【23日目】 3月8日(日)
鏡の前に立った私は、昨日アミと一緒に選んだ口紅をひく。
顔の中のほんの一部が、色を塗り替えられただけなのに、まるで自分じゃないみたいで、私は慌ててティッシュでふき取った。
そして、上からいつもの、ほんのりピンク色のリップを塗る。
「これで、いいや」
せっかく買った口紅だけど、やっぱりまだ私には似合わない気がする。
まだ、こっちの色つきリップでいい。
私はケータイで時間を確認すると、急いで家を出た。
今日は、アミと先輩と、高橋と私で動物園に行くことになっている。
動物園なんて、正直子供っぽいような気もしたけど、アミと高橋が随分盛り上がって、勝手に決めてしまったのだ。
バス停に向かって歩き出すと、いつも高橋と別れるT字路で、高橋とよく似た背格好の人影が見えた。
そいつはこっちを向いて、ぶんぶん大きく手を振っている。
「高橋……?」
少しずつ雪が溶け始めた地面を蹴って駆け寄ると、間違いなく高橋がおはようと笑った。
「どうして?」
「何が?」
「だって、動物園……こっちまで来たら、遠回りじゃない」
「早く起きて、暇だったし。それに、ユキ、迷子になりそうじゃん?」
「コドモじゃあるまいし、ひとりで行けるわよっ」
私はそう言って先に歩き始めた。
本当は、駅でバスを乗り換えしなきゃいけないのが、ちょっとだけ不安だったけど。
それを素直に打ち明けるのは、悔しいからやめた。
後ろからついてきた高橋の冷えた指先が、私の手を握る。
たぶん、いつものように定期を使って学校に着いて、それから歩いてここまで来たんだろう。
でも、こんなに指先が冷えるまで……一体いつから、ここにいたの。
「ありがと、ね」
「え?」
「迎えに来てくれて」
呟くように言うと、不意に高橋が立ち止まった。
そして、嬉しそうに満面の笑みを見せるから、こっちのほうが照れて恥ずかしくなる。
早くなる鼓動が、繋いだ手から伝わってしまいそうで。
でも、高橋の表情を消してしまいたくなくて、私は顔を背けながらも、繋いだ手を離さなかった。
あと、6日。
こうして、高橋の隣で、彼女しか知ることのできない景色を見ることができる。
成り行きで始まってしまった関係なのに、ずるずると高橋のペースに巻き込まれて。
29日間なんてあっという間で、どこかで14日のホワイトデー以降も、このまま楽しい時間が続くような気がしてる。
高橋は、私のことを好きだと言ってくれた。
その気持ちは、あと6日で、本当に終わってしまうんだろうか。
おしゃべりな高橋にテキトーに相槌を打ちながら、私は彼の横顔を眺めるのが好きになった。
見上げる彼の向こうには、春の近づいたことを知らせるような青い空が広がっている。
きっと、隣にいるのが高橋じゃなかったら、今日のこの空の色も、気付くことなんてなかったんだ。
私たちはバスに乗り込むと、後ろのふたり掛けの席に座った。
「そういえば、ユキ、決まった?」
「何が?」
「将来の夢」
「そんなの、急に決まるわけないじゃん。って、そうだ、高橋はちゃんと決めてるんだっけ」
先週、卒業式のときに、確かそんな話をしたはずだった。
それと一緒に、あの日の恥ずかしい自分の行動まで思い出して、耳が熱くなる。
あれから結局、話の続きを聞いていなかった。
「俺は、絶対、パティシエになる」
ちょっと得意げな高橋だけど、私は意外でもなんでもなくて、むしろ当たり前すぎて驚いた。
「ケーキ屋さん、継ぐんだ」
「そ。けど、もうちょっとカフェっぽい、オシャレな感じがいいんだよなぁ」
その発想は思いがけなくて、私はつい噴出して笑った。
「なんで笑うんだよ」
「だって、オシャレとか、高橋が、言う?」
「言うよ。で、俺は、癒やし系のパティシエになる」
「はぁ? 癒やし系って何? 白衣にコック帽で、お帰りなさいませ、お嬢様、とかやんの?」
「それはメイドの仕事だろ。あ、俺イイコト考えた。俺が作ったケーキを、メイドのユキがお客様に出すっていうのは、どう?」
「イヤよ、メイドなんて。私はケーキ食べたいもん」
「いーじゃん、店終わったら、腹いっぱい食わせてやるよ」
イヤだと言いながらも、私たちは笑いながら想像の話を続けた。
高橋の家は、古くからある小さなケーキ屋さんだ。
地元ではそれなりに有名だし、我が家も時々お母さんが高橋のところのケーキを買ってくる。
「けど高橋、ホントにケーキなんか作れるの?」
「あったり前じゃん。ケーキ屋の息子がケーキのひとつ焼けなくてどうすんだよ」
「ふうん」
「だから、14日、楽しみにしてろよ」
気にかけている「14日」を高橋の口から言われて、思わず彼の顔を見た。
私の気持ちなんて、まるで知らないみたいな高橋が、少しだけ恨めしい。
だけど、それを悟られないように、私はわざと顔をしかめて口を開いた。
「もしかして、高橋の手作りケーキ、とか?」
「何だよ、嫌な顔すんなよ。マジで、美味いから」
「言っとくけど、あのチョコ、高かったんだからね」
「手作りには、敵わないって」
「そーゆーのは、私が食べてから言う台詞でしょ」
「いや、絶対、ユキは俺のこと、惚れなおすよ」
自信過剰な高橋に、私は呆れて笑った。
そもそも、私は高橋に「好き」だなんて言ってないから、惚れなおすっていうのは随分な言い方だと思う。
だけど、惚れなおして、いいの?
