王子 1
暗闇で赤く光る目と、血をかぶったような赤い髪。
母の持っているたった一冊の絵本には痩せた魔女がお姫様を呪い殺そうとして、満月の夜お城に現れる。
絵本だから最後にお姫様は王子様と結ばれて魔女はひどい目にあってめでたしめでたし、のはずだが、俺は、満月を背ににたりと笑う魔女の絵しか覚えていない。あまりに恐ろしくて、物語の終わりを忘れてしまったのだ。
母は俺が十二になる頃病を得て死に、俺をさんざん怖がらせた絵本はいつのまにか無くなっていた。
だから俺の記憶の中で魔女はいつも満月を背にお姫様を呪い殺そうとしているのだ。
光差す中庭で、明るい笑い声がしている。王子の遊び相手の名目で城に出入りを許されている貴族の子と、彼らの中心にいてひときわ明るい笑みを浮かべているのは、ヒダルド王子だろう。日を浴びてきらきらと輝く金髪は作りもののように見事で、王子の整った顔を更に引き立てている。
二階の窓から中庭を見るともなく見ていると、それに気づいたのだろう。ヒダルド王子が上を見上げ、俺の姿に気づくと顔をしかめ、石を投げてきた。
子供の力で二階まで届くものではない。とはいえ窓にはガラスも入っていないし、そそのかされて石を投げ始めた子供には力の強いものもいる。
そのうちの一つが俺の頬に当たり、よほどとがっていたのか薄く切れた。
さすがにやりすぎたと青ざめる子もいたが、ヒダルド王子は大喜びではやしたてて、それをみた周囲のこどもたちも真似をしはじめる。
俺は窓から下がって自室に帰るために歩き始めた。頬の傷はほんのかすり傷だったから、もう血は止まっていた。
俺はもうすぐ十八歳で成人を迎える。ヒダルド王子は十二歳だし、王妃もまだ若い。ヒダルド王子になにかあってもまだ子供は生まれるだろう。
そろそろ良い頃合いかもしれない。俺はぴりぴりする頬に、この国を出ていく決意を固めた。
□ □ □
「王子というものは、自分で進退を決められる身分ではないのですよ」
「はは、そういわれると奴隷のようだな」
「王族とはすべからく国家の奴隷です。国に尽くし民に尽くすべし、と幼い頃からさんざんお教えしておりましょう」
「ああそうだったな。ベリル、おまえはいつもそう言っていた」
五歳の時から教育係としてそばについていたベリルは、額に落ちた砂色の髪を苛立たしげにかきあげ、「ええ何度も何度も申し上げました」と繰り返す。
厳しいが、俺の髪や目が黒いからとか、俺の母が異国の人間だからとか、そういう理由で俺をさげすむことの一切なかった人だ。
長子ではあるが王位継承権は弟たちが生まれるたびに低くなる。
王になるといわずとも王妃か、あるいはもっと身分の高い側室の子供の教育係であれば栄達の道も開けるものを、俺なぞにつかされたベリルは、どれだけ有能であると認められていようと、高い地位を得ることはできない。
そういう不満を、俺に見せたこともない人だ。
今も荷造りをする俺のそばで足を鳴らし腕を組み、臣下としてははなはだふさわしくない態度だが、それでも、俺を案じてくれているからこその苛立ちなのだと知っているから、腹が立つこともない。
「王には許していただけなかったのだから、いいじゃないか。まだ私は王族の端くれだ。左遷はされるがな」
「当たり前です。陛下がお母上によく似たあなたを手放すはずはないでしょう。王宮が息苦しいならしばらく外に出ていろなどと情に溺れた甘い処置には失笑です。こんな阿呆な子供は懲らしめに尻の一つでも叩いて、遊ばせていないできりきり働かせれば良いのです」
「まあ父上が亡くなるまでは仕方ない。しかしヒダルドが王になったら、何やかやと理由をつけて殺されそうだからな。王が存命のうちに王籍から抜けておきたいなあ」
「あの顔だけ美しい馬鹿王子ですか。あんなのが次の王とは嘆かわしい。カエデ様、海のそばは冷えますよ。夏の終わりとはいえ、そんな薄物ばかりでは風邪を引きます。防寒具は後で送らせるとしても、もう少し厚手の服を詰めてください。ああ全く、どうして私がついていってはいけないのですか」
「成人したら教育係の任は解かれる。おまえだって知っているだろう?」
「そのまま秘書や側近として残ることも知っております」
「お前は、私の側仕えなどで終わるにはもったいない。中央で父のために働いてくれ」
決して、この厳しく口うるさい毒舌家の教育係を手放したいわけではないが、ベリルは王宮にのこしてくれと複数筋から嘆願されたのだから仕方ない。
年は大して離れていないが、兄というよりやはり育ての親のようなベリルから離れるのは、寂しさを上回る解放感があることは否定しないが。
「まあいいです、カエデ様。新しく側仕えとして私の弟が付いて参りますので、よろしくお願いいたします」
「弟? 俺は側仕えは現地で適当に選ぶと言ったはずだぞ。だいたい仕事など禄にしないのに、側仕えなど必要ない」
なにしろ父上に申し渡されたのは、王宮から馬で十日ほどの距離にある自治領の領主だ。
いままでは引退した官僚だとか小貴族が褒美がわりに赴任するようなところで、領主とは名ばかりで、自治体の権限が強すぎて、領主の仕事などないところだ、と聞いている。
「すばらしいじゃないですか。自治領の名の下に好き勝手している者を懲らしめ、才覚を認めさせるのです。血筋だけで威張り散らす王子共にカエデ様の有能さをみせつけてやりなさい」
「懲らしめないし、仕事もしないから」
俺は小さな声でつぶやいた。ベリルは相変わらず何の根拠もなく俺を過大評価しているが、まかりまちがって仕事で評価などされてしまっては、嫌がらせが酷くなって、面倒になってしまう。俺はヒダルド王子が成人するまでのんびりと名ばかりの領主を続け、その後はうまく王籍を離れてどこかでのんびりと羊でも追いながら生活できればそれで良い。
「本当に、仕事しないから」
俺が言うと、ベリルは口の端を少し上げて微笑んだ。何を考えているのかわからないが、それは俺の背筋を凍らせるのに十分な、恐ろしい笑みだった。