abhor and forbid 第三話
「やあ、ご同学諸君! 今日も一日、勉学ご苦労さん」
陽気な掛け声を放ちつつ、リカルドがフヒト、クリス、リズ、ベスの元へ歩み寄る。
「ああ、うるさいのが来た……」
フヒトはげんなりしたように眉をしかめてみせた。
「そんなに歓迎するなよ、照れるじゃないか」
そんなことはお構いなしに高笑いを響かせながらリカルドがフヒトの背中をバンと叩く。
「なんだ、とうとう耳でもおかしくなったか?」
眉を歪めたフヒトは怪訝そうにリカルドを見やる。
「いやいや、よく言うだろう。面と向かっての憎まれ口は親愛の情の裏返しだってな」
「悪口の応酬も親しい間柄ではコミュニケーションになりえるもの。すべてはお互いの関係性の賜物なのです」
リズが笑顔で注釈を加える。
「その通り。今の俺は、おまえのどんな悪態も親愛の言葉として受け止めてやるぜ!」
「どれだけポジティブシンキングなんだよ。本当におめでたいやつだな」
自信たっぷりのリカルドを見つめ、フヒトは呆れたようにため息をついた。
「一般的に罵り合いは争いを生む行為だけど、特殊な関係においてはそれも許容される。本当に信頼や関係性って奥が深いわね」
「なるほど、やはりお二方は特別な関係ということですか……」
ひょっこり姿を現した眼鏡の女子生徒が、クリスの発言に意味深に相づちを打った。
「ヤヨイ。またおまえ、ろくでもない妄想でもしてるんだろ」
フヒトは迷惑そうに眉間に皺を寄せた。
「ろくでもないとは失礼な! 私はお二方の関係について真剣に考察していたんです。何を根拠にそのような世迷言を仰るんですか?」
「おまえの普段の言動がそうさせるんだよ」
「なんたる侮辱! それこそ憶見というもの。そのような偏見に満ちた眼で、人の内心を推し量るのはやめていただきたい」
「よく言うぜ。なんなら、その考察とやらを披露してみろ」
リカルドがおざなり気味に言い放つ。
「いいでしょう。いささか挑発に乗るようで気が進みませんが、お望みとあらばお聞かせしましょう」
威儀を正したヤヨイが、目を爛々と輝かせて言葉を続ける。
「私も以前からフヒトさんとリカルドさんの親密な関係については注目していました。ですが、残念なことに私は傍観者という名の部外者。お二方の関係性については想像の域を出ないというのが実情。そのため、独自の観察活動を行っていたんです。今さっきのやり取りから察するに、立場関係はフヒ×リカのような気もするんですが、私的にはリカ×フヒも捨てがたいと思うんです。皆さんはどう思いますか? 外からの視点では捉えきれないものもあります。より内側の視点として、参考意見を伺いたいものです」
話し終えたヤヨイが、絶句するフヒトとリカルドをよそに、女性陣に対して、にこやかに微笑みかけた。
「ノーコメント。あいにく、その手のことには興味ないの」
クリスが平然と切り捨てる。
「そのようなこと、尋ねられても返答に困るのです……」
リズは顔を赤らめてうつむいた。
「……リバ」
ヤヨイが視線を向けると、ベスはそれに応えるようにボソッとつぶやいた。
「なるほど! 確かにそれもありですね! 早速、その方向性も取り入れてみましょう。それではみなさん、ごきげんよう」
顔を輝かせたヤヨイは足早にその場を後にした。
「ああなると、もはや病気だな……」
「まったくだ……」
顔を見合わせたリカルドとフヒトは、目が合うと、具合が悪そうにどちらからともなく顔を背けた。
「あ~あ、ヤヨイのせいで気分が害された。さっさと、帰ろうぜ。ついでにおまえらどこか付き合え。気分直しだ、気分直し」
「奇遇だな。俺も同じ心境だ。その提案、乗った」
フヒトは渋面で首肯する。
「ごめんなさい。今日、ちょっと都合が悪いのよ」
クリスが申し訳なさそうにふたりを見つめた。
「そうですか。それは残念ですねぇ」
リズが眉をハの字に寄せて、そのクリスを見つめる。
「なんだ野暮用か? なんなら手を貸してやろうか?」
「違うのよ。今日は珍しく父が家にいるの」
クリスがリカルドに向き直って答える。
「へぇー、親父さん、今日は休みなのか? いつもは忙しく飛び回っているのにな」
フヒトが目を瞠った。
「そうなの。明日から始まる法案審議に備えて、束の間の休息ってところね。たまのことだから、せめて一緒に過ごすぐらいのことはしてあげたいのよ」
「『良い息子たらんとするとき、両親は遥か彼方』ってな。親孝行は生きているうちにするこった。本人の意思に関係なく、別れは不意に訪れるものだからな」
リカルドが腕組みをしてうなずく。
「間違いではないけれど、縁起でもないこと言わないでくれる」
苦笑しながらクリスは応えた。
「悪い、悪い。まぁ、そういうことならしゃあないな、今日は大人しく帰るとするか」
「別に私に遠慮することないじゃない。あなたたちだけで行けばいいのよ。そのほうが私としても気が楽だし」
「そうか? なら、そうするか。変に気を回すってのも、俺たちの間では何か違う気がするしな」
「それもそうだ」
リカルドとフヒトが揃ってリズとベスに同意を促した。
「折角ですが、リズたちはやめておくのです」
「何でだよ?」
リカルドが目を丸くしてリズを見つめる。
「良い機会ですので、おふたりの仲をさらに深められてはどうかと……。リズたち、そのお邪魔はしたくないので」
リズは口元に手を当てて目を細めた。
「なっ! さっきのベスの発言といい。おまえらちょっと悪ふざけが過ぎるぞ!」
フヒトは目を見開きリズとベスを見据えた。
「少し粛正の必要がありそうだな。よし、拉致してでも連れてくか! フヒト、おまえはベスを捕まえろ!」
「ああ、まかせとけ!」
「私刑はお断りなのですぅ」
笑顔のリズと無表情のベスが出入り口へと駆け出す。フヒトとリカルドも自分たちの鞄を掴むと追う体勢を整える。
「はしゃぐのも程々にね」
クリスの見送りを受けつつ、四人は教室を後にした。
「ん~! このジャンキーな味、懐かしいなぁ」
ハンバーガーの一口目を飲み込んだリカルドが感慨深げに言葉を吐く。
「大袈裟なやつ。ま、俺もかなりご無沙汰だったけどな」
フヒトは手に持つハンバーガーを見つめた。
軽快なリズムの音楽が流れるファストフードの店内には、フヒトたち以外にも、多くの学校帰りの学生がひしめいていた。
「クリスが一緒だと、こういう店にはまず来ないからな、俺たち」
「そうだよな。別にあいつも毛嫌いしてるわけじゃないんだが、居住まいの悪さを感じてるってことはひしひし伝わってくるからなぁ」
「ご令嬢として育てられたクリスさんにとって、こういう食文化は馴染みのないもの。当然といえば当然なのです」
リズが持て余し気味に自分のハンバーガーに口をつける。その隣で、ストローをくわえたベスがウンウンとうなずいた。
「父方は公爵家に連なる政界の名門で、親父さんは政府の要人。母方も負けず劣らず、やんごとなき家柄で財界の有力家とくれば、正真正銘、良家のお嬢様だもんなぁ」
リカルドが中空を見上げてつぶやく。
「大学でならいざしらず、それ以前の教育課程で俺たちがそういう人間と机を並べるなんて、まずありえないだろう」
