秘密基地
共同企画小説参加作品。
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幼かった僕には、それが愛情表現の一つだということに、気がつくことすらできなかった。
そもそも愛情表現だということに気がつくには、当時の僕はどれぐらいの年月を必要としていたのだろうか。僕はまだ小学校三年生で、愛だの恋だのに身をやつすには、あまりにも幼すぎた。
あとどれぐらいの年月が過ぎれば、僕はその行為を愛情だと知ることができたのだろう。もし、そのとき愛情だと知ることができたとして、僕は彼女に一体何をしてあげられたのだろう。
きっとこんなことを考えることは無意味だ。
時間は戻せないし、過去をさかのぼって自問自答を繰り返しても、過去の僕はやっぱり答えを返してはくれない。わけも分からず、頭上に現れる疑問符と戯れるだけ。
「須美姉さん……僕は帰ってきたよ」
堤防の袂、小学生だった当時の僕からは、ジャングルのように見えた草むらの中。まるで小さなドームのように整理されたその場所にかがみこんで、ぼろぼろになった漫画本を手に取る。
裏表紙をめくって発刊日を探すと、きっかりと二十年前の今日だった。
僕の周りは木の板がへたくそな釘で止められていて、欠陥建築もはなはだしい。それでも、雨風を最低限しのげる構造になっているので、小学校三年生が作ったものにしては上出来に見えた。
しかし、ひとたび今の僕が立ち上がれば、昔見た怪獣映画のようにドームから体が突き抜けてしまうだろう。
よく二十年もこのままであったものだと、感慨深く周囲を見渡す。
壊れたロボット、ヨーヨー、二十年前に流行った戦隊物の変身グッズ……化石のように泥に汚れ、ほこりをかぶったそれが、僕を懐かしそうに見つめているように思えた。
秘密基地。
僕は当時、その場所を誇らしげにそう呼んでいた――
「これがキスだよ、遼君」
僕の頬からとろけるような暖かさをもった手が離れる。
僕の頬を完全に覆いつくしてしまうほど大きなその手は、大人の女性にすれば誰もが持っている大きさだったのかもしれない。
しかし、当時の僕は背丈の小さな小学生だったし、その手がとても大きく感じられた。
僕の心と体すべてを包み込んでしまえる、特大の暖かさを持ったものとして。
「遼君にはまだ早すぎたかな? でもごめんね、お姉ちゃん、我慢できなかったんだ……」
ボブ気味に切られた髪の毛からは、柑橘系の香りが漂い、その奥には彼女独特の、女らしい柔らかな香りがした。
今思うと、その香りは男を狂わせる蠱惑的なものだったことが分かる。幼かったからこそ、僕には大人の香りが理解できず、翻弄されることもなかった。
「遼君は、好きな女の子いるの?」
「い、いないよ、そんなの!」
女の子と仲良くしていることが、ひどく格好悪いように思えたあの頃。小学校の友人達は、一様に女子に対して強硬で、僕もその例外に漏れることはなかった。女子と見ては暴言を吐き、強引な態度をとった。もし女子と少しでも仲良くしようものなら、周囲を囲まれて冷やかされた。
だから、好きな女の子、と問われただけで瞬間的につばが飛び出していた。
この話は断固拒否するとばかりに、読みかけだった漫画を手に取ると、彼女に背を向ける。
「須美お姉ちゃんね、振られちゃった。ずっと付き合っていた人に」
彼女は当事大学生だった。人文学部に所属していて、谷崎潤一郎が好きだった。
「知らないよ、そんなの」
僕は秘密基地にあぐらをかいて、漫画に目を落とした。連載を楽しみにしていたバスケット漫画のクライマックスが迫っていた。
「他に好きな人ができたんだって。だから、私とは付き合えないって」
主人公が高く舞い上がって、リバウンドをむしりとるその姿に、なぜかそのときは感動することができなかった。いつもは鳥肌が立つくらいに興奮して、足をばたばたさせて来週の掲載を楽しみにするのに。
「胸の中がちくちくするんだよ。遼君はこんな気持ち分からない?」
漫画の内容が頭に入ってこない。
同じ場面を何度も何度も読んでしまう。早く次のページをめくればいいのに、僕の意識は漫画ではなく、背後で足を崩して座る彼女に釘付けになっていた。
「ねえ、遼君……」
「だから、僕は知らな――」
僕の言下をさえぎるように、僕の首に彼女の腕が巻きつけられる。彼女の柔和な体が、僕を包み込んでいく。
人肌の温かさは、僕を眠りにいざなうように、脳に侵食してきた。
背後から体を押し付けながら、彼女が抱きしめてくるものだから、僕の背中と彼女の胸がこれ以上ないというくらいに密着していた。豊満な胸の柔らかさが僕の背中に広がる。ブラジャーの生地の感触が少し硬質に感じられたが、その奥に広がるマシュマロのような柔らかさに、僕はわけも分からず胸が高鳴った。
