未来を想う人、過去を振り返る人 part1
昇り切るには少し早い朝の日差しを浴び、旅人がよく羽織っている裾を引きずりそうなローブを被ってキーブンが身支度を終えたとき、丁度良いタイミングでレックスが部屋を訪れた。
背筋は自然と伸びていて謹直な態度を崩していないが、その表情には疲労が濃く表れている。日が暮れてから今の時間まで一度もキーブンと顔を合わせず配達に勤しんだが、満足に返事がもらえなかったために、日の出直後から彼は話や返答を集めてきたのだ。日の出から動いただけで優に十数㎞は移動しているはずだから、これで疲れないほうがどうかしている。
「御苦労様。どうでした?」
「学院東のカフェから返事が来ています。その周辺からも、ジェスタという人物が人通りの少ない道端でうろうろしているのを見かけたことがある、と口頭で話をいただきました」
「成程……これで、捕まえたも同然ですね」
返信には町のやや南東に位置する食料品店のそばで最近寝泊りをしている二人の男性がいること、うち片方がジェスタと呼ばれていることが書かれていた。顔つきや服装の情報も一致している。
「ありがとう。僕はセルジス師匠のところへ行きますので、ラグルさんに伝えておいてください」
瞬きするほどの間、レックスはキーブンのその台詞に不愉快を露わにしたが、次にキーブンが視線を合わせたときには表情らしきものは綺麗に拭われていた。
「はい。……どうか、お早いお帰りを」
「うん」
封筒をローブの内ポケットに押し込み、レックスの横をすり抜けて部屋を出ようとする寸前、言葉を続けようとする気配を感じてキーブンは足を止めた。振り返るとレックスは少し驚いたようだったが、何も言わずに首を横に振って微笑んでみせた。
「行ってきます」
「昼食までにはお帰りください」
「そうするよ」
レックスに微笑み返してキーブンは部屋を出た。
その姿を見送って、レックスは深く溜め息を吐く。
たぶん、どこかで人に疑心を持ち続けられない育ちの良い彼は、気付いていないのだろう。キーブンの手紙には、決定的におかしな箇所が一点ある。
連れの名前は書いてあるのに、講師となる誰かの名前が書かれていない。手紙の内容からして、重要なのは講師のはずだ。なのに、その名前がない。学術都市として招いているのであれば、キーブンがその名を知らないのは不自然だし、第一、マイスタークラスの講師ならば、少なくとも、同じく高位クラスの講師を務めているアーレンは知っているはず。しかし、アーレンにそれとなく話題を振ったが、講師の入れ替わりはないようだった。
嘘を、ついている。ほぼ間違いなく、手紙の探し人は講師なんかではないのだろう。
わざわざ手紙と助手の足で探すくらいだから、確かに町の人間ではないのかもしれない。本当に探したいのはキーブンではなく、あの雑貨屋の女だろうか。
苛立ちで、つけたばかりの煙草がまずい。元々、美味しいと思って吸っているわけではないが。
雑貨屋の店主であり、キーブンが師と慕うセルジスが、レックスにはどうしても苦手だった。調べても調べてもどこの国から来たのかも、いつからジュヴェールに滞在しているのかも判然とせず、かといって本人と話をすれば、右へ左へと掴みどころがない。
得体の知れない存在であるうえ、リーン家のキーブンよりも封来術に長けている。セルジスに直接聞くといつもはぐらかされるが、キーブンの口から漏れた情報では彼の封来術を解いたことがあるらしい。あの、一族以外学ぶことのない、星天学を行使した封来術を、だ。
星天学は、月と太陽と地球、その位置関係や公転回数、日照あるいは月照時間など、綿密な計算が必要な学問で、ちょっと聞きかじった程度で理解することも、咄嗟に計算して答えを叩き出せる学問でもない。
幼少から学ぶキーブンやアーレンは基礎的な知識と計算が肌に染み込んでいるので暗算に近いレベルで答えを知ることができるが、少なくとも今のレックスには、まず最初に何を計算してその答えを導き出せばいいのか、まるで分からない。まさに、高等学問であるのだ。一族以外が学ぶことがないのは、それ相応の研鑽と深い知識がないことには、そもそも理解することができないからである。
その知識を使っているのに、解術できるなど、何者なのか。レックスが不審に思うのは当然のことだった。