14日からまた、高橋のこと、好きでいていいのかな。
素直に聞けたら、いいのに。
素直に好きって言えたら、いいのに。
冬の動物園は、日曜日ということもあって、思っていたより人が多かった。
私たちはアミと先輩と合流して、一緒に園内を歩いた。
もしも同じクラスのコに会ったらどうしようかと心配したけど、そのときは、今の状況を正直に、付き合ってるって言ってもいいと思ってる。
いつからか、たとえ14日で終わってしまっても、ふたりのことを隠す必要なんかないと思うようになった。
「ユキたちも、超イイ感じだね」
先輩と高橋がオオカミに見惚れてるところで、アミが私の横に来て小さな声で言った。
「そ、かな。アミたちは、もうすっかり恋人同士ってカンジじゃん」
毛先をゆるく巻いたロングヘアを指先でいじりながら、そんなことないよとアミは頬を赤くする。
恋する視線は先輩の背中を見やって、そしてはにかんだように笑った。
私も、そんなふうに高橋のことを見てるのかと思うと、ちょっとだけ恥ずかしくなる。
「ところでユキ、いつから高橋くんのこと、好きだったの?」
「え? あー……あのね」
私は一度小さく深呼吸して、アミの目を見た。
「アミ、ごめん。本当はね、バレンタインのとき、なんていうか、成り行きで高橋にチョコ渡しちゃったんだ……もっと早く、アミにはちゃんと話そうって思ってたんだけど」
「何? どういうこと?」
「あの日、本当はバイト先の先輩に渡すって話、してたじゃない?」
「うん」
「だけど、なんとなく、渡せないなって思ってて。どうしようか迷ってたときに、高橋が来て、貰ってやるって言われて。けど、その代わり、3月14日まで付き合えって」
「じゃあ、偽装恋愛なの?」
大きな瞳をさらに丸く見開いて、アミが私を覗きこむ。
その表情は、怒っているというより驚いているようで、少しだけほっとした。
偽装恋愛、なんて言葉を発想しちゃうアミに笑いそうになったけど、でも、今の私たちには近い言葉なのかもしれない。
「高橋の気持ちは、本当かどうか、ちょっとわかんないんだけど。私は……」
先輩に何か話しかけて笑ってる高橋を見ると、私は胸の奥が切なくなった。
アミと、違う。
私はアミみたいに、柔らかな優しい顔で好きな人を見つめることなんてできない。
「私は、高橋のこと、好きになっちゃったみたい」
気持ちを言葉にして吐き出したら、前よりもっと苦しくなった。
もし、本当に14日で終わってしまったら、この気持ちはどうしたらいいんだろう。
恋することよりも、不安のほうがどんどん大きくなっていく。
「大丈夫だよ、ユキ」
「え?」
「高橋くん、絶対ユキのこと、本気で好きなんだと思うよ。14日までっていうのは、ちょっと気になるけど……でも、そんなひどいことするような人じゃないと思うし。だから、もう、そんなに心配そうな顔しないで」
アミが微笑んで私を見るから、つられてちょっとだけ笑う。
先輩がこっちを振り返って手を振ったとき、私のカバンの中でケータイが鳴った。
ディスプレイには「みちこ」、母親の名前が表示されて、私はひとり、みんなから離れて通話ボタンを押した。
帰りに駅前の古いデパートにあるパン屋で、クロワッサンと角食を買って来いとの内容で、そんなことならメールで済ましてくれと言ったら、デートは順調なのかと聞いてきた。
「まったく、余計なお世話だって」
母にはデートだなんて報告した覚えはないけど、鏡の前であれだけ悶着してれば、バレちゃったんだと思う。
通話を切ってひとりごちると、みんなが居たはずの場所を振り返った。
だけど、そこに姿はなくて、よくよく辺りを見渡して、やっと見つけたアミと高橋の思いがけないふたりの姿に、私は眉根を寄せた。
高橋がアミの手を引いて建物の陰に入ると、今度は両手を合わせて懸命に謝るみたいに頭を下げている。
「何、アレ」
アミは笑ってるけど、一体高橋はアミに何をしたんだ?
