王子 2
平和だ。
海の側に建つ領主館では、窓の外にすぐ海が見える。山の手に自治領を実質的に治める大商人達の館が建てられているあたりが如実に力関係を表しているのだと、長年私の教育係を勤めてくれたベリルの弟、ジェダは不愉快そうに吐き捨てたが、本当のことなのでいたしかたあるまい。
第一、山の手の邸宅に住んでいるのは商人の家族ばかりで、当の商人は海が商いの場だというのに離れていては商売にならぬと、普段は海の側の別宅に住んでいる。ある貿易商などは、倉庫の二階に住んでいる。建物の面積に応じて税金を納めなければならない我が国では、むしろこの国を富ませるために広大な館を建ててくれた、忠国の輩であると言える。そんな彼らが、税金を支払わぬ領主の城より良い立地に館に建てるのは、むしろ当然だろう。
私がそう言うとジェダは呆れたような顔で「王子は兄が申していた通りのお方ですね」と言う。
ベリルがどんなことをジェダに話したのかは分からないが、ジェダの顔をみればそれが褒め言葉でないことは容易に分かる。
ベリルに褒められるようなことをしてきた覚えもないから仕方ないが、あれだけ私のことを買いかぶっていたベリルなのだから、もう少し美辞麗句で主人を飾ってくれても良かろう。
「カエデ様。あのぅ、これ今日届いたものです」
「キナ」
「いいよジェダ、私が許したんだ。王宮でもないのにあまり堅苦しいのはいやだからね。それにしてもキナ、顔色が悪い。学校で嫌なことでもあった?」
午前中は上級学校に通いながら午後、行儀見習いのようなかたちで小姓として働いているキナは、来年成人を迎えるにしては幼い顔に浮かない表情を浮かべている。
高等数学や礼儀作法、外国語を学ぶ上級学校は毎年脱落者が出るほど厳しい。少なくともこの自治領では、基礎学校で一定の成績を修めなければいくら金を積んでも入学することはできず、入学しても不定期に行われる試験で及第点を取らなければ落第だ。
キナは浅黒い肌や濃い琥珀色の目が示す通り南からの移民で、上級学校にも奨学金で通っている。それだけに要求されるものは一般の生徒より厳しく、毎日夜遅くまでかかって課題を片付けている。
また難しい課題を出されたか、それとも一部の移民排斥主義者にいじめられでもしたか。
そう思って尋ねるとキナは、力なく首を振った。
「もうすぐヒダルド王子が成人されるのですよね」
「ああ、そうだね」
「王都では盛大なお祝いをされるとかで、私の父がお仕えしている商人のハル様のもとにも招待状が届いたそうです」
「ヒダルド王子は成人したら皇太子になだったから、国中の主だった者が招かれるんじゃないかな」
「僕、ここずっと気にしていたんですけど……あ、いえ。なんでもないです」
「キナ。カエデ様のもとには直接使者が招待状を届けにきました。君の心配は無用です」
「ああなんだ、よかった!」
「え! キナ、そんなことを心配して顔色を悪くしていたの?」
「だって! カエデ様王族のはずなのに毎日郵便物を仕分けしてても全然招待状がないし! もしかしたら招待されてないのかもしれないけどそんなこと聞いたらカエデ様だって傷つくだろうしどうしようかと。もういっそ父に頼んで招待状を偽造してもらおうかとも思ってたんです」
「王家の招待状を偽造したら裁判無しで処刑されるから、やめたほうがいいよ」
それにしても、そんなことを心配されているとは思わなかった。
やけに晴れ晴れとしたキナがほかの部屋に郵便物を届けるために出て行ってから、隣に立つジェダを見る。
見ればみるほど彼の兄に似ているジェダは、私の視線にこれまた兄のベリルそっくりに口元を歪ませて笑った。
「私の王子は従僕にさえ慕われているようでなによりです」
「やめろその嫌味。あんな子供にさえ心配されてて情けないってはっきり言えばいいだろう。はあぁ、それにしても、正直まさか招待状が届くとは思わなかった。郵便だったら届かなかった、てしらばっくれることもできたのに、わざわざ使者をたてられてはな……」
「ヒラルド王子も、あなたがそうやって逃げるつもりなのが分かっているから直接寄越したのでしょう」
「王子というより父上だろう。こっちにきてから一度も戻ってないからなぁ。あー……、面倒だな。行かずに済むなにかうまい言い訳はないかなジェダ」
椅子の背もたれに深く背中を預けながら訊くと、ジェダは「行儀が悪い」と眉を顰め、ずっとあけていた窓を閉めながら答えた。
「ありません」
「はあぁ、やっぱりか。面倒だよ、面倒だよジェダぁ。あんまり面倒すぎてこの後仕事をする気力が起きない。私は散歩に行って来る」
「夕食までにはお戻りください」
夕飯までに戻ってこいとか、まるで子供扱いじゃないか?
毎度のことだが、ジェダの口うるさい母親のような言葉に可笑しくなる。私には口うるさい母親などいなかったから、やはり口うるさい教育係のような言葉、になるのだろうか。本当に、ジェダは外見ばかりではなく口調までベリルに似ていた。
「あれで双子ではないのだからなぁ」
城から海岸へ、城の裏手から階段を下りていくとすぐだ。途中裏庭で洗濯物を取り込む召使や厨房で使う香草を摘みにきた下男と行き会うたび、深く頭を下げられるのがわずらわしくて木々の影にまぎれるように裏庭を通り抜け、石を置いて作られた階段を下りる。
昼は過ぎたが夕暮れには少し早い時間。砂浜にはいつも人影がない。
珍しく、今日は誰かいるようだ。私がいつも座る、満潮には海に隠れてしまう小さな岩に腰掛けている。
髪が長いから女性だろうか。
そんなことを思いながらいつもの習慣に従ってその岩に近づいて行く。
俯きがちに海に顔を向けていた人が、踏むたびにさらさらと崩れて行く砂の音に気づいたのか顔を上げて振り向いた。
日の光が斜めから差し込んで、彼女の長い髪をきらきらと輝かせている。白い肌を覆うのは薄物のドレスだった。過ごしやすい季節とはいえ、肌もすけそうな布は肌寒いのではないだろうか。
「あ、の…、どちらの方でしょうか」
彼女はにこりと微笑んだ。
立ち上がった瞬間転びそうになり、まるで歩き方を知らないかのように二、三度よろよろと足を進めて、それからすぐに軽やかな足取りで私のほうへ向かってくる。
なんだか夢のような心地で彼女が近寄ってくるのを待っていた私は、彼女が間近になるにつれ血が下がって行くのを感じた。
濃い金色と見えたのは赤い色で。
光に透けて薄茶のように見えた眼は緑色で。
それはまるで絵本の。
「ま、魔女!」
「人魚姫よ!」
にこりと微笑んでいたはずの女は眉を吊り上げて怒鳴る。
その顔はやはり、絵本で見たあの禍々しい魔女にそっくりで。
私は後ろも見ずに走った。走って逃げた。
後ろから魔女が追いかけてくるのが分かったが、恐ろしすぎて振り向けなかった。