「慣例として、西洋の上流階級の子女は神学を修めるのが一般的らしいですから、クリスさんもミッションスクールに通っていたかもしれませんねぇ」
「プフッ、そりゃ傑作だ! あいつが神様にかしずく姿、見てみたかったぜ」
飲み物を噴出すのを堪えたリカルドが声をあげて笑う。
「あ……、クリス」
ベスがすかさず指を突き出す。それに反応したリカルドが血相を変えて後ろを振り返った。
「たちの悪い冗談はやめろって! 心臓が止まるかと思ったぞ」
リカルドが冷や汗をかきながらベスをにらむ。対するベスはそ知らぬふりを決め込んだ。
「案外それが嫌でこっちに来たのかもな。あいつ、宗教嫌いなところがあるから」
フヒトは笑いながらストローをくわえる。
「明日、ご本人に聞いてみましょう。本当のところはどうなのか」
リズもクスクスと笑い声をたてた。
「それはいいが、くれぐれもさっき俺が言ったことは口にするなよ。もし知られたらどんな目に遭わされるか……」
「しょうがない。黙っててやるよ」
目を泳がせるリカルドを見て、フヒトは苦笑した。
「安心してほしいのです。リズも話したりしませんから」
「頼むぞ!」
念を押すようにリカルドがフヒトとリズを交互に見つめる。
「……アップルパイ」
リカルドと視線が合うなりベスはつぶやいた。
「口止め料かよ。わかった、わかった。まったく、ちゃっかりしてんな……」
リカルドは大きくため息をついた。
「だけど、クリスも実際に付き合ってみると結構気さくだよな。独特の雰囲気を持ってるから最初は近寄りがたかったけど……」
「品位へのこだわりはお持ちですが、庶民を見下すとかいう、いかにもステレオタイプ的上流階級のような態度は微塵も感じられませんからねぇ」
フヒトの意見にリズが同意する。
「どんなものにも真贋てものはあるってことだな。真の賢者はその知識をひけらかしはしないし、真の貴人はその身分を誇ったりはしないってな」
「そういうものかもな。そういえば、うちの親も言ってたな。日本と言えば『サムライ』だが、そんなことを自称するやつはまがい物だって。かつて『サムライ』が身分として存在していた時代、系図や家格を金で買った者ほど武士だ侍だと声を張り上げてたそうだ。誇りは内に秘めてこそ光るもの。それを他人に吹聴するなんてのは下賎の者のすることだってな」
「やたらと吼えて虚勢を張るのは精神が未熟な証拠。円熟の域に達した人間は執着心がなく、飄々としてるんだろう? 素性のいい人間ほど家柄だ血筋だなんてことには無頓着なのかもしれないな」
「おい、どうした!? 今日はやけに冴えてるじゃないか」
フヒトが目を瞠ってリカルドを見つめる。
「馬鹿にすんな。専門知識こそないが、俺だって人並みに教養はあるんだぜ」
「その通りです。リカルドさんもネオ・アカデメイアで学ぶだけのことはあるのです」
「そうだろう、そうだろう。能ある鷹は爪を隠すってな。『韜晦』という言葉は俺のためにある。おまえが俺の真価を見誤るのもしかたのないことだ」
リカルドが得意げに胸を反らす。
「……その言動がすでに韜晦できてない」
「……」
ベスのつぶやきに、リカルドはしまったという顔で押し黙った。
「調子にのるから墓穴を掘るんだよ、少しは自重しろ」
「ふん、余計なお世話だ」
笑うフヒトをリカルドが不快そうににらんだ。
「能力のある人間が無能な振りをするのは簡単だが、その逆は難しい。持たざる者は変に足掻いて取り繕うから、かえってボロを出すもんだよ。何事にせよ、一定の域に達している者は泰然としているものだって言うぞ。さっきの続きだが、変に勢い込んでないっていう点で、クリスはすでに社会的地位に関しては精神の三様の変化で言う小児の域に達してるってことだな」
「精神の三様の変化? なんだそれ」
リカルドが小首をかしげる。
「ニーチェの著書『ツァラトゥストラはこう言った』で語られている、精神の変遷の過程を示したものなのです。それはラクダから始まり、獅子そして小児へと至るというものなのです。ラクダは既存の価値体系に耐え忍ぶことを象徴し、獅子はその既存の価値体系に抗うことを、そして小児はすべてを『然り』と受け入れ、新しい価値体系を生み出すということを象徴していると言われています。もっとも、解釈としては色々あるようですが……」
「俺はニーチェじゃないから、そこで語られていることの真意はわからない。だから、気軽に拝借させてもらうが、世の中の多くの人間は、最初のラクダと獅子のところに留まっている場合がほとんどだと思う。たとえば運命に黙って耐えるとか、それに抗って自由を獲得しようとか。だが、どんなに足掻いたとしても、所詮は釈迦の手の平の上の猿ってことなんだよな。そんなことで自由は得られない」
「そんなもんか?」
「ああ、そんなもんだ。『梵我一如』って知ってるか? インド思想では重要な言葉だが、まぁ、自然の摂理と自分自身を動かす摂理が同一のものだと理解することで得られる境地ってところか。東洋、とりわけ日本なんかはアニミズムのように自然との調和を重んじてきた。それに対して西洋は近代まで風景画がなかったことからもわかるように、自然を愛でるという感性がなかった。自然は対峙し、抗い、征服する対象だったそうだ。そういう姿勢は他の分野にも見て取れる。西洋に端を発する近代科学の欠点は主体と客体を区分するところだと指摘されている。それは、たとえば観察する自分と観察される対象を明確に分けることだ。確かにそういう手法も有用なことは間違いない。しかし、そういう視点ではわからないことだってたくさんあるんだよ。俺は観察という作業は特殊性の一般化だと思う。たとえば心理学で、それぞれ違った思考を行う個々の人間を、類型化するように。一般化されれば当然わかりやすく分析できる。そして、その分析結果は研究・開発などに反映される。科学技術などの発展はその手法の成果によりもたらされたというのは事実だろう。だが、そこには陥りやすい弊害がある。人間が客体全般、自然や自然法則などを支配できるという勘違いが生まれるという弊害がな。物事は複雑な関係性の上に成り立っている。だから、一般化され、他との関係を切り離された視点では当然不都合が生じる。環境破壊がいい例だ。環境というものの中には当然人間も含まれる。しかし、過去の事例ではその視点が欠如し、自然がただ支配対象である客体となり無配慮な開発などが行われた。結果引き起こされた悪影響はダイレクトに主体である人間にも襲い掛かった。つまり、本当に必要なのは主体と客体を分けないで、すべてを包括して考えること。主客非分離であることだ。自由も同じように対峙し抗って手に入れられるものではないはずだ。加えて、客体、つまり対象をつくってしまうと逆にそれに縛られてしまうことになるという弊害もある。自由の認識の問題がそうだろう? 自由を追い求める人間は多い。しかし、自由ってそもそもなんだ? 何の拘束も受けないことか? だとしたら、今の時代の人々は、かつての被支配階級の人々と比べたら、はるかに自由だろう。しかし、今でも自由を追い求める人間は後を絶たない。ひとつ不自由を取り除いたら、また別の不自由が気になりだす。自由獲得の歴史なんてそんなものだろう。これほど堂々巡りの問題はない。