師匠と弟子 part3
セルジスに頼まれていた虹色の巨大魚の鱗を無事に数枚購入し、大の大人でも容易くはぐれてしまいそうな大通りの人混みに揉まれながら、キーブンは長身痩躯のアーレンにしっかりと腕を掴まれて、引っ張られるようにして歩く。
首を多少持ち上げることが出来れば人より背の高いアーレンの頭が見えるはずだが、そうそう自分の自由になるようなスペースもなく、正面を見るのがやっとだ。しかし、正面しか見えないと、人を縫って右へ左へと歩くアーレンがどこにいるのか、人の波でキーブンには分からないのである。腕を引っ張られでもしなければ共に大通りを行くことはできないため、アーレンが選んだこの処置は、至極妥当だった。
難点があるとしたら、キーブンの心中まで納得させてくれる処置ではないのが、唯一残念なところだろうか。
効率的な方法であるのも理解しているし、徒手での武芸にも秀でているアーレンが一緒にいるのは心強い。
翼龍を封印している家系だと知られているので、時には高価な翼龍の鱗目当てに利を得ようとする強欲な人間に狙われるし、子供の頃は当たり前のように学術に優れ、他者よりも突出しているがゆえに、同世代から陰湿な嫌がらせを受けることもあった。アーレンが、本来ならリーン家には不要なはずの武芸に秀でているのは、それがあったからだ。
けれど、キーブンはいつも思うのだ。母に似た女性的な顔立ちをしていても、小柄であっても、それは本人の気持ちには微塵も影響しない。
そう、いつまで兄に、母に、家名に、守られているつもりなのか、と。
いや、家族だけではない。師匠だってそうだ、とキーブンは思う。
守りたいのに、守られる自分。
封来術しか出来ない、それだって師匠には敵わない。そうしてまた守られる。
あと数年経てば、翼龍の封印を引き継ぐことは出来るだろう。しかし、龍を、龍の言葉を恐れている弱い自分。
心の奥底で本当に、強烈に、僕が求めていることは何……?
もっともっと自由になりたいのか。
家族を、師匠を守りたいのか……。
――――もしかして、本当に守りたいのは自分?
「痛って」
歩くうちに思考に没頭してまるで前方を見ていなかった。急に立ち止まったアーレンの背中に思い切り額をぶつけたキーブンは、同様に自分の背中にぶつかってきた人たちに謝りながら、訝しげにアーレンを見上げた。
「やっべぇ、ゼアニスに土産買うって約束してたのに……」
「えぇ、また? 一昨日だって買って帰って来たのに?」
「……睨むなって。あんなに可愛いんだ、土産の一つや二つ、買って帰りたくなるのはキーブンだって分かるだろ?」
「それは分かるけど、ただでさえ母さんに任されてラグルさん一人で育てているのに、甘やかしたら駄目だと思うよ。苦労するのは母さんとラグルさんなのに」
「硬いこと言うなよ。第一、もう約束してきちまったし、遅いって」
「………………」
アーレンは年の近いキーブンにも優しい兄だが、まだ七歳の弟ゼアニスが相手となると、父親なのかと事情を知らぬ人間が勘違いするくらい、とんでもなく甘い。これでは兄が結婚するには政略婚絡みのお見合いしかないだろう。
何しろ、弟への出費だけで激怒してしまうくらいの金額を使っているし、こと恋愛となれば大陸ほど広い心の持ち主でなければ、あまりのゼアニスへの溺愛っぷりに、酷い嫉妬に苛まれることは火を見るより明らかだ。
ゼアニスをいかに溺愛しているのかは、仮にもリーンの一族であるというのに、しかもそれが本人にとってはおそらく、他者からの排斥を受けずに済むことでもあるのに、義務教育である学院付属学校で習得するよりも高度な封来術は、本人が望まない限り絶対に習得を強制させない、と母親や元首に対して強硬に主張したことからも分かる。母親の背中を見て育ったアーレンは、封印を守ることで時間も、将来の相手も、下手をすれば命さえも、真っ先に犠牲になるのは次期当主だ、と考えているはずだ。
故に、家を継いで生体凍結封印を持続させる封印主の役目も、ゼアニスが嫌だと言ったらどんな人間が相手でも手を引かせるとまで宣言している。
次期当主として有望な直系のアーレンとキーブンがおり、また、ゼアニスが既に故人である友人から母が引き取った子供であったことも幸いして、今のところアーレンの要望は通っている。アーレンとキーブンがともに命を落とすようなことでも無ければ、次期当主候補としてゼアニスが上がることは無いだろう。
キーブンも、その意見に不満はない。アーレンほどではないにしろ、弟が可愛いのは確かだし、自らの悩みとこの先の人生を思えば、世界屈指の術師となる道を強要する必要はどこにもない。
もちろん、リーンの一族でありながら直系ではないことは今後ゼアニスを悩ませるだろうが、そこは本人の頑張りどころだろうし、支えてやるしかない。
「さて、ショコラでも買って帰るか。あいつ甘いもの好きだもんな」