リーン家は星天学の知識において、生体凍結封印を構成する一部を除き、厳重に秘匿しているわけではないから、楽天的に考えるのならば単に天武の才を持つ人間なのかもしれない。
一番恐れるのは、どこかでリーンに連なる人間であること。名家でありながら情に深いリーン家は、レックスやゼアニスといった、リーンの直系ではない者を拾って育てているし、現当主がそうであれば、過去にそういったことがないとは言い切れない。単純に、愛人に産ませた子、という図式だってどこかの代ではありえない話でもない。
「胡散臭い女だ。どこかに、行ってしまえばいい……」
煙草の煙に部屋が刻一刻と覆い隠されていく。しばらくすれば、吐く息で頭がどんよりと重くなっていく。
深く、浅く、呼吸と煙が一進一退を繰り返し、レックスは目を閉じる。セルジスを不審に思う考えは、もう巡らなくなっていた。
師匠の所へ行く、というのは嘘ではない。その前に寄り道をするだけで。
ウェイベンの北、隣国との国境も近いそこには国境審査官のいる関所があり、民家や店の絶えるその通りを十数分歩くと翼龍の封印されている洞窟がある。
巨大な氷が据え置かれているためか、洞窟周辺はジュヴェールの温暖な気候に似合わず通年ひんやりとしていて、それだけで常人にも異質さを感じさせる。
中は一本道で、それほど距離があるわけでもなく、日の光が全く届かぬほどの長さでもないので、明かりが無くてもやや薄暗い程度で充分歩くことが出来る。
道の先に淡く光る氷柱を見つけたら到着だ。大広間のように広がった空間には、見上げれば顎が真っ直ぐに上向いてしまう高さの、翼龍を収めた氷柱がある。
そして、大概はその脇の壁に寄り掛かる、リーン家当主ルミア・エスト・リーンの姿もある。
「キーブンね。おはよう。ここまで来るのは珍しいわね」
前に会ったのは今年の封印の儀以来だから数か月前だというのに、昨日も会っていたかのような挨拶。母さんらしいな、とキーブンは柔らかく笑う。
「何となく……かな。もう十七ですし、夢に見るんですよ」
「当主になる夢?」
「いえ、龍に食べられちゃう夢です」
キーブンとしてはあくまで半分冗談だったのだが、ルミアは眉をひそめて思案気な顔をした。もう半分の含むところに勘付かれたのかと、慌てて言い繕う。
告白するにしても、順序立てないと何を口走るか自分でも分からない。
「冗談、ですよ?」
「そうなの? キーブンは、あまり冗談なんて言うイメージ無いけど」
「たまに母上に会った時くらい、いいじゃないですか。それとも、当主様にそんなこと言ってはいけませんか?」
おどけてキーブンが言うと、ようやくルミアは笑顔になった。
端正な、しかし疲労の色濃い母親を久々に見て、年を取ったな……と今更なことを思った。
皺は少ないが、おそらくそれは一人の時間が長く、笑顔になる機会があまりに少ないため。白い肌は日に焼かれることが滅多に無いから。
瞳を覗き込めば、疲れは明らかだ。相手にそれを口にさせない気迫があるために、指摘されたことは無いだろう。
でも、それだけ。老いと疲れは年々溜まっている。ラグルが説得を重ねて屋敷で休ませる期間も、年に二・三度とはいえ、幼い頃より格段に増えてきていた。キーブンよりもさらに高位な術師である、アーレンの成長も影響しているのだろう。
早く世代交代をせねば、いつ身体と精神が疲労しきって倒れてもおかしくない。こんな貯蔵庫のように冷えた所で次に倒れてしまったら、今度は助からない可能性も低くないだろう。
年に数度しか会えなくても母は大事な家族で、失うことなど考えたくもなくて、守りたい、守らなくてはならないと思う。それ以上に自分が大事だとしたら……そんな自分、許せない。
〝心の奥底から、望めるのか? 母親か自分かを選ぶ時、本当に母親を選べるのか?〟
「……っ!」
脳に直接響く声。思わず息を飲んでしまう。
幸いにもルミアはキーブンから隠すようにして小さく欠伸をしていたので、様子が変わったことに気付かれなかったようだ。
〝人間に、そのようなことは不可能だ〟
反論を許さない厳しく高圧的な物言いだった最初の言葉とは違い、二言目は諦観した、溜め息のような声音だった。
