落
ちょうど百社目だった。
百社も受けるとわかってくることがある。
面接の途中で「あぁ、これはもう落ちたな」と。感覚でわかる。
質問も答えも手応えがない。まるで沼地に足を突っ込んだような、そんな感覚。
今、まさにそれを感じていた。
グループ面接という、複数人で受ける形式の面接を受けている最中だった。
他の人の場合、質問に答えるとその答えに対してまた質問が返ってくる、という風に話が進んでいた。それが私の場合、ない。
面接官の興味が自分に向いてないことを感じとった。手汗がにじむ。
焦りの中、時間はさらさらと流れていった。
意識してピン、と伸ばしていた背中の力を抜いた。自然と表情も緩んだ。
(またダメだった……)
アピールしたかったことも、伝えたかったことも言えず、作法通りの動作で部屋を出る。
一緒に面接を受けた人達がエレベーターホールへ向かう中、一人外れて階段へ向かった。
階段を見上げ、一呼吸置いて、足を踏み出した。
一段一段、足を踏み出すごとに、一社一社、落とされた会社と面接官の顔を思い出していた。みんな仕事のできそうな、優しそうな顔をしていた。
同時に靴を見た。靴底のかかとの部分は、見事なほどに斜めに削れていた。
どれだけ歩いたんだろう。今まで履いてきた靴だって、こんなに靴底が削れたことはなかった。
それに対して表面はピカピカに磨かれていて光っていた。そのことに今、気が付いた。
(あれっ?)
疑問に思った。なぜなら私は今まで靴を磨いたことなんて一度もなかったからだ。
だが答えは簡単だった。
母が磨いてくれていたのだ。
とても厳しい母だった。優しい言葉をかけてくれたり、励ましてくれたり、といった思い出はない。
子どもの頃は怒られてばかりで、そんな母のことを怖がってさえいた。
私には、勉強も運動も得意な出来のいい弟がいて、母は弟をよく褒めた。
対して勉強も運動も苦手で怒られてばかりの私は、いつの頃からか「自分は母に愛されていない」と思うようになっていた。
しかし今、ピカピカに磨かれた靴を見て、ようやく気が付くことができた。
(私は、母に愛されていたのか)
玄関でしゃがみ込み、私の革靴を磨く母の姿が目に浮かんだ。と同時に、涙で視界がゆがんだ。申し訳ない気持ちで、悔しさでいっぱいだった。
涙は頬を伝って雫となり、靴の上に落ちた。
よく磨かれた靴は水の粒を弾いた。
一段一段を踏みしめるように登り、一番上についた。
階段はちょうど、九十九段あった。
屋上へ通じる扉のドアノブに手を伸ばし、ひねる。鍵がかかっていた。
手に持っていた鞄を床に置き、両手を合わせ指を組み、塊にした。
両腕を上げ、大きく息を吸う。その塊をドアノブめがけて振り落とした。
不思議と痛みはあまり感じなく、自分でも信じられないくらい力が入った。
私は会社の選考に落とされるたびに、不採用通知やその会社の説明会で配られるパンフレットを破り捨ててきた。大きなパンフレットを半分に破り、重ねてまた半分に破る。
その時も同じように、不思議と力が湧いて、簡単に破ることができた事を思い出していた。
ドアノブは叩き出して六回目で根元から折れた。
ゴキリ、と鈍い音を立てて折れたドアノブは床で跳ね返り、壁に当たって落ち、転がった。音はシンと静まり返った階段に響き渡った。
扉を押し開けて、屋上に出る。
澄み切った雲一つない、綺麗な空だった。
冷たい空気が肺を満たし、強い風が一つ吹いた。
風が顔に当たり、涙の流れた跡を乾かせた。
手摺のある方へと歩き出す。
次生まれ変われるなら、空を飛べる鳥か、自由気ままに生きる猫になりたい。そんなことを思った。
一歩一歩、手摺に近づく。
近づくごとに、自分の中で「恐怖」が溢れてくるのを感じた。
心臓が、全身が鼓動している。
死にたい。
死にたくない。
生きたい。
生きていたくもない。
手摺の前まで来て、靴を脱いだ。
ドラマとかでよくあるイメージを再現した訳ではない。
ピカピカに母が磨いてくれたこの靴を、汚したくないと思ったからだ。
冷たい手摺に手をかけて、息を止めて一気に越える。
手摺を握る手の力が強くなる。
淵に立った。
息を整えようと何度か深呼吸をした。何度しても整わないので諦めた。
下を見た。眼鏡のレンズの内側に水滴が溜まった。
汗ばむ手を手摺から離し、両腕を広げる。翼をイメージした。
じっと前だけを見つめて、淵に立っていた。
片足を前に踏み出した。
落ちた。
ちょうど百社目だった。