しかし、人はそれを求めることをやめない、自由という漠然とした対象がある限り。まるでメーテルリンクの『青い鳥』のようだろう? ちなみに、あれは『幸福』だけどな……。人の体が地球上での重力に適応した形態であるように、そもそも物質の集まりである人間は、根源的に様々な物理法則の制約を受けずに存在することはできない。そして、人間の意識も電気信号だ。つまり、意思の自由を認めようと認めまいと、そのふたつの立場は端緒から物理法則・取り巻く環境の影響下にあるってことだ。人は外部からの影響によって様々なことを経験し学習する。それにより脳内に概念が形成され、その概念同士の連携から、なにかしらの過程を経て生まれ出るのが思考というものだ。それらはどこからともなく降って湧いてくるものではない。コンピュータでも情報のインプットとその演算処理なしにアウトプットはないだろう? 同じように人間の思考も過去からの情報の蓄積と概念のしがらみの中から、自分の置かれている状況に対応するという目的の下、脳を働かせて生じるものだ。それがどういうことかというと、取り巻く環境の条件次第では、『この世界には決まった筋道など存在しない。すべてが偶然の賜物だ』と思考する人間が必然的に出現するということだ。当然それは条件反射のようなものだから、本人には、自分がそう主張すること自体、ある種、操られての結果だという自覚は持たないだろうけどな、思考誘導された者に踊らされているという自覚がないように。偶然性を主張することが必然的に決まっている。人間の思考そのものが取り巻く環境に束縛された結果のもの。その意味でも人間には完全な自由などないと言えるだろう。だからもし、精神の自由を主張するなら、人間の思考が何か物質的でないものの作用によるものであると証明しなくてはならないだろうな。もちろん現代ではそれはオカルトの範疇になるだろうけど……。心理学では自分の意思・行動が物事の結果を左右する重要な要因になると思い込むことを『コントロール幻想』と言うらしい。それに囚われると、今言ったように、自由とかに固執するようになるのかもしれないな。まぁ、盗作とか実名記載とか権利侵害をするやつは、それじゃなくても不確定性を無根拠に主張し続けるだろうな。自分の犯行について『偶然の一致』という言い訳をする必要があるから」
フヒトは一瞬、シニカルな笑みをうかべた。
「要するに、人間は本来的に不自由な存在なんだ。だが、そのことに『然り』と言い、小児のように享受することで、憶見などから解き放たれ、視野が広がり新たに別のものの見方ができるようになる。『真の』という断定はしないが自由なんてそんなものだと思うぞ。ん、どうした?」
フヒトの目に、げんなりとしているリカルドの姿が映る。
「もういい。なんだか頭が痛くなってきた。クリスがいない分の穴埋めなんか、俺はごめんだからな」
「なんだ、情けない。おまえ、能ある鷹なんだろ?」
「やめだ、やめ。同じ猛禽でも俺はフクロウでいい。なんとなく愛嬌があるし、気楽な感じがするからな」
リカルドが手を振って否定を表した。
「それならなおさら頑張らなくてはいけないのです。アテナ・ミネルヴァの従者であるフクロウは、昔から知恵の象徴なのですから」
にこにこ笑いながらリズが注釈を加える。
「げ! 本当かよ!?」
リカルドが驚きで目を見開いた。
「フクロウの大きく見開かれた目がその伝承の所以。まさに、今のおまえのようにな!」
「一体、俺にどうしろって言うんだよ、おまえら」
困惑の表情をうかべるリカルドに、一同は笑顔を向けた。
「今日も終りだ。さあ、帰ろうぜ」
始業のベルが鳴り終わってまもなく、リカルドが伸びをしながらフヒトの席にやって来た。
「ああ、そうするか。クリス、今日は大丈夫なんだろ?」
「ええ、もちろん」
フヒトの問いかけにクリスが答える。
「そういや、昨日はどうだった? やっぱり喜んでたか、親父さん。愛娘と過ごせてよ」
「さあ、どうかしら……」
リカルドの問いかけに、クリスが顔を曇らせた。
「なんだか、意味深な返事だな。ケンカでもしたのか? ま、それも仕方のないことか。親にとってはどうかは知らんが、子どもにとって親なんてものはうざったい存在だからな」
リカルドがさもありなんと言わんばかりにうなずく。
「したり顔で底の浅い一般論を語るのはやめてもらえる。私は万年反抗期のあなたとは違うの」
クリスがさめた態度で軽くあしらった。
「ひでぇ! その暴言、俺の純真な心に深い傷を刻んだぞ」
「なにが純真だよ。要するに精神が未発達ってことだろ、おまえの場合」
「なんだとぉ!? おまえに俺の何がわかる?」
「わからんな。わからんし興味もない」
フヒトはせせら笑いの表情をうかべる。
「このエゴイスト! 他者への無関心がどれだけ罪深いか思い知れ!」
途端、目をむいたリカルドがチョークスリーパーをかけた。
「リカルドさんは、まだ反抗期なのですかぁ? 確かにそれは未発達かもしれませんねぇ」
ベスとともにやって来ていたリズが、取っ組み合う二人を楽しげに見つめる。
「なにぃ!? 反抗期も迎えていないようなおまえに、そんなこと言われる筋合いはないぞ」
言われたリカルドがフヒトから手を離しリズに向き直る。
「それなら問題ないのです。リズたちはもう、その時期は終えたのですから」
リズに同調して、ベスもウンウンとうなずいた。
「本当かよ? いくら個人差があるからって早くないか?」
リカルドが怪訝の表情をうかべる。
「それよりリズ。こいつをからかう暇があるなら、まず俺を助けてくれよ」
ケホケホと咳込みながら、フヒトは恨めしそうにリズをにらんだ。
「それも問題ないのです。結果オーライでしたから」
ニコニコ笑いながらリズはその視線を受け止めた。
「フヒト。あなた、リズに力技で引き離すことを望んでたの?」
クリスが呆れたようにフヒトを見つめる。
「うっ、確かにそうだよな……。悪かったなリズ。助かったよ」
「気にしなくてもいいのです。ところで、クリスさん。昨日、何かあったのですか?」
フヒトに笑顔を向けた後、リズはクリスに視線を移す。
「そうそう。事の発端はそれだった」
リカルドもクリスに視線を向ける。
「別に大したことじゃないのよ。ただ、父が休暇のはずなのに仕事を持ち込んだの。それがちょっと不満だっただけ」
クリスがため息混じりに答える。
「それは仕方がないことじゃないのか? 親父さん、重要な責務を負ってるわけなんだしよ」
「私だってそれくらい理解しているわ。だけど、いくら公人だからってプライベートまでないがしろにされていいってことにはならないでしょう?」
「それはそうだ。健康面の心配もあるしな。それにしても、親父さんの仕事、今そんなに大変なのか? もしかして今日からの法案審議がらみとか」
フヒトがクリスを見つめる。
「そうなの。今回提出された法案のなかに、常識的に考えたら即否決されるようなものがひとつあるらしいんだけど、どういうわけかその賛同者が結構いるらしいのよ。それで父はその対応に四苦八苦してるの」
「それってどんな法案なんだ?」
興味津々の態でリカルドが訊ねる。
「内容は聞きそびれたわ。知りたかったら自分で調べることね。審議は公開されているんだから簡単でしょう?」
