスに感じる大切に想う気持ちが、違うのか、同じなのか、キーブンにはどうにも判別がつかない。
恋情なのか、愛情なのか。アーレンの数少ない恋愛模様や、母が時折漏らす父との思い出、カフェや書店にいる間に耳へ入ってくる恋愛論を聞いていると、恋情と愛情は、はっきりとずいぶん違うように思えるのに。
キスに、跳ね上がる心臓は、恋を知らせるけれど。
落ち着いて考えれば考えるほど、恋とは違うような気がするのだ。
だいたい、セルジスの態度だってよく分からない。
不可思議で不思議なヒト。出会ったときから、そうだったかもしれない。
見つかることを前提にかけた封来術だ。かといって、そんなにぞんざいにかけたわけでもない。
十六になったばかりだというのに、研究機関と家とを往復してただひたすら星天学を学び続ける日々。リーン家の当主になるための生活は、趣味はおろか、気晴らしに散歩へ行くことすらレックスにもラグルにも許されない、前年よりも気詰まりなものに変っていた。幸か不幸か、気の許せる人間が熟練した講師と、名家の名を気にも留めない学友だけという、辛いのか楽しいのか分からぬ学院を卒業したことで、家族以外との人との関わりは絶無となっていた。
たくさんの書物に埋もれ、キーブンの記憶力をもってしても覚えきれないほどの封来術を試し……。アーレンのように学院に残らず、家でひたすらに研究し、術を研鑽する。自ら望んだこととはいえ、軟禁状態に近い時間も、一年の三分の二を過ぎると、いい加減にストレスが溜まっていた。目的も何もなく、とにかく外に出たかった。
何時間も見つからずにいる必要はない。第一、弟がいなくなったと知れば、どんな状態であろうと真っ先に兄のアーレンが探しに来るだろうし、そうなれば見つかるのは時間の問題だ。空間への術の行使が得意なアーレンの研究成果を持ち出して、封来術を使って路地裏の一つを他者に見つからないように封じたところで、何の解決にもならないのは分かっていた。それでも時間が欲しかった。
愚かだと分かっていても行動してしまうほど、キーブンは追い詰められてもいた。
家名の重み。次期当主候補の期待。地下洞窟に眠るあんなに……大きな龍を、自分が抑えなければいけないかもしれない、恐怖。
「心話」を使っていた、翼龍。封印は今にも解けるかもしれない。母が倒れ、アーレンが母の回復を待ちながら封印を見張り始めたのは今日のことだ。
自分の迷いを、弱さを、爪や牙よりも鋭く突いた龍が、あの洞穴を抜け出すかもしれない。
家族も、自分も、誰もかれもが死ぬのかもしれない。いや、死んでしまえば、自分が封印が解けかけているかもしれないことを知っていたことも、家を裏切る望みを持っていることも、知られないで済む……。
「どうしたの、調子でも悪いの?」
兄でも母でもない、予想外の誰かから声をかけられて、キーブンは弾かれたように顔を上げた。二十代くらいと思しき見知らぬ女性は、キーブンの目の前に立っていた。
「いえ、あの……どうして?」
「名乗ってくれたら教えてあげてもいいわ。男の子でしょう?」
動揺していたとはいえ無礼を指摘されて、キーブンは慌てて立ち上がった。初対面の女性に挨拶どころか名乗りもしなかったと母に知れたら、どれだけ説教されるか分からない。
誇り高い名家としては、無礼は許されざること。どこの馬の骨とも分からない人物でも、それは変わらない。
「失礼しました。キーブン・クアラ・リーンです」
そう名乗っても、相手はふぅん? という程度の反応しか示さなかった。
学院の男子生徒ならば、時々あった反応。でも、女子生徒はお世辞か本気か、うんざりするほどもてはやそうとするので、その反応は新鮮で、好ましかった。
名前を聞いて、認識した。それだけ。
まるで気のない、反射神経だけで浮かべているような微笑に、予感がした。
「……あの、この袋小路は封じておいたのですが、どうやってこちらまで?」