「漫画、読まないの?」
「よ、読むよ!」
僕は微動だにできない体に鞭を入れて、まだ読んでいないページをめくった。
楽しみにしていた先の展開が、無常にも僕の目に飛び込んできてしまった。どうやら主人公は、腰に怪我を負ってしまったようだった。
「遼君、自慰って知ってる? ……したことある?」
「知らない」
つっけんどんに言えば、彼女は体を離してくれると思った。こんなところを友達に見られたら、学校でなんて言われるかたまったものではない。馬鹿にされて、いじめられて……考えただけでも身が凍るような思いだった。
「お姉ちゃんはね、あるよ。大好きな人を思い浮かべながらするの。胸の奥で火が燃えてるみたいになって、手が触れている部分から引火してくるの」
「何だよそれ……」
不覚にも僕は聞き返してしまう。
彼女の要領の得ない比喩表現は、当時の僕には難解だった。聞き返したのは、子供ながらの好奇心といったところだろうか。
「お姉ちゃんに触ってみて。そうしたら分かるから」
漫画を読む振りをする僕の正面に回る。腕はやはり僕の首に回されたままなので、僕と彼女の顔の距離は零距離に等しい。
目を合わせることもできず、彼女のなすがままになっている真っ赤な僕。
ちら、と彼女に目をやると、彼女は意地悪く微笑んでいる。
頭が沸騰しそうだ。耳鳴りがして、風邪を引いたような頭痛がする。
「遼君は、女の子の体に興味がないの?」
「あるわけないだろ、女なんて……」
「女なんて?」
「格好悪いし」
「子供だね、遼君は。でも、それが可愛い」
可愛い。その吐息のような声が、僕の耳朶を舐めていった。全身の毛が逆立つような感覚。当時の僕でも意味を容易に理解できる言葉だから、余計に頭の中で反響する。
彼女の手が僕の手に重なる。そしてあろうことか、重ねた僕の手を彼女は自らの胸にあてがった。強く、かつ、大胆に。
「お姉ちゃんの胸、好きだって言ってくれたんだ。形がいいって、虜になるって」
シャツの上からでも分かる彼女の鼓動が、乳房の上から僕の手のひらを通して伝わってくる。あまりの緊張に体中が硬直していて、僕は指一本動かすことができない。けれど、感覚だけは研ぎ澄まされ、なおかつそれは手のひらに集約されていた。
「遼君は私のこと好き? 裏切ったりしないよね?」
魅惑の瞳で、僕の瞳を覗き込む。まるで、分かっている答えを、あえて僕の口から聞こうとするかのようだった。
「そ、そんなの、知らないよ」
「お姉ちゃんは、遼君のこと好きだよ」
そうして彼女は僕の小さな唇に、自らの唇を押し当てる。溢れそうになる感情を、僕に流し込むようにして。僕は肺のきしむ音、心臓が悲鳴を上げる声を聞いた。
夢中になって僕の唇を吸い、上唇を甘噛みする彼女の顔が、僕の視界を埋める。キスのとき目をつぶる習慣すらない――そんな習慣があることすら知らない――僕は、あまりの恥ずかしさに顔中を沸騰させて視線を外す。
刹那、彼女の耳元で揺れる赤い木の実のようなピアスが目に入った。
立て付けの悪い秘密基地の屋根から漏れる一条の光。光り輝く彼女の横顔、ピアス。僕はその輝く赤いピアスを見ながら、不思議な感覚にとらわれはじめる。
赤い木の実のようなピアスが、たわわに実っていく幻想。
彼女の耳元でそれは次第に大きく、より赤く膨れ上がっていく。やがて限界まで膨れ上がった木の実は、彼女の耳たぶを引っ張ることなく、その場ではじけ飛んだ。中からは赤い微粒子が煙のように僕に向かって近づいてきて、僕と彼女を隔てるように漂う。
僕はその微粒子を嗅ぎたくて仕方がなかった。鼻から吸い込んでどんな匂いがするのか確かめたかった。匂いがするのかも、吸い込んでいいものかどうかも分からない。ただひとつ言えることは、僕の中で産声をあげる何かが、僕をその衝動へとかき立てたということだ。
その感覚を言葉として知るのはもう少し先の話だが、当時の僕ですら感覚を持っていたということに驚かされる。分からないまでも、持っていたのだ。
本能、そう言い換えられたのかもしれない。
「遼君……?」
唇を離した彼女は呆然とする僕を見つめる。そして、ふいにその視線は僕の下半身へと下りていった。僕は彼女の視線に連れ添うしかない。
「遼君、腫れてる……」
僕の体に起きた異変に、僕は愕然とする。
「苦しそうだよ……?」
彼女なら、勃起という男なら当然の反応を知っていただろう。
だが、僕はそうではなかった。自らの下半身が、はちきれんばかりに短パンを押し上げているのだ。虫に刺されたわけでもなく、打撃を受けたのでもなく、自分勝手に膨張しているその様は、恐怖に近いものがあった。
「なんだ、これ……!」
