【1日目】 2月14日(日) 聖バレンタインデー
本日、雪。
土曜日、午後の教室には、誰もいなくて。
授業がないから、教室の暖房は切られていて、私はブルーのダッフルコートに白のマフラーをしたまま、ついでに両手をポケットにつっこんで、窓の外を眺めていた。
地面よりもくすんでる灰色の空から、真っ白な雪が落ちてくるのは、少し不思議だと思う。
「そんなこと、どーでもいーんだけどさぁ」
溜息混じりに私はひとりごちると、茶色く冷たい机の上にごろんと突っ伏した。
そして、黒い小さなショッピングバックをぼんやり見つめる。
金色で記されたブランド名の横文字が、いかにも高級感をたっぷりに出してくれて、なんていうか、私らしくないっていうか。
「はぁ……」
なーんで、こんなこと約束しちゃったんだろう。
のっそりと顔を上げて、黒板の斜め上にある時計を見つめた。
アミが教室を出て行って、もう15分も経ってしまった。
約束の時間は過ぎているし、もしかしたらもうすぐ帰ってくるかもしれない。
それまでに、コイツをなんとかしなくては。
「でもなぁ。あぁーっ、どうしよう」
聖バレンタインデー。
この日にドキドキ胸を高鳴らせる女子は、少なくない。
私もチョコレートの入ったバックを前に、脈拍数上昇中。
といっても、切なく甘いドキドキなんかじゃなくて、不安で後悔一杯で、でもとにかく前に進まなきゃいけないっていう、愛を告白する日にはふさわしくない動悸だ。
ふと、誰かが教室に入ってくる気配に、私は顔を上げた。
「なんだ、高橋か」
「なんだって、なんだよ」
やってきたのはクラスメイトで、学園祭の実行委員を一緒にやっていた高橋カイトだった。
とにかくアミじゃないことに、私はほっとする。
まだ決心がつかないから、できれば彼女にはまだ戻って来てほしくなかった。
「えっ、柏木、誰かに告んの?」
「あー、いや、そんなんじゃないっていうか、なんていうか」
「つーか、コレ、超高そうなチョコじゃね?」
私の前までやってくると、高橋は例のバックを指差しながら目を丸くする。
「うん、高かった」
こんなもののために、バイト代、結構つぎ込んじゃったんだよなぁ。
そして、私は今日何度目かわからない溜息をつく。
「それなら、何だよ。……もしかして、もう振られちゃったとか」
「はずれ」
「は? じゃあ、アレだ、逆チョコってやつ?」
「それも、はずれ」
怪訝な顔をして、高橋は首を捻った。
当然だ。
あえてどれが正解に近いかといえば、一番最初のヤツだけど。
「もし、高橋がこのチョコ貰ったら、本命だと思っちゃう?」
「そりゃあ、まぁ……な」
「だよねー」
私がバックを手に取り眉根を寄せると、前の席に高橋が座ってこっちを向いた。
「どーしたんだよ」
「うん……アミと、約束しちゃったんだよね。バレンタインに、一緒に告白しようって」
「何だよ、それ」
「アミ、好きな先輩がいるんだけど、バレンタインに告白するって言ってて。で、チョコ選びに付き合ってる時に、私にも好きな人がいるなら、一緒に買って、14日に一緒に告白しようってことになっちゃって」
「じゃあ、やっぱ告白するんじゃん」
「それが、さぁ。なんていうか、ノリで好きな人がいるって言っちゃったんだよね」
「……ありえねぇー」
首を左右に振る高橋に、私も激しく同意したい。
なんて馬鹿なことしちゃったんだろうと、今なら思う。
でも、正直なところ、本命のチョコ選びをしているアミが、ちょっとだけ羨ましかった。
私もあげようかなぁ、なんて呟いたのが運のつき。
誰か好きな人いるの? と目を輝かせながら聞いてくるアミに、気になる人ならいると、つい言ってしまったのだ。
褐色に光る小さな粒が、まるで宝石みたいに硝子ケースの中に並べられ、バレンタインにチョコレートを送って気持ちを伝えましょう的な雰囲気満載の店内に、私はすっかり飲み込まれてしまっていた。
実際、チョコを選ぶのは、楽しかったんだけど。
ホント、溜息が止まらない。
「っていうか、一応、渡そうかなって思った人はいるんだけど」
「マジ?」
「バイト先の大学生で、カッコイイし、優しいし、普段からお世話になってるし。でも、彼女いるの知ってるし、何よりコレが、超本命っぽいじゃん? あげちゃってから、気まずくなるのも、嫌だなぁって思って」
「ふーん。じゃあ、素直に及川に言えばいいじゃん。やっぱ、あげんの止めたって」