もうすっかりお土産を買っていくことしか頭にない、楽しそうなアーレンの横顔を見て、諦めたキーブンが溜め息を吐きながら苦笑する。
「そうだね。ゼナシェの店に寄っていこう。確か、ポム・アムールって新作が出てたし」
「ん、おまえも好きだよな、ショコラ。買ってやるよ、ほれ、行くぞ!」
「うわっ、そんなに引っ張らないでよ!」
男女を問わず、すぐそばをすれ違う人が一瞬振り返りたそうに後ろ髪を引かれながら、人混みでそれもできず、視線だけでアーレンの後ろ姿を追う。
そんな光景を作り出す少年のようなアーレンの笑顔はあっという間に道の先へと向けられ、キーブンはぐいぐいと腕を引っ張られて、何とか人と人の間をすり抜けながらアーレンと菓子店へ走って行った。
やっぱりまだ、アーレンにも敵わない。
それほど期待していたわけではないとはいえ、バルドから情報を得られなかった以上、次に当たるべきは食料品店だろう、と自室のドアを開けながらキーブンは思案する。
旅行く者が町の人からゆっくりと話を聞き、かつ怪しまれない方法は立ち寄った店での世間話と相場が決まっている。
それも、ウェイベンでは書店やカフェだと客が多すぎて話に乗ってもらえないから、ある程度人の少なくて町の外の人間が行っても不審ではない店。となれば、ある程度絞られる。
あとは早く自分の耳に入れるために、どういった手段を選ぶか……。自分一人で回ったのでは、人口二万人のこの都市で幸運に巡り合えなかった場合、一週間近くかかってしまうかもしれない。
それでは遅いのだ。セルジスが指輪を引き渡す明後日の昼過ぎまでに、単一族の情報を持つ誰かを見つけられなければ、何も出来ないまま指を咥えて生体凍結封印を施すのを見逃すしかなくなる。セルジスがどれだけ落胆するか、想像するのも怖い。
リーン家の紋章「ワイバーン」の印がくっきりと転写されたのを確認して、キーブンは何通目になるのかも忘れた黒っぽい樹皮の封筒に再び手を伸ばす。いい加減手が痛いが、封筒と便箋の代金をケチってしまったから、印をしっかり押しておかないとキーブンからの手紙だと誰も信じてくれないだろう。本当だったらまとめて封来術で「漂白」して高級なものに見せかけたかったが、綺麗な白が出る素材は単一族に由来するものがほとんどで、それ自体が高い。
凶悪な単一族の種族である翼龍を封じているリーン家には、毎年国家から報奨金が支払われているが、リーン家の資産は母親が管理しているので、キーブンにはびた一文動かせない。自分のものを買う金は、自分で稼いだ金だけだから、ケチらざるをえない。
「これでいいか。あとは回してもらうとして」
手紙の内容は簡単だ。
『第二都市ウェイベンにお越しになられた、栄えあるジュヴェール国立学院マイスタークラスにて封来術を指導される方を探しています。
国境を越え、当都市に入ったところで足取りが途絶えており、大変心配しております。
若い男性で、お連れにジェスタとおっしゃる年配の方がいらっしゃるとのこと。
見かけた方は一刻も早くキーブン・クアラ・リーンまでお知らせくださいますよう、お願い致します。』
セルジスの店にやってきた依頼主のジェスタは、少なくともこの町の人間ではなかった。
町に慣れない人間がふらふらしていれば住み慣れている側からは目立つし、他の町に知られるような名所とは縁遠いセルジスの店を知って来たからには、ウェイベンを訪れて数日は経っていておかしくないのに、未だに埃っぽい旅装なのは、何らかの理由で宿すら取っていないということだ。
話の流れの早い幾つかのカフェにこれを渡しておけば、おそらくすぐに引っ掛かるだろう。カフェの店員は客の話に乗ってはくれないが、髪に隠れて耳がもう一組ついていると言われるほど、人の話はよく聞いているのである。
そして、西方大陸に名だたる封来術研究機関であるジュヴェール国立学院のマイスタークラスといえば、上から数えて五本の指に入る超エリートクラスだ。その講師となればウェイベンにとって重要人物であり、またキーブンからも頼んでいるとなれば、事情が事情なので話してくれるはずだ。
「まあ、そもそも、ウェイベンに住む人間が、僕に一対一で向き合ったのに、師匠に話しかけられたくらいで僕から気を逸すわけがないからね……」
皮肉気に口元を歪めたキーブンは、十通ほどの手紙を纏めて紐で括ると自室を出た。
二つ離れた部屋の扉をノックすると、打てば響く速さで返事が来る。
「レックス、頼みがあるのだけど」
「何でしょう?」
共にリーン家で育った幼馴染で、現在はキーブンの助手と護衛も兼ねているレックスは、キーブンが書いた星天学のレポートを読んでいたようだ。振り返ってすぐは眉間に皺が寄り、瞳にも疲れの色が浮かんでいた。生真面目な彼は星天学を理解するために努力を惜しまず、ここしばらくはキーブンやアーレンの書いたレポートの内容を噛み砕くことに精を出していた。