「あ~あ、今、知りたかったのによぉ」
つまらなそうにリカルドがつぶやいた。
「政治家さんは大変な職業なのですねぇ」
「そうだなぁ、物を相手にする仕事より、人を相手にする仕事のほうが大変だとは聞くが、政治なんてものは、それこそ目的も相手も人そのものだからな。真剣に取り組むとなると、きっと気苦労が絶えないんだろうなぁ」
フヒトはしかつめらしく言葉を吐く。
「クリスさんのお父様は偉いのです。将来はクリスさんも政治家さんになるのですか?」
「そうね。できればそうなりたいとは思っているわ」
「政治家か……。それにしてはおまえ、普段、政治の話とかしないよな。政治家志望のくせに」
「当然よ。人との会話で最も嫌がられる話題は、自慢話と素人の政治談議って相場は決まっているもの。いくら政治家志望でも今の私はただの学生、素人にはかわりないのだから」
素っ気無い態度でクリスはリカルドの疑問に答える。
「う~ん、自慢話はわかる。俺だってそんなもん聞かされたくない。だが、政治の話っていうのはなんでだ?」
「いるんだよ。ワイドショーや週刊誌の受け売りとか、ネット上の他人の考えを盗用して切り貼りしたような、素人考え丸出しの程度の低い知識を振りかざし、もっともらしいことを公言する輩が。認識の共有が目的の仲間同士のおしゃべりならそれも許容範囲内だろう。だが、中には本気でオピニオンリーダーや提言者気取りのやつもいるんだよなぁ。浅学非才で厚顔無恥な人間は、周りも自分も見えてないから本当に困る。要は注目されたいんだよ。『私はこんなことを考えています。すごいでしょう』ってな。次元としては自慢話と同じだろ」
「そういう人も確かにいるわね。本人はいたって真面目だったりするから笑ったら悪いんだけれども……」
クリスは控えめに苦笑した。
「そもそも、言葉だけで行動のともなわない者を信用する人間はいない。本当に政治について真剣に考えているなら政治家になるのが順当な手段なんだよな。まぁ、そんなことがわからないやつが『革命』とか言って手前勝手なテロとか引き起こすんだろうな」
「思い込みが激しいせいか、周りの忠告もどこ吹く風。最終的には『世の中のほうが間違っている』とか言って社会通念を頭から否定するようになるのよね。大切なのはバランス。自分ひとりの世界じゃないのだから他者との折り合いも重要なのに……」
「社会不適応者が陥りやすい天才やパイオニア気取りの常識否定論。そんなのは、何の功績もない人間が言っても、聞いてるほうが痛々しくなるだけなのにな。あとあれか? 人物の成長を描いた少年向けの物語で、自分の夢を周囲に馬鹿にされながらも主人公が信念を曲げないでその夢をかなえるというありがちな逆境克服のパターンからの感化。だが、主人公の目的達成はストーリー上の確定事項。周囲との対立は物語に起伏をつけるための演出で、結果ありきのものだから、それをそのまま現実に当てはめるのには少し問題があるんだよな。ま、どちらにしろ、同じ常識外れでも落伍者と超克者ではその意味が違うんだよ。そして一番の問題は、思い込みの激しい人間は自分が間違っていることを少しも疑わないってことだ。自分こそが正しいから、その意にそぐわない者が気に食わない。他者を軽視するやつ、社会や他人を公然と批判をするやつ、その大半がその手の病気持ちってことだな」
「あれだろ? きちがいほど自分が正しいと思い込むってやつ」
「……リカルド。あなた、今の発言、わかっているのよね?」
クリスが真剣な顔でリカルドを見据える。
「かたいことは気にするなって。ただの世間話だろ。もっとも、俺は言葉狩りになんかには屈しないけどな!」
悪びれた風もなく、リカルドは笑顔で応じる。
「自覚はあるのか……。まあいい。大幅な脱線になるから、そのタブーについてはまた今度だな」
フヒトが苦笑し、それぞれがその意見にうなずいた。
「私は家の関係で引っ張り回されるから、色々な立場の人の意見を聞かされることがあるの、父の関係で特に政治がらみのこととかをね。でも、その多くが独善的で、背後にその人の欲求が隠れてるってことがまるわかりなのよね。たとえば税率引き上げの反対理由として、建前では使われ方どうこうというのがあるけれど、その根本には、自分のお金は他人のために使うより自分のためだけに使いたいという欲求があるわよね。その人個人の欲求に基く志向なんて、よほどの物好きでなければ興味なんて起きないでしょう? その点でも自慢話と同じというわけ」
「言われてみると、確かにそうだな。つまり、人間、謙虚でなければならない。そして、政治にたずさわるなら私利私欲があってはいけないということか」
「いやいや、前者はともかく後者は違うだろう。人が生きるってことは私利私欲を追い求める行為に他ならない。だから、まったくの無欲な人間なんていないと俺は断言してもいい。現代の政治とは人民の私利私欲を可能な限り満足させてやることだ。多くの人が求めているものは、世界の安寧より自分の生活の安泰だってことは世論からもわかるだろう。なのに、その人民の代表である政治家だけに無欲を強要するっていうのは都合の良すぎる話だとは思わないか? 自分たち人民は常日頃、我欲を追及してるのにだぞ」
「そうかもしれないけどよぉ、中には無償で奉仕活動とかをしてる人間もいるだろうが。それでも、無欲な人間は存在しないって言うのか?」
「イノセンスと言うかなんと言うか……。とにかく甘いわね。そういう人たちはその活動を通じて自分自身の満足を得ているのよ。言い方は悪いけど、困っている人たちを食い物にしてね。ほら、宗教ではよくあるでしょう。善行を積むことで死後の世界や来世での救いが約束されるとかそういうの。結局は自分のため、ギブ・アンド・テイクなのよ。ボランティアなんて、そういう類のものじゃない?」
「むむ、そう言われると、宗教家とかボランティアや滅私奉公が好きな連中には、自己陶酔の気がある人間が多いのは事実だよな。本人の話とか聞いててもそう感じるし……」
リカルドは腕を組んで考え込む。
「所詮、世間が評価するのは外面的行動のみ。その内心は誰も知りえないという性質上、評価の対象からは除外されるものだ。そして、そこに脚色の余地が生まれ、聖人が生み出されるってわけさ」
「そうかもしれないが……。それにしても、おまえらちょっとひねくれすぎだぞ。俺みたいなピュアな人間にはついていけん。この汚れた大人め」
リカルドはリズとベスを両脇に配し、フヒトとクリスから距離をとる。
「……子どもは遊びの過程で命を奪い、物を壊すことに躊躇しない。無垢で無知が一番残酷」
「どういうことだ?」
リカルドが脇に佇むベスを見下ろす。
「それはあれですね。無垢ということは良し悪しの判断基準がないということでもあり、分別ある人が眉をひそめる行為も、ためらいなく行われる可能性があるということです。小さい子ほど自分の欲求と行動は直結していて、大人みたいなタブーなんてありませんから。つまり、無垢が清らかで賞賛されるべきものだというのは勝手な幻想ということですね」
リズがリカルドを見上げて応える。
「子どもは昆虫とか小さな生命を平気でおもちゃにするからな。そういえば、昔の文献でカエルに爆竹をつめるとかいう遊びがあったなぁ」