「ふふ、そんなの。解術しただけよ、誰だってできるでしょ?」
「誰だって……なんて。いえ、そんなことは……。じゃあ、封術式は何を使ったのか分かりますよね? 貴方が本当に解術したのなら」
昨日に引き続き、十六年間出会いもしなかった出来事に見舞われ、キーブンはかなり混乱していた。自分がかけた封来術が、同じく星天学を学ぶ兄以外に解かれたことなど、術の基礎を学んでいた幼少時代以来無かったことだ。それを、まさか、本当に? そんなことありうるのだろうか? しかも目の前の女性はさも易しかったと言わんばかりなのだ。
「彗星『ピーター』が地球から観測されると仮定した場合、観測可能な地域は西方大陸南の絶海であり、この影響によって及ぼされるのは『長き夜』の短期化、それによる単一族の中でも月に影響を受ける水生種族の鎮静化……他も細々使われていたみたいだけど、こんなところでしょ?」
簡単に言うが、彗星の飛来を知る存在が、星天学を知らぬ人間にいるとは思わなかった。星は、夜にならなければ見ることができないし、空に瞬く以上のことを知る者は、この世に手足の指の数ほどしかいないはずだ。
しかも、観測可能な地域、だなんて。西方大陸の南の絶海は、現代の人間の技術では未知数の、渡ることが不可能な広さと気温を有する海だ。行くこともできない場所で観測できることを、しかも、キーブンや弟のゼアニスが生きている間には起こらない現象を、星天学なしにどうやって彼女は知ったのか。
「……どこかで、兄の論文をご覧に?」
「ないと思うけどね。私、昨日この国に来たばかりなのよ」
言いながら手元の質素な手持ち鞄から出した国境通過承認証を開いて見せるあたり、似たような事態には慣れているのだと、雄弁に仕草が語っていた。どこでどう慣れるのか、キーブンには全く不明だが。
ともかく開かれたページの国境通過を示す旅印を見ると、昨日なのは間違いなさそうだった。とりあえず偽造でもされていない限り。
高名な家に生まれついてしまった者の常として、犯罪に巻き込まれかけているのだろうかと疑っていたキーブンだったが、こうも易々解いてしまうということは、術師たる力量は自分以上、少なくともアーレンに匹敵するということ。ならば堂々と家に招待されるように計画することもできるはずだ。そのほうがここで誘拐などするよりも余程実入りが多いように思える。
「封術式はなんという学問か、ご存じですか?」
「え~と……星を見て、未来を視る、が売りの学問だったと思うのだけど……なんだったかしら? 忘れちゃった」
忘れちゃった? ロクに名前を思い出せもしないような状態で、彼女は術を解いたのか。そんなこと在り得るのだろうか?
無茶苦茶だ。
術師としての研鑽を、うんざりするほど磨いている自分になら、この人物がどれほど恐ろしいか分かる。
戯れに封来術を使えるなんて、魔法使いだ。封来術は『魔法』のうちの一体系でしかないために、万能じゃない。何もかもを叶えられる魔法じゃないのだ。不思議な力でもなんでもない。学べば一定領域に達する、学問だ。
予感が、鼓動に変わる。
知識欲、好奇心、恐れ、崇拝、色んな感情がいっしょくたに混ざる。
混ざり合った心が出した答えは、シンプルだった。
この人と、一緒にいたい。
理屈で考えて理由を出すこともできるが、キーブンのそれは、理性よりも感情が出した結論だった。
「女性に対して質問攻めにするのは失礼と思いますが、もう一つだけお許しください。
僕はとても疲れているのです。僕は場所を、あるいは人との関係を、とても求めています。
封来術を継ぐ家にいるので、僕を凌駕する人でなければ、僕は話をすることも満足にできません。
貴女をこの国に歓迎する代わりと言ってはなんですが、僕の師になっていただけませんか?」