キーブンと顔を合わせた直後は眉間の皺を解いたものの、その手に手紙の束があるのを見て取ると、渋い顔をしてまた皺を寄せてしまった。
「貴方に行かせたくはありませんから、別にいいのですけれど……少々多くはないですか? 配達人に任せてもいいでしょうに」
「書くのは一苦労だったんだ。配達人に任せて僕の苦労が報われるのを静かに待てるほど、楽しい用件の手紙ではないからね」
「ええ、そうなのでしょう、私の体を更に鍛えようとしてくださるわけですね。日々の鍛錬は大切です」
「まあ、そう言わないでよ。最近煙草吸い始めたみたいだし、ちょうどいいんじゃないかな?」
レックスの瞳が、嫌そうにすっと細まった。言い訳をするつもりなのか、僅かに間を置いて、地を這うような声が投げかけられる。
「ご存じだったのですか」
「帰ってくるときに、たまに部屋で吸ってるのを見かけただけだよ。
レックスの部屋は、ちょうど外から見えるから」
「そうでしたか」
悪いとも良いとも言わないキーブンの答えに、レックスは目線を横に逸らした。
いずれ誰かには指摘されるだろうし、知っていることを黙っているのもなんだか気まずい、と思って口にしたキーブンだったが、かえって場の空気をどうにも動かしづらくなって、軽率だったかと反省したが、レックスが先を続けたことでなんとか話を続けることができた。
「……それで、どちらへ配達すればよろしいですか?」
最初から難しい顔つきだったから勉強の成果があまり結実していなかったのもあるだろうし、煙草を指摘したのも悪かったのか、あるいは話を逸らすためにわざとなのか、平静よりも機嫌の悪い投げかけに思わず苦笑して返してしまうキーブンだったが、実際に町を駆けずり回るのはレックスだ。申し訳ない思いで手紙の束を差し出した。
「学院に近いカフェから順番に渡していってほしい。出来ればその場で読んでもらって、口頭である程度返事をもらえると助かる」
「分かりました」
仕方なしと諦めたのか常の無表情に戻ったレックスだが、最後にちらりと非難の色を含んだ視線でキーブンを見た。
「これは、またあの女性絡みの件ですね? いつまで続けるおつもりですか?
貴方が私なしでも外に出られるのは、まだ当主ではないからです。猶予は遠からず尽きてしまいますよ」
当主になれば事故などで死亡・重傷を負って生体凍結封印が解けることのないよう、無暗に外出することは出来なくなる。
どちらも優秀な術師の兄弟だ。万が一を考えて、当主にならなかったほうもおいそれと家を出ることが出来なくなるのは想像に難くない。
わざわざレックスが口に出すのは、お節介だと理解した上での優しさだ。
もしもセルジスを愛しているのなら、早く夢から覚めたほうがいいと。
恋愛沙汰にうつつを抜かしていては、当主になったときに役目が疎かにならないとも限らないし、弱みとして他人に付け込まれやすい。相手のことを考えても、このどうにもならない不自由を与えるのかと考えたら、色恋で結婚することが幸せとは言い難い。
何よりレックスが危惧しているのは、キーブンが一人きりで悩んだ挙句、独断で衝動的に行動しないかということだろう。駆け落ちにしろ、結婚するにしろ、二人でいられれば他はいらない、という考えはキーブンには生まれないとレックスは信じている。だが、常ならば取り得ない選択肢を取らせてしまうのもまた色恋の怖さだ。ただそれは、その場だけならそれで満足しても、近い将来彼はそれを激しく後悔することになる、と。
――――それはとても正しい。守りたいもの、行動すべき基準、それらがまだ曖昧なキーブンは、捨てたものを何度も振り返り、取り戻す方法はないかと、未来に腕を引かれながら過去へ逆の腕を伸ばす破目になるだろう。
決断しなければいけない。どれが一番大切かを選ばなくてはならない。出来なければ、選び損ねた選択肢は未練になってしまう。
無二の友として、レックスはそんな惨めな思いをさせたくなかった。
「分かっているよ。……ごめん」
「……謝っていただきたいわけでは、なかったのですが。こちらこそ、出過ぎた真似を」
「だから、分かっているって。それよりもこれ、お願いします」
差し出された手紙の束をくくった麻紐をレックスが無表情に受け取ると、キーブンは思わず表に曝してしまっていた悲しい表情を崩そうとして失敗し、泣きそうな笑顔でレックスの私室を後にした。
何が悲しいのか、自分でもよく分からないまま。
ねむねむ……奈々月です。
改めて投稿作を直しつつ、こちらに掲載しているわけですが、もっとじっくり書けばよかった!とか、ここ展開急すぎでしょ!とか、突っ込みどころが多すぎてさっぱり改稿進みません!
……開き直っても仕方ないですね。じっくりじっくり、スープみたいに煮詰めることにします。
ようやく1章書き終わるところまできたので、スムーズに更新できそうです。
お楽しみいただければいいなぁ……。
それでは、おやすみなさいませ……。