「それ本当なの!? 考えただけでゾッとするわね」
クリスは実際に眉をひそめた。
「しかし、子どもにとって、それは単なる楽しい遊びなんだよ。残酷なことをしているという自覚がないぶん、ある意味、たちが悪いのかもしれない。無自覚的な行動にはそういう知らず知らずのうちに誤りを犯す危険性がつきものだ。ある種の批判もそうだよな。自分は正しいことを言ってるつもりでも、実際は矛盾だらけで、とんでもなく蒙昧な行為だったりする。聞いたことないか? 矛盾に気づく知恵がない、つまり無知なのに、何かしたいという変な使命感がある。そういう連中に限って、自分は良いことをしていると思っているから余計にたちが悪いって指摘を。そういうちょっと思慮の足りない人間でも一端に意見らしいものを主張するものだ。彼らの世界だけではとてつもなく説得力のある主張をな。『希望的観測』ってあるだろう。それがあるから、たとえ矛盾や穴だらけの理論でも、脳内でシミュレートしている分には辻褄が合ったりするものなんだよ。無数に存在し絡み合う因果関係の中から、自分の都合のいいものだけをピックアップしてきてそれを分析し、それにまた恣意的な条件を加えれば必然的に思いのままの理論が捏造できる。そのご都合主義に気づき補正できるかどうかが、他人に受け入れられる説となるか、『電波系』として物笑いの種になるかの違いに繋がるんだよな」
「そう言われてみるといるわよね。文章で、直前の文と繋がらない論理の飛躍した文を平気でもってくる人とか、討論で論証や裏づけとなる事実の提示もなしにとうとうと持論を述べて、それを根拠に反論する本末転倒な人。そういう人は自分の頭の中では何かしらの整合性がとれているんでしょうね。受け手にはまったく伝わらないんだけれども」
「すまんが今の話、具体例とかあげてくれないか? わかり難くてかなわん」
眉間に皺を寄せてリカルドがうなる。
「え~とですねぇ。では、このような話はどうでしょうか。あるところに、敬謙なクリスチャンがいました。その人が布教活動で神さまが人間を造ったという話をしました。その過程で進化論を否定するために聖書の記述をもとに神さまの御業を説いたとします。リカルドさんはその進化論への批判を受け入れ、神さまを信じようと思いますか? あくまで論理的な問題として」
「それはないだろう。その批判が妥当なものであるためには、聖書の記述が事実であること、ひいては神が実在していることが絶対条件だ。だが、そもそも神の存在なんて、誰も証明に成功してないんだろう? なら、その論に何の根拠もないってことで、批判としては成り立ってないってことじゃないのか?」
「その通りです。このように前提の中に結論が含まれてしまっていて有効な論証になっていない論理などのことを『論点先取』というのです。先ほどのクリスさんの話はそれに類することなのです」
「なるほど、そういうことか!」
納得ひとしおといった態のリカルドを見て、フヒトが笑みをうかべる。
「論点先取の例なら、俺も知ってるぞ。この前、ネットで見つけた」
「ほうほう、どんなだ?」
「ああ、そいつは宇宙に始まりがあるってことを否定しようとしてたんだが、その論拠としての主張が宇宙には始まりも終わりもないからだっていうものなんだよ。しかも、証拠の提示も何もなしにだ。おまえ、これをどう思う?」
「どうもこうもない。今現在有力な説であるビッグバン理論も結局は仮説だ。つまり、宇宙に始まりや終わりがあるかないかなんて誰もわからないってことじゃないか。なのに、そいつはそのことに関わる証拠を何も示してないんだろ? それでどうして、宇宙に始まりも終わりもないってことが論拠になるんだよ。まるで話にならないなぜ。片手落ちにもほどがある」
リカルドの言葉に反応して、クリスが「こほん」と咳払いをしてみせる。フヒトは眉尻をさげて苦笑した。
「そうだな。しかもそいつ、その直前に自分で論点先取の話をしてるだよ。とんだお笑い種だよな。おまえならきっと『こいつ、大丈夫かぁ!?』って叫んだんじゃないか? ま、この笑い話は借りてきた知識でものを語るとボロを出すっていい例だな」
「それはいいが、なんでそこで俺を出す」
リカルドが不服そうにフヒトを睨む。
「おまえならいかにも言いそうだからだよ」
「バカ言うな。俺なら迷わずこう言うぜ。『引っ込め、この低脳猿真似野郎!』ってな」
「あんまりひどいことを言ってはいけないのです」
リズが眉をしかめてリカルドを見つめる。
「いいんだよ。どうせそいつはお行儀のいいやつじゃないんだろ。他人の悪口だって平気で言ってるはずだ。悪口を言われたくなかったら自分も悪口を言うな。裏を返せば、悪口を言ったら自分も当然悪口を言われるってことだ。因果応報だぜ。悪いことをすればそれだけ敵を作り、自分の首を絞めることになるもんさ」
「……リカルド。それって仮言命法の悪解釈なのよ」
「細かいことは気にするなって」
クリスの苦言も気に留めず、リカルドはひとり笑い声をたてた。
「蛇足として付け加えるなら、自分で考えたこと以外のことは、きちんと引用したことを示さなくてはならないだよ。でないと、それはれっきとした盗作だ。一度でもそれをすると、ちゃんと自分の考えたことでも『どうせこれもどこかから盗んできたものなんだろ』ってことになり信用を失うことになるんだよな。知識・技術は積み重ねられていくもの。生物の進化には必ず連続性があるように、それらも過去からの蓄積を基礎として発展していくんであって、無関連に飛躍向上するものじゃない。だとしたら、その末端にいて先人たちの恩恵にあずかっている俺たちは彼らに感謝するのは当然のことだろう? 自分の意見に他人の意見を取り込むとき、ちゃんと引用元を示すのはその敬意の表れだ。それができないやつ、他人に敬意を払えないやつは、他人からそっぽを向かれて当然だ。なんだかんだ言っても、社会は人で動くものだし、人は心で動くもの。人を相手にするなら信用を失ってはなにもできないのに、目先のことにしか気が回らないんだろう。もっとも、そういう配慮ができるくらいの知恵があるのなら、こんな初歩的なミスはしないんだろうがな。日本の戦国時代はある意味実力主義だったから、裏切りや下克上も特に責められるべき行為ではなかった。しかし、卑怯な行いをした者は誰からも蔑まれたそうだ。出自の卑しい者は心根も卑しいなんて言われるが、盗作とか他人を不快にすることを平気でやるやつを見ると、悪い意味での血筋の伝播っていうのもあるのかもなって思ってしまうよ。要するに家庭環境が悪いんだろうな、その手の悪い連鎖は続くものだって言うからなぁ。あと、そういう誤りに対する指摘が周りからなされないっていうのも、不幸のひとつか。つまり、先天的にも後天的にもあまり恵まれてないってことなのかもな……」
フヒトの言葉を聞くと、笑っていたリカルドにも一瞬哀れみの色がうかんだ。
「それはそうと、今思ったんだがビッグバン理論も含めて科学の理論てすべて仮説なんだよな? そんなんでどうして俺たちの生活が不都合なく成り立っているんだ? なんか不思議じゃないか?」
「それには『プラグマティズム』という考えが関与しているのです」
