人魚 3
馬車にタライを用意したのがあの美形(ジェダという名前だと、本人ではなくカエデ経由で教えられた)なのかカエデなのかわからないけど、はっきり言いたい。
タライ邪魔。
人魚とはいえ人間になってるから、水につかる必要はない。というか本当に水に浸かる必要があるならむしろこのタライでは足らない、上に中に入ってるのはなぜか真水。
海水ならまだしも真水。
「ま、浸からないからどうでもいいんだけどぉ」
というわけで窓からタライの水を投げ捨てた。びっしゃあと何かに当たる音がして、カエデが「うわっ!」と叫んだ。どうやら馬車の隣を馬で進んでいたらしい。見た目どおりに要領の悪い王子様みたいだ。
馬車が止まり、ずぶぬれのカエデと、ものすっごい顔をした(東の国に伝わるハンニャとかいうお面にそっくりだった)ジェダに睨まれた。
そのままカエデがタオルにくるまれて馬車に乗り込んできた。
「このまま騎乗していては風邪をひいてしまいますから、乾かして大人しくしていてくださいね」
「ああ、わかったわかった」
「人魚と喧嘩せず大人しくしているんですよ」
「わかったわかった。……いや、風邪をひきそうだから一旦戻らないか?」
鼻で笑ってジェダは馬車の扉をしめた。カエデに向ける顔は冷ややかでも優しげなものだったけど、私に向ける顔は最後までハンニャのままだった。器用な男だ。
ぽたぽたと黒い髪の先から滴をおとすカエデは、寒そうに一つ震えた。
「……ええと、ごめん。まさか隣に人がいるとは思わなかったのよ。あと、私は気にしないから服脱げば? いくら拭いても服が濡れてたら意味ないわよ」
「異類とはいえ一応女性の前で服は脱げない。訊いておくが、本物の女性で間違いないのか?」
「女よ本物の。まぁあ気にせずぱっぱとやっちゃいなさいよ。あんたの裸とか正直興味ないから。あ、これ巻いておけばいいでしょ」
ひざ掛けにと渡された毛織物は大きくて、カエデの体をすっぽりくるんでも余裕がある。
「これ私のマントじゃないか」
「あらそう。あなたの召使がひざ掛けにって放り込んだものよ」
「まったく……」
本物のひざ掛けだったら大きさが足らなくて困ったんだから、良かったじゃないの。
カエデもそう思ったのか、不平を口にすることなく大人しくマントでぐるりと自分の体をくるみ、中でごそごそと服を脱ぎだした。そちらを見るのも悪い気がして、窓の外へ眼をやる。どんどん内陸に向かっているのか、海の匂いは遠ざかってもうかぼそい。窓の外には畑が延々と広がり、その向こうに山脈が見える。
海のかわりににおうのは、濃い緑や家畜だ。私にはなじみのない匂い。
つまらない、退屈な匂いだ。
「あの人間たちは毎日ああやって働いていて、つまらなくないのかしら」
「さあな、あいにく私も王子で領主なもので、畑仕事には縁がない。それに、生きるための仕事につまらないも退屈もないだろ。やらなきゃ死ぬだけだ。領主だろうと農夫だろうと人魚だろうと人間だろうと」
「んふふふ、まあそうね」
でも私はお姫さまの仕事を全うして、どっかの阿呆に嫁ぐなんてまっぴらごめんだけどね。
□ □ □
次の日からはまた私は一人で馬車にのり、カエデは馬上の人になった。今回は用心したのか誰も馬車の隣にやってこない。昨日タライは片付けられたから、降らせる水もないというのにご苦労なことだ。
タライが片付けられて足を存分に伸ばせるようになった馬車の中、私はこれから向かう王都とやらのことを考えていた。
行けば一発で、そのなんとかいう王子と面識がないことがバレる。その前にさっさと逃げたいのに、馬車の中でも途中泊まる地方のお偉いさんの屋敷でも、脱出する隙がない。大人しく王都まで連行されるしかないだろうけど、その後、ジェダやカエデに放り出されるのならまだしも、面倒なことに係わり合いにはなりたくないのだ。
でも、私を牢から出した時のジェダの顔は、確実に面倒ごとにひっぱりこむつもりだと物語っていた。とりあえず牢から出たかったから適当に利用されてやってもいいかなと思ったけど、牢からでた今となってはやっぱり、面倒なことは嫌だ。
「まったくあのハンニャめ。……あーあー、やっぱり本物の魔女だったら良かったのになぁ」
本物の魔女。そう、彼女ならジェダなんて一瞥で好きなように操れる。あの眼と言葉と声とで、人間など操られているという意識もなしに、好きにできるだろう。
もしも魔女だったら、縁談ごときに尻尾を巻いて逃げ出すこともなかったはずなのに、うまくいかない。
「あーあー、もうどうしよう面倒くさい予感しかしないよぅ……」
大きなため息をつく私をよそに馬車は順調に王都に向かって進んでいた。