悲しげでさえある言葉に、反論したくとも伝える方法は無い。もどかしい思いに駆られ、キーブンは翼龍を見上げる。
「キーブン?」
「……あ、その……龍って、怖いなって……僕が封じられなかったら、どうなるんでしょう? 父上は、どう思っていたんでしょう?」
直前まで感じていたこととやや違うことを口にしたせいか、声にならない思考を追って訝しげにルミアはキーブンを見た。目を合わせて何か見透かそうと努力していたが、どうやら読めなかったらしい。軽く息を吐いて返ってきた答えはキーブンに対してではなく、彼女自身のものだった。
「キーブンにできないのなら、アーレンが当主になればいい。私たち家族には、そうするしかない。数々の特権と引き換えに暮らしているのだから、恩には報いるべきだし、封印が解ければジュヴェールの人が死ぬだけでは済まないわ。私たちは、誇張でも何でもなく、世界を守っているのよ。
ベゼーは……そうね、いつも申し訳ないと言ってた。自分に力があれば君に苦労なんてさせないのにって。そういう道を私が選んで、全部承知の上で貴方と一緒になったのよって何度言っても止めなかった。だから、そう、子供たちにそんな思いはしないでほしい。本当は、リーンを継いでほしくない」
まさか母親がそんなことを考えていたとは思いもせず、驚愕に目を見開いたキーブンにルミアは柔らかな表情で、やはり疲れた口調で続けた。
「言えないけどね、誰にも。内緒よ、キーブン」
「……はい」
「せめて封来術にさえ長けていれば、ベゼーみたいな苦労はしないで済むかもしれない、そう思ってラグルにスパルタ教育でねって頼んじゃったけど。二人とも優秀に育ったから、逆に周りから期待され過ぎてるかもしれないわね。上手くいかない、本当、色々」
「そんな……」
翼龍の諦観をそのまま表情にしたような、そんな憂いの表情は、薄闇に浮かぶとルミアの持つ苦悩がはっきりと映し出された。その様をありありと見てしまい、キーブンは胸が痛んだ。
「ごめんね。……こんな苦労、させたくないのよ。高名な家よりも自由をあげたい。母親としてそう思ってるって、覚えておいて」
「はい、母さん」
「それに、私の体が動くうちは、キーブンにもアーレンにも、もちろんゼアニスにだって、封印は継がせないつもり。まだまだ若いってこと、誰よりも証明してみせるんだから」
疲弊の度合いの強い相貌に浮かぶ笑みは、柔らかで優しかった。顔立ちも生き様も違うはずなのに、なぜか、セルジスが過去を話すときの微笑に似ていた。つられてキーブンの口元にも微笑が浮かぶ。
ずっとずっと、洞窟の奥深くで自分たちのことを案じてくれていた母親。
その姿を誰よりも近く見てきたはずなのに、翼龍は諦観し、認識が凝り固まっている。
確かに自分が一番大事なのかもしれない。そういう人間もいる。自分もそうなのかもしれない。
でもその一方で、こうして会えない時間をも長く、他者を想い続けている人もいるのだ。
人間に他人を想い、選ぶことが出来ないなんて、間違っている。
「ありがとう」
……ごめんなさい。
当主になることを望まないとルミアから聞いたとき、驚きもしたがホッとしてもいた。
逃げてもいいのだと言われたわけではないのに。
もう一度翼龍の封じられた氷柱を見上げる。
封印を、家族や町を守ることは、龍を守ることと同義なのかもしれない。
分かりあうことができるだろうか? 相手にとって自分は、自分を閉じ込め続ける憎い仇、爪や牙を軽く振るえば死ぬ低能な種族だ。本来なら、話すことなどないかもしれない。
けれど、龍はキーブンに話しかけてきた。常日頃共にいる母ではなく、年に数度しか見ることのないキーブンに。
意味があるのかもしれない。
いつか、と。願う何かが、龍にもあるのかもしれない。
結局、ルミアに龍の「心話」のことを話さずに、キーブンはセルジスの元へと向かった。
ねむねむ……奈々月です。
第二章、スタートです。
鳥籠を書いていて、一・二を争うほど直したかったのが第二章なので、あぁ、ここ、でもなぁ、と苦戦しつつの構成直しでお送りしています。
話をぺらぺらにしちゃうとつまらないし、少しでもキャラクターたちが読者のみなさまに気に入っていただければなぁ、と思います。
それでは、おやすみなさいませ……。