リカルドの疑問にすかさずリズが答える。
「プラグマティズム?」
「はい、それは簡単言うと何が正しいかは人間にとって有用なことかどうかで判断するというものなのです。現代科学もその考えに基づいていますから、実生活上で不都合があるようでは正しい理論とは認められないのです。理論や知識は正しいからこそ不都合が生じないと思っている人からすると、変な感じがするかもしれませんが、この考えは昔から人々の中にあったと思うのです。たとえば地動説の問題です。ガリレオさんは地動説を唱えた人物のひとりとして有名です。しかし、その待遇は知っての通り不遇といえるものでした。現代の人から見ればガリレオさんは正しいことを言っていたのですから、もっと擁護されても良かったのではないか、当時の人々は浅はかだと思うかもしれません。ですが、考えてみてください。おそらく当時の多くの人たちにとっては地球が太陽の周りを回っていようと、太陽が地球の周りを回っていようとどちらでも良かったことなのです。地球上で生活している分には、どちらであっても太陽は東から昇り西へ沈むという現象に変化はないので。そのため、ガリレオさんの問題についても、自分たちの生活に特に関係のないことですから関心は低かったと思うのです。それに対して、教会側にとって地動説は聖書の否定にも繋がる大問題ですから、関心は高くなって当然だったのです。このように今も昔も人の判断基準は、何が正しいかそうでないかではなく、何が有用かそうでないかというほうが重きをなしているのです。論理的にも有用なことは良いことだという結論にはすぐに到達しやすいのですが、正しいことは良いことだということになると、なかなか結びつかないものなのです」
「ふ~ん、なるほどな。だから今使われている科学理論が真理でなくても俺たちは暮らしていけるっていうことか」
「そうなのです。ニュートン物理学から現代物理学への移行のように、今までの理論や考え方、認識で不都合が生じたら、その不都合な部分を修正していくものなのです。科学の分野も結構アバウトなものなのですよ」
「とは言ってもそこはやっぱり学問。きちんと証明された事実を基にした仮説だから、どんな理論も専門家の検証に耐えられるだけの理論体系と実用性を兼備えているものなの。空想・虚構を基にした仮説とは違ってね。だから、たとえば引力を別の力で置き換えるというような、物理現象の解釈を変えただけの中途半端な理論じゃ、既存の理論を覆すことはできないでしょうし、見向きもされないでしょうね。おそらく有用性の見地からも、整合性の見地からも見るべきところはないでしょうから」
「いや、有用性ならあるぞ。その手の空想理論は異世界もののマンガやライトノベルの舞台設定に使えるかもしれないだろ。あながち無駄にはならないさ」
「まじめな話をしているのですから、茶々を入れてはダメなのです」
リズが頬をふくらませてフヒトを睨む。ベスがそのほっぺを面白そうにふにふにとつっついた。つつかれたリズは不機嫌そうにさらに頬をふくらませた。
「すまん、すまん」
フヒトは微笑ましげにその様子を眺めながら、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「利用価値のなさや論理性の欠如を指摘されて素直にそれを受け入れられる人は、まだ探究者としての見込みがあるのかもしれないわね。でも、中には意固地になって開き直る人もいるのよね。それでも自分の理論は真実だとか、美しいとか別の感覚的な付加価値をつけて正当化しようとしするのが定石かしら」
「ああ、そうだろうな。個人の感覚・感情に根ざすものへ逃避すれば、少なくともそれ以上、他人から否定されることは回避できるからな」
「それに『理屈じゃない』なんて言うのも最終的な逃げ口上として使われるわね」
「だが、『屁理屈も理屈』という言葉がある。そして、思考能力と語彙の貧弱さの暴露、さらに論戦での敗北を表す『物事は理屈じゃない』という台詞自体も明らかに理屈だという事実がある。つまり、当たり前のことだが、他人に自分の意思を伝えるには理屈、論理が必要不可欠ということだ。それは、ある程度高度な思考は、それ自体が言語という約束事で成り立つ論理構造になっているからだ。それゆえに、さっきの話の続きだが、何かを批判し否定するには、その批判対象に対し、きちんと反証してみせる必要性があるんだ。でないと、何を言ったとしても、それはいわゆる『トイレの落書き』と同じになってしまうからな。人は納得しなければ動かない。だから、納得していない者を動かすには外圧を必要とする。いわゆる力に訴えるという方法だな。大概『理屈じゃない』という言葉の後につづく行動は力にものを言わせる行為になる場合が多い。暴力や社会での力関係なんてものを背景にしてだ。俺だって話し合いでお互いがわかりあえて、すべて解決できるなんて思わない。しかし、力で解決するってのは一番の下策だ。それはたとえば、武力による紛争の解決、第三者勢力による調停、そのどちらにしても当事者が納得しなければ火種はいつまでもくすぶり続け、同じ問題で同じ過ちを何度も繰り返すということからもわかりきったことだからな。この世界に完全に同じ人間がいないように、完全に同じ考えを持つ人間はふたりといない。それなのに、理屈じゃないこと、感情とかで物事を推し進めたらどうなる? それこそ『万人の万人に対する闘争』になるんじゃないか? 人の認識は絶対のものではない。それは、自然法則というものが例外なくすべての人に均しく作用しているのに、その作用を人のほうは正確に、しかもすべての人が同じ認識で見て取れないことからもわかるだろう。『あなたにはそう見えているかもしれないが、私にはこう見えている』。人間の事実認識とはそういうものだ。歴史認識もそうだが立場が異なれば見方も当然異なる。結局、何が正しいかなんて主張すること自体、たいして意味のないことなんだろう。そんなあやふやな状態のなか、人が社会を形成し生きていくという過程で手に入れた共通して持ち合わせている感覚、それが論理性だ。違った考えを持つ者同士が円滑な意思の疎通のためには共通認識となる論理性が必要不可欠だからな。それを突き詰めれば、論理性を基にした問題の解決は相手の人間性の尊重。一方的な力による問題の解決は相手の人間性の否定ということになるんだろう。だからこそ俺は、社会で他人と関わるつもりなら論理性が重視されなければならないと思う。もしそれがどうでもいいというのなら、それはやはり他者否定だろう。論理性の伴わない個人的な感情で他人に干渉すれば衝突は避けられない。だから、そういうやつは人に対してものを主張する資格はないと俺は思う」
「ものを言うのにも資格がいるのか? それりゃまた難儀なこった」
リカルドはいかにも面倒くさそうに頭をふった。
「ま、実際はその人個人の良識まかせだけどな。事実、言論の自由が保障されてるから、大抵は誰が何を言おうとその人の勝手。世間に社会正義を笠に着た私情の吐露が氾濫していることからもそれはわかるだろ?」
「なんだ、結局は努力目標的願望かよ。それじゃ意味ねーな」