その言葉に笑顔を薄くした女性は、温度の低い視線をキーブンに向けた。獣染みた殺気、試すような意地の悪さ、このどちらにも矛盾しない無邪気さ。読み取れた感情はそこまでだったが、彼女は不意に極上の微笑みをキーブンに見せた。
「ありがとう。移住できるなら、それがきっと一番いいわ」
一年前の出会いを思い返している間に、セルジスの美しい笑みは消え、悪戯な無邪気を含んだ微笑にとってかわられていた。
「ありがとう、キーブン。早速行きましょう」
「はい、師匠」
キーブンが持ち込んだ手紙を読んで即刻出かけることを宣言したはいいが、もう学院の授業もとうに始まっている時間だというのにまだ起き抜けだったセルジスは、支度をすると言って奥へ引っ込んでしまった。
レジカウンターから壁一つ挟んで裏手にある作業机の上は一体何をしたものか、虹色の雫があちこちに染みを作り、一切の色彩を失って破片となった鱗が散乱している。
指輪は……と探すと、作業台の脇の小さな棚に絹の布で包んで置いてある。元の虹色をもっとずっと濃密にした、眩しい光を纏う指輪だった。作業工程は何となく想像がつくものの、キーブンにはどんな魔法でもってセルジスがこの指輪を生み出したのか、見当がさっぱりつかない。
「『婚約』指輪、出来ていたなんて、ちょっとびっくりしましたよ」
作業場の右手、店の中で唯一のプライベートスペースである寝室に声を放ると、どたばたと乱暴に着替える音の合間からセルジスの声が返ってくる。
「失礼ね、やるときはやるのよ。私に作れない雑貨なんて無いわ」
「指輪は金持ちぐらいしか持たない貴重品ですし、雑貨とは言えないと思いますが……。
それよりこの指輪、どうやって作ったか教えてください」
「鱗からまず色と水分を抜き取って瓶に移す。鱗を粉々に砕いて型に入れる。最後に七色の水を瓶から型へ落として、出来上がり」
「真面目に答えてください、師匠。師匠の作る物は、失われた古代魔法の力を使っているようにしか見えませんから、概要だけじゃ分からないですよ」
「そう? でも、今日はダメよ、キーブン。忙しいからね。さぁ、行きましょう」
小一時間前にも見た、洞穴の中のルミアに似た寂しそうな笑顔でキーブンの肩を叩くので、胸の奥に疼く痛みを覚えたキーブンは、彼女を止める台詞を口走りそうになった。
――――大丈夫ですよ、師匠。任せておいてください。僕一人で行ってきますよ。
音に変わる寸前でキーブンはその台詞を呑みこんだ。封来術において自分が出来ることはごく一般的に暮らす人間より沢山あるが、そんな自分には出来ないことが少なくないことも心得ている。人と交渉する、ましてや瓢々と騙すなんてことは彼には出来ない。
こんなことを口にしたら、セルジスに笑われてしまうだろう。「貴方一人で何をしに行くの?」と。
第一、寂しそうに見えたのは勘違いかもしれないし、本当に寂しかったのだとしてもその理由も分からないのだから、止めないのが正解かもしれないのだ。
どうして、と訊けばいい。あるいは冗談交じりに言ったっていいかもしれない。いつものセルジスと同じ軽さで。
普段通りに返事が来ないことを不審に思うだろうセルジスに顔を覗き込まれて、瞳の、心の、深い深い感情の音を捉えられる前に、それに気付いて身が竦んでしまう前に。
「はい。行きましょう」
なのに結局、キーブンはそれしか言えなかった。
こうしてキーブンはいつだって、セルジスに触れられない。
ねむねむ……奈々月です。
今回はキーブンとセルジスの出会い編ですね。
この頃のキーブンは、今よりずっと根暗だと思ってます。
友達いないわ、勉強ばっかりしてるわ、何がいけないって、さっぱり他人に興味ないので。
目は口ほどに……と言いますが、目と顔の表情が違う人間にばっかり会っていたら、人間不信も無理ないとは思いますけどね。
さて、次回は物語がちょっと進む、予定です。
あまり間を空けずに更新したいと思います。
それでは、おやすみなさいませ。