「そーゆーの、女同士ってキビシイんだよ。抜け駆けしたら、裏切られたとか言うんだから」
「めんどくせぇな、女って」
「まぁね」
私も面倒だと思うけど、それも友達。
今頃告白してるだろうアミの、結果が良かろうと悪かろうと、似たような感情や感覚を共有したい気持ちは、私もわからなくもない。
でも、許容範囲オーバーな今回のことは、自業自得とはいえ、すっかり困ってる。
「あげたふりして、事後報告でいいんじゃねぇの」
「それが、私の告白に、わざわざ付き合ってくれるらしいんだよね」
呆れかえった高橋と、私も一緒に溜息をつく。
しばらく何か考え込むような仕草をして、高橋は私の顔をのぞきこんだ。
「柏木は、どうしても告白したくないんだよな」
「うん、できれば、避けたいと思ってる」
「なら、俺がこのチョコ、貰ってやる」
突飛な提案に、その意図が見出せず、私は思わず首をかしげた。
そして、高橋はさも面白そうに、にやりと笑う。
「だから、俺がこれを受け取ってやるよ」
「……は? 意味わかんないんですけど」
「今、俺が貰っちゃえば、柏木は、その義理的立場な大学生に告白しなくて済むだろ」
「うん」
「来月、ちゃんと、お返しするからさ」
そう言って、高級チョコレートの入ったバックを持って立ち上がる。
「その代わり、条件がある」
「あの、私、高橋にあげるとか、まだ言ってないけど」
訳のわからない展開に、ストップをかけようとする私を無視して、悪いことを考えてるコドモみたいな顔をした。
「ユキ、今日からホワイトデーまで俺と付き合って」
「はぁ!? ありえないしっ、何言ってんの」
「だから、来月14日までのことだって」
「だからって、何? マジで意味わかんないんだけど!」
返してとバックに手を伸ばすものの、160センチに満たない私の身長じゃ、頭一個分くらいデカイ高橋が手を高く上げれば、届くはずがなくて。
気が動転して、名前で呼ばれたことなんて、このときはどーでもよくて。
「ちょっと、返してってば!」
「やだよ、いーじゃん、何か面白くね?」
「面白くないっ!!」
「ユキ……?」
必死にバックを取り返そうとしていた私に、彼女の声が突如聞こえて、嫌な緊張感が再び全身を駆け抜ける。
見れば、戸口にきょとんとしたアミが立っていた。
「おっ、及川。見てこれ、ユキから貰っちゃった」
「え?」
そうなの? と今にも言いそうな顔で、アミは私を見て微笑んだ。
いや、微笑むとか、そういう状況じゃないんだけど。
「それで、ふたりは付き合うの?」
清楚で大人しそうな雰囲気には似合わない、ものすごくストレートな質問に、私がテキトーな嘘で取り繕う間もなく、高橋がうんと頷いた。
「えっ、ちょっ!」
「あー、けど、今話してたんだけどさ、俺らが付き合ってるの、みんなには内緒にして」
否定したい私を制するように目で合図をすると、高橋はそう言って、両手を合わせてアミに向かってお願いポーズをする。
「このとおり、ユキってすぐ照れんじゃん。みんなにバレて、気まずくなるの、嫌だっていうからさ。頼むよ、及川」
「うん、わかった」
わからなくって、いいから…!
って、実際口に出せない私の事情を知ってる高橋に、腹が立つ。
どうしようもできない歯がゆさに、くらくらして倒れそう。
このままじゃよくないけど、こんなふうになった事情をアミに話すわけにもいかないし。
だからって、取り返したところで、結局私は誰かに告白しなきゃならないし。
どうしよう。これで、いいの? いや、やっぱ良くない。でも。
「あ、の……私、か、帰る」
ぼそりと呟くと、高橋とアミが呼び止めるのも無視して、私は逃げ出すように教室を後にした。
追いかけてきたアミの質問攻めも適当に答えながら、動揺を無理やり押さえつけようと、今起きてしまったことを反芻してみる。
流されるまま、なんとなく切り抜けたみたいなことになってるけど。
とりあえず。
余計な告白をせずに、あのチョコレートが手元を離れたことにはほっとしてる。
高橋がフォローしてくれたから、付き合っている嘘をつくのは、アミだけでいいし。
けど。
玄関まで来ると、カバンの中でケータイが鳴った。
高橋からのメールだ。
『約束、ちゃんと守れよ』
問題は、コイツが言ってることの信憑性。
付き合うって、本気なの!?
やっぱり、全っ然意味わかんない。
私はディスプレイを睨みつけると、即座にケータイを閉じた。
とにもかくにも、こんな私たちの29日間は、この日から始まった。