血の巡りが活発化して、それは下半身に集まる。外に出たいと言わんばかりに生地を押し上げるから、苦しいことこの上ない。
自分の体が、自分のものでなくなったような未知の恐怖。
血の気が引いていくのが分かる。甘美な唇の味や、柔かな胸の感触などは頭から追い出されて、僕の頭の中は大恐慌に陥った。
汗が額を駆ける。重なった彼女の手までも巻き込んで震えていく。
「お姉ちゃんで、こうなったんだよね?」
対して彼女は平静だ。それどころか、先程にも増して妖艶に見える。それを当時の僕には理解できなかった。まるで僕自身を食らおうとする蛇が如くに感じられて、身を引いてしまう。
「怖がらないで」
双眸に怪しい光をともしながら、四つん這いになって僕に迫る彼女。獲物を追い詰めた蛇。僕を一飲みにしようと、体をくねらせながら接近してくる。
なぜ彼女はこんなにも冷静で、妖しくなれるのか。
なぜ僕の大きく腫れた下半身を見て驚かないのか。
僕の頭の中で高速回転する疑問の渦を、僕は処理しきれない。
「遼君……」
彼女の手が僕の屹立したズボンに触れた瞬間、僕の恐怖は爆発した。彼女の触れた箇所から駆け上がってきたものは、未体験の感覚。
熱く、それでいて、敏感。
切なく、それでいて、愛しい。
もっと触れてほしいという懇願と、未到達の領域に対する恐怖。
前者四つの感覚と、後者二つの矛盾。
そのジレンマが彼女を突き飛ばす原因となった。
「痛いよ、遼君」
僕は狭い秘密基地の中で立ち上がり、息を切らしていた。自らの体に起こった異変と、彼女に宿った妖美に、僕は恐れをなすことしかできなかった。
尻餅をついた彼女に謝罪することもなく、僕は秘密基地から駆け出す。
「遼君!」
悲鳴のような声を聞いても、僕は背後を振り向かない。買ったばかりの漫画すら置き去りにして、僕は走り続けた。
走るたびに、腫れ上がった下半身がズボンにこすれて痛かったけれども、それは人ならざる自分への戒めだと思って我慢した。
もちろん、それは人ならざるものなどではない。当時の僕は、その僕に起こった異変が、誰にでも起こることだということを知らなかっただけだ。
僕が子供だっただけ、彼女――須美姉さんが大人だっただけ。
……それ以来、僕は彼女の姿を見ることはなかった。
もう一度、僕は廃屋のような秘密基地を見渡す。
太陽の直下にさらされた秘密基地には、数条の光が降り注いでいた。太陽光線は天井の隙間から間断なく降り注いでいて、それは曇り空から晴れ間へと移行する鮮やかな光景に似ていた。
思い出に浸っていた僕の視界の先に、きらりと光るものがある。
まるでスポットライトのように照らし出されたそこにあったのは、あの赤い木の実。
彼女がしていたピアス。
僕はそのピアスを手にとって握り締めた。
あの出来事以来、僕は彼女を見たことはない。僕が県外の学校へ入学してしまったのも原因のひとつだし、意識的に会わないようにしていたというのもある。近所の噂では、結婚してどこか遠くへ引っ越してしまったらしい。
二十年経過した今でも、僕は幾度となくあのときの彼女を思い出す。どれだけ年月を経ても、きっと忘れないだろう。それどころか、年月が経てば経つほどその輝きは増してきている。
……青春の幻影。
そんな言葉を頭に浮かべて、大きく息を吐いた。
狭いこの場所は、当時の僕が立ち上がることはできても、今の僕は立ち上がれない。この場所に生きている思い出は、この場所に生きていた当時の僕自身のものだ。
今の僕には恋人もいるし、育てていかなければいけない愛もある。
「さよなら、須美姉さん」
僕は痛みをかえりみずに立ち上がった。頭が秘密基地の天井に激突して突き抜ける。天井の破壊と連動して、今まで均衡していたものが崩れ去った。柱が倒れ、板はばらばらになり、あとは勝手に自重で崩壊していった。
もはや見る影もない。
僕は握り締めていたピアスをその場に落として、秘密基地跡に背を向ける。当時の僕が秘密基地を壊されて怒り狂う様が、脳裏で鮮明に想像できた。
男女関係の酸いも甘いも、何も知らなかったあの頃――
幼かった僕には、それが愛情表現の一つだということに、気がつくことすらできなかった。
【END】
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。そして、交流サイト運営者の皆さんありがとうございます。
今回この小説を書くのは非常に気を遣いました。描写もそうですが、あまりエロくならないように心がけたつもりです。またテーマ性を込めるのにも苦労しました。少しでも何かを感じていただければ嬉しいです。……といいつつ、最近の私の傾向は悪い方向に向かいつつありますね(泣)
評価、感想、栄養になります。