ありがとう
「ぇ…司魁?」
なぜ?と聞こうとしたが、俺はすぐに口を閉ざした。秀前の表情はいつの間にやらもの悲しげなものに変わっていた。
「ごめんな、空。せっかくの休日を秀秋と過ごせなくしちゃって」
「だったらなんで?なんでこんなことしたのか分かんないと納得できねぇよ」
空の返答は早かった。
わけの分からない話を目の前でされたあげく、大した説明もされずに頭は混乱してしまっているのだろう。いや、空の場合…すねているのか?
秀前はそんな空に空也の面影を重ねて優しく微笑んだ。
「別に?ただ、今の君と遊びたかっただけだよ」
「なんで…」
コウはつい口を挟んでしまっていた。秀前の言葉にものすごく深い意味が隠されているような気がして、胸が締め付けられるかのように苦しい。
“ただ、今の君と遊びたかっただけだよ…”
ひとり…過去にその身を縛り付けられて見ていることしかできなかったその想いは?
取り残されてしまう気持ちは?
きっと今の自分には理解できない深い悲しみなのだろうとコウは悟る。
「…分からない?コウ、君なら分かるよね?」
「ぁ……」
秀前の優しげな微笑みで、こうは少し前のことを思い出していた。
初めて、トモヤから秀秋たちの話を聞いたとき…なつかしくて、会いたくなった。また昔のような関係のまま、遊べたらいいな…と思っていた。だからトモヤに頼んで遊ぶ機会をつくってもらったのだ。
でも、実際に会った秀秋たちは昔とは全くの別人で、秀前の性格とは違っていて少し落ち込んだ。
でも、やっぱり秀秋たちといるのは楽しいと思っている自分がいて…。
秀前もそうだったのかな?
昔の関係に戻れることを期待、していたのかな…?
「一緒だよ、コウ」
「え?」
うつ向いていたコウが顔をあげると、そこには先程と何ら変わらない優しい顔付きの秀前がいて、つい昔に戻ったかのような錯覚に捕われた。
きっと、そうだったんだ…。
秀前も望んでいたんだ。
あの頃のような、幸せな時間を――…。
でも、同じなわけがなくて、最愛の空也は秀前のことは覚えていなくて…。
「だから…あのときはつい暴走しちゃって…」
あはは、と空に笑いかける秀前。どうやら、前に何かあったらしい。
その証拠に笑みを向けられた空は、顔を真っ赤にして怒っていた。
「あれはお前かぁーーー!!!」
ちゃぶ台が目の前にあれば、茶碗が乗っていようがなんだろうが引っくり返してしまいそうな勢いで空は叫んだ。秀前はそれを見て、楽しそうに微笑んでいるばかりだった。
「んにゃろうっ!!!」
ブン、と風を切る音をならして空の拳が秀前に的を絞る。しかし、秀前はそれを簡単に避けてしまい空の怒りは募る一方で。
そのあとも、コウでは絶対についていけなさそうなスピードで秀前に向かっていく空。でもそれが当たることはなかった。
「あ、あれは、ほらっ!!自我を忘れていて俺自身どうしようもなかったというか…」
「うるさい!!」
空はもう、そんなことを気にしているわけではなかった。ただ単に、自分の攻撃を易々と避ける秀前を見ていると悔しくて、無我夢中に拳を振るう。
「ちょっ、そんなムキにならなくても…」
「なってねぇっ!!」
なってるじゃないか…という秀前の呟いた言葉さえも空の耳には届かず、耐えまなく攻撃が繰り出されてくるのを見て、秀前はキリがないと判断したのかヒラリと身軽に体を翻し、空の後方へ一瞬にして回ると空の腕を掴んだ。
「〜っ!!離せっ!!」
「ちょっと落ち着いてよ空也。俺は別に喧嘩をしにきたわけじゃないんだから」
かなり参っているのか、その表情は昔の空也の悪戯に困り果てている時の顔だった。
「今日は楽しかったよ。久々にゴンゼも見れたし…」
「………」
そう言う秀前の言葉に、俺は複雑な気持ちになっていた。なんで皆トモヤがゴンゼだと分かるんだ?
「だから、ね?空…」
――今日はサヨナラだ。
そう小さく空の耳元で呟き、秀前の瞳が閉ざされる。
ふっ、と腕から力が抜けたのか空の捕まれていた腕も解放され、コウはただ秀前か秀秋かも分からぬままその人物を見つめていた。
「…あれ?」
なんとも気の抜けたようなその声は昔の秀前を思い出させた。
コウと空は互いの顔を見合わせ、コクリと頷くと声をかけてみる。
「どうした?ヒデ」
「――――…る…」
「へ?」
小さく口を動かしたことだけは確認できたが、その声はあまりに小さく聞き取ることができない。
しかし、秀秋は今度はハッキリとその言葉を発した。
「記憶が…ある」
ただ呆然と、信じられないとでもいうような表情で秀秋はそう呟いた。