「でも、他人から納得を得るための条件としての『資格』なら意味はあるのです。『偽薬効果』のように、思い込みや印象に左右される人は結構います。言論も内容そのものより、どなたが言ったかで受け入れられ方が違ってくるのです。仏教の教典も、説法しているのはお釈迦さまですが、その内容全部、お釈迦さまが説いたものではないそうです。これも言論内容をみなさんに受け入れてもらうためのテクニックですね」
「確かにそういう意味では言論にも『資格』はあるわね。『言行一致』はいつの時代、どんな立場でも求められるもの。窃盗犯に社会正義を説かれたとしても、それをまともに受け入れる人はいないでしょうから」
「そうそう、だから、安易に人を非難することも控えるべきなんだよな。たとえば思春期特有の『大人は汚い』とかいう発言。その手の発言をしてるやつを見ると、そう言う自分はどうなのかって質問してたくなるよな。おまえに他人を非難する資格が本当にあるのかって」
フヒトはジトッとリカルドを見つめた。
「お、俺は少なくとも後ろめたいことなどしてないぞ」
リカルドはたじろぎながらも反論する。
「本当にそうか? 実際は自覚していないだけかもしれないぞ。『風が吹けば桶屋が儲かる』じゃないが、どんなに無関係に思える事象同士も多面的・多角的に、そして広く・綿密に見てみれば有機的に連鎖しているものだ」
「そんな抽象論で誰が納得するもんか。具体例をあげてみろ」
「いいだろう。その前にまず質問だ。食料の供給量が限られ、全員が生きるのにはギリギリの状況があったと仮定する。その状況で、一部の人間が食料を独占し、その結果飢え死にした人間が出た。おまえ、その食料を独占した人間に罪があると思うか?」
「当たり前だ。そいつらがした行為は、飢え死にという結果の直接的な原因だろうが」
「なら次の質問。その事実を知りながら黙認し、なおかつ、その独占した食料分配の恩恵にあずかった人間にも罪があると思うか?」
「そうだなぁ~。関与の度合いによっては、共犯や間接犯にはなるんじゃないか? 少なくとも無関係とは言えないだろう。もっとも、制定法云々を抜きにしても、俺は罪があると思うぞ。自分の得る必要以上の食料のために、他人を見殺しにしてたことにかわりないからな」
「それがおまえの考えだな」
「ああ、そうだ」
「なら、それをふまえて次の事実をどう受け止める」
フヒトの意図が飲み込めず、リカルドは眉をしかめた。
「あの未曾有の危機以降、世界は『立ち直れるところから立ち直れ』をスローガンに復興活動を行った。結果、破滅的だった生活環境も短い期間で復興を成し遂げられた。しかし、それはあくまでかつての先進諸国の中枢都市と、その周辺部の話。それ以外の地域の復興はなかなかはかどらず、現在に至っても復興先進地域と途上地域との格差の問題は顕著だ。おまえも知ってるだろう。俺たちが当然のように飽食生活を謳歌している一方で、復興途上地域の中には、その日の食べ物にも事欠くような状況のところがざらにあるってこと。もし俺たちが今の生活水準を落とし、それらを復興途上地域に回せば瀕死の人々を助けられるはずだ。それがどういうことなのか、わかるだろう?」
話を聞いたリカルドは腕を組んで考え込んだ。
「それと、もうひとつの事実。聞いたことないか? 復興以前、危機の状況が最もひどかった時期に各地で起こったであろうと今でもまことしやかささやかれている噂。真実味がありすぎるがゆえに誰も触れようとしないタブーのことを。食料危機の成れの果て、食べられるものは食べつくしてしまったという状態。そして、そういう状況だからこそ行き着いてしまう悲劇的な事態、カニバリズムだ。その状況での食人行為はいわゆる緊急避難的だから責められることはない。これに対して今のこの状況はどうだ? いくつかの過程が間に介在し、その意味合いが薄れていはいるが、他人の生命を犠牲としているという点では、これはもう広義のカニバリズムと言ってもいいと俺は思うぞ。しかも、一部地域の飽食のために、別の地域が飢餓に苦しむ。これは緊急避難とは言えない、むしろ恣意的カニバリズムに分類される事柄だ。共同正犯や教唆犯があるように、自分が実行しなくても、そして、間に物や人が介在しようとも罪は罪。そして、例え自分は積極的に関わっていなくても、今のこの状況を知っていて何の行動もとらなければ、当然未必の故意も成立するだろう」
「つまり、この生活は多くの犠牲の上に成り立っているってこと、そして、私たちひとりひとりがそれに無関係ではないってことね。その私たちがどんなに正論を言ったとしても復興途上地域の人にしてみたら、所詮『盗人の説教』、とんだ茶番ということかしら」
「そういうことだ。俺たちの中で、社会的正義を背景に他人を非難する資格があるとするならば、それは今の生活すべてを放棄し、復興途上の最も貧しい人々と同じ生活をしている人間に限られるんじゃないか?」
「そうか……。それ以外は偽善者か無知かのどちらかかということか。うわべだけの判断でものを語るのがどんなにバカらしいか気付かされるぜ。自分のことを棚にあげた非難なんて、誰も聞く耳持たないか……」
「そう。だから、深く洞察できる人間ほど謙虚になるもんなんだよ。原罪じゃないが、誰しもが何らかの罪を背負って生きているという認識があれば、短絡的な理想やきれい事なんか、到底軽々しく口にできるものじゃないからな」
フヒトの言葉に一同は深くうなずいた。
「『共食い』を『共殺し』まで拡張させるならば、歴史的に戦争や殺人が日常茶飯事である人類は、地球上まれに見ないほどカニバリズムの盛んな生き物と言うことができるかもしれない。科学文明を発達させた人類は、天敵らしい存在をなくした。しかし、その結果として、お互いにお互いを捕食し合う悲しい性を生んだのかもしれない。だが、自然界の食物連鎖は、弱肉強食でもそれは生態系としてきちんと循環している。強いものが奪いっぱなしということはなく、巡り巡るものだよな。これは人間社会にも当てはまるだろう。『盛者必衰』と言うが、繁栄を極めたものがその権勢を維持し続けてきた歴史はない。奪ったものは必ず別の他者から奪われるというのが世の常。きっちり循環していると考えられるだろう。人に悪意を向ければ、当然悪意で返される。人から者を奪えば当然自分も奪われる。それが因果応報、無意識的な循環というものなら、意識的な循環も可能なんじゃないか? たとえば収益を販売価格その他で還元し、企業イメージ・ブランドイメージを向上させて成功を収めている企業の例は少なくない。ただ収益をあげること、奪うことだけを目的とした企業活動より遥かに有益だったりする。それが意識的循環の効能と言えなくないか? 人がただ生きるだけでも何かを奪う存在なら、それをふまえたうえで、逆に与えること、還元するということを常に考え、それを実行する。そういう意識が人間同士のカニバリズムを解消するのには有効な手段となりえるんじゃないかと俺は考える。もっとも、俺の言いたいことは、共産主義のように、平等に富を分配する社会制度を実現しろっていうことじゃないけどな」
言い終えたフヒトは一同に笑顔を向けた。
「フヒトの話が一段落したところで帰るか。とにかく、俺は腹が減った。何か食いに行こうぜ」