そっと近づいて話を盗み聞きして、ふたりを脅かしてやろうと思いついた私は、人ごみに紛れてふたりのそばまで来ると、案内板の影に隠れてこっそり聞き耳を立てる。
情けない高橋の姿を想像して、思わず笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。
「マジで、バレてない?」
「バレてないよ。信用してよ、私のこと」
ふたりの声をキャッチした私は、同時にその内容にどきりとした。
バレるとか、バレないとかって、どういうこと?
「けど、どーすっかなぁ。こんなに簡単に話が進むなんて、予想外だよ」
「私も、あんなに簡単にユキが騙されるなんて思わなかった」
「だよなぁ?」
私を、騙してる?
高らかなふたりの声が、私のことを笑ってるんだと思うと、不思議と周りの喧騒なんてまるで聞こえなくなって、アミと高橋の声しか私の耳に届かなくなった。
頭の中を突然かき回されたみたいに、混乱してる。
「ユキ、たぶん本気になっちゃってるよ。14日までとかっていうの、どうするの?」
「それは、なんとかするよ」
「なんとかって?」
「まだ考え中」
どういうことか、よくわかんない。
でも、やっぱり、これはただのゲームだったんだ。
最初からおかしいと思ってた。
訳のわかんないことに、首をつっこんじゃった私が悪い。
だけど、だけど。こんなのって。
「ユキちゃん?」
その声に顔を上げると、先輩の穏やかな表情から笑みが消えた。
「どうしたの、何か、あった?」
私、そんなふうに心配させてしまうような、どんな顔してるんだろう。
そして、案内板の向こうから、アミと高橋がひょっこり顔を出した。
「私、急にバイト入ったから、帰るね」
まともにふたりと目を合わせることなんかできずに、急ぎ足でその場を離れた。
「ユキ! ちょっと待って。バイトって、ホントか? 今の話、もしかして、聞いてたんじゃないのか?」
追いかけてきた高橋に、私は言葉を返せなかった。
明らかに焦って取り繕うとしている口調が、わざとらしく聞こえてしまうのは、どうしてだろう。
「だったら、ちゃんと話すから、説明するから、聞いて」
走り出そうとしたとき、ぎゅっと腕を掴まれたけど、私はそれを力任せに振り払った。
瞬きしたら、涙がこぼれてしまいそうで。
だけど、泣き顔を見せるなんて、絶対にイヤで、ぎゅっと唇を噛んだ。
「アンタなんか、大っ嫌い」
声が、体が震えてるのは、彼らに対する怒りなのか、それとも裏切られたことが悲しいからなのか、わからない。
振り払ってからもずっと、高橋が追いかけてきているのはわかっていた。
何度名前を呼ばれても、振り返らなかった。
人ごみをぬう様に走り続けて、園を出たところで、すぐにタクシーに乗り込んだ。
いくら料金がかかるかわからなくて、私は家の住所を告げる。
財布の中身が足りなくても、家に帰ればお母さんにお願いできるし。
パンを買ってくることができなかったこと、謝らなきゃ。
動き出した車の中で、ぼんやりと私はそんなことを考えた。
だけど、頭の中からどうしても、面倒臭そうな高橋と、この状況を茶化してるみたいなアミの会話がリフレインして消えない。
堪えきれない涙を、知らない人になんか見られたくなくて、私は何気なく目尻を押さえるふりをして、何度も何度も涙を拭いた。
最低、最悪。
まんまと騙された私も大馬鹿だ。
「今日は晴れてたから、人が多かったでしょう?」
運転手がノーテンキな声で話しかけてきた。
適当に返事をすると、窓の外から眩しいほどの日差しが私のブルーのコートを照らした。
もうすぐ、雪が溶けて春が来る。
私の短い恋も、溶けて消えてしまうんだと思った。