お腹をさすりながらリカルドが下校を促す。
「リカルド。あなた、今日の話題について何も思うところがなかったの?」
クリスがあきれたようにリカルドを見やる。
「そういうわけじゃないが、別に修行僧みたいな生活をしろってことじゃないんだろ? 俺には俺のできることをすればいい、要は自覚を持つことがなにより大切だ。そういうことだよな、フヒト」
「まあ、そういうことだな」
フヒトは苦笑してみせた。
「よし決まり! 今日もジャンクフードでいこうぜ。クリスもたまにはいいだろう?」
「どうしてもって言うなら構わないけれど……」
クリスがややためらいの表情をうかべる。
「それならちょうどいいお店があるのです、今日、たまたま他の方から教えてもらいました。きっとそこならクリスさんにも抵抗ないはずなのです」
「そうなの?」
「お、いいね。それじゃあ、リズ。案内、頼む」
「はい、頼まれたのです」
リズは笑顔で返事をすると、クリスの手を引っ張って歩き出した。
「昨日はクリスさんの話題で盛り上がったんですよ。ね、ベスちゃん」
ふられたベスは、コクンと首を縦に動かす。
「そう、どんなことかしら?」
「それはですねぇ……」
「わ、バカ! 余計なことしゃべるな!」
リカルドは慌ててリズの言葉を遮った。
「バカはおまえだ、この鳥頭。勝手に墓穴を掘りやがって」
フヒトがさもあきれたようにリカルドを見つめる。
「……雉も鳴かずば撃たれまい」
ベスがボソリとつぶやいた。
「リカルドには何か後ろめたいことがあるようね。その辺りの事情、ゆっくり話してもらえるかしら?」
クリスが凄みをきかせてリカルドをにらむ。
「ひぃ~、勘弁してくれ~」
夕暮れ迫る校舎内に、リカルドの絶望の声がこだました。
とある一室。銀髪の兄妹がソファーに寄り添いながらテレビ画面に見入っている。その画面内で、ひとりの男性が議場の演台で熱弁をふるっていた。
「みなさんは感じたことがないであろうか。公共の場で最低限のマナー・法規すら守らぬ者、他人に対して不必要な悪意を向け、それを悦楽にする者、概して自分の欲求を満たすことに終始し、それに執着する、この上なく偏狭で下劣な人種に対して感じるあの言い知れぬ不快感を。その源は何か? 私は思う。それは彼ら野蛮で粗悪な人種と我々とが同じ『人間』として同列に扱われる不合理からくるものではないかと。同じ『人間』であり、同じ精神構造を持ち合わせていると類推される存在の、明らかに非文明的な行動、それが問題なのである。たとえば目前で人間以外の動物が彼らにとっては当然の行動、我々にとっては非文明的な行動をしたとしよう。分別ある人ならば彼らの行動自体を非難したりはしないはずだ。それは、我々人類と他の動物たちとの精神のあり様が異なっていからである。もし、あなたが同じ霊長類であるという理由で、他者から野生の猿さながらの扱いを受けたとしたならば憤りはしないだろうか。それで憤ったとしても当然の義憤である。確かに猿と人類とは遺伝子的にも近しい存在である。しかし、彼らと我々は進化の過程で違う道筋を歩み、それぞれがそれぞれの環境への適応形態を獲得した明らかに別種の存在である。たとえベースが同じでも、適応形態が異なればその応対方法も個々の存在ごとに違ってしかるべきである。ゆえに、前述のような乱暴かつ大まかな括りですべてを捉え、十派一絡げに扱うのには問題があると言わざるをえない。この区分の問題は、我々人類にも存在する。人類の啓蒙以後、『すべての人間は平等に造られている』という文言が、長らく謳われてきた。しかし、一旦その標榜を括弧で括り、自分を取り巻く人々のことを思い起こしていただきたい。あなたはきっと思い至るのではないか。生まれ自体に貴賎はなくとも、その持ちうる精神においては確実に貴賎は存在すると。東洋の思想家・福沢諭吉はのたまった。人の生まれに貴賎はなくとも、学問如何で貴賎貧富の差が生じると。人が教育等、後天的要因で違いが生じる存在ならば、人に対する応対もそれに則するのが道理ではあるまいか? 人権という概念の確立以降、いつの時代も各種の平等や機会均等が求められてきた。しかし、その理想が実現された歴史はない。その原因は、個々に異なる『人間』という存在を、均質で没個性的な『人間』として捉えることから生じるズレに因るものである。高名な経済学者であっても経済動向を正確に予想すること、そして有効な経済政策を提示することが難しいのは、社会・経済を動かす根底となる人の心理を把握することが難しいからに他ならない。人間は各々が特殊な存在である。全く同じ人格はふたつとない。それゆえ、同じ条件を与えたとしても、個々人はそれぞれ違った判断をし、行動をするものである。その特殊な存在の思考・行動全般を一般化することは不可能である。すべての個人が同じ対応をすることを前提として押し付けられる政策等が功を奏することがないのはそのためである。今まで我々は誰しもが生まれながらに良心を持っているという性善説を前提として社会政策を行ってきた。しかし、それは本当に有効であったであろうか? それは利己的な思考の持ち主の思い違いを助長させ、邪まな者に犯罪着手と再犯の容易さを提供し、小ざかしい者の不正な利益の創出に少なからず利用されてきた。それでもあなたがたは旧態依然、すべての人民を同じ『人間』として扱うことに意義があると主張するのだろうか? 私は拒絶する、断じて否と。善良で有能な人間が馬鹿を見る。それこそがこれまでの社会政策がもたらした弊害である。悪平等は往々にして不公平を招く。真に求められるのは平等な社会ではなく、人間一人ひとりが保有する、その個々の資質が尊重される公平な社会の実現ではないであろうか。ここで再度問おう。同じスラム出身者であっても、そのすべてが犯罪者となるわけではない。たとえ境遇が貧しくとも精神が貴ければ犯罪を犯すなどという気は起こらないものである。逆に精神が賎しければ、たとえどんなに恵まれた環境にあろうとも犯罪に手を染めるものである。この事実をふまえて考えていただきたい。善良なる精神を持つ人民と、規範意識の低い下劣で利己的な人種とは本当に同列の存在であろうか? 賢明なるみなさんならば、その結論は容易く得られるであろう。私は思う。万人をすべて同じように扱うのには限界があると。我々は気付くべきである。すべての人民をひとまとめにし、均質な存在『人間』として考えることの愚かしさに。アリストテレスは述べた。同じ病気でも病状その他、患者一人ひとりが抱える諸問題により、治療方法が異なるのと同様、倫理もまた、各人一人ひとりを念頭に置き考察すべき事柄であると。これは我々為政者が担う政治に関しても同じではあるまいか。社会政策もまた、それぞれ異なる思考と背景とを有する個々人を念頭に置き遂行してこそ、すべての人民を幸福たらしめることが可能なのでる。ゆえに私はここに提案する、この『人民等級制度法案』を。人が後天的に違いを生じる存在ならば、その事実を受け止め、適切に対応していかねばならない。各人はその資質において責任を担い、義務を負い、そして権利を享受するべきである。人格、知識、技能の獲得に勤しみ、優れた資質を手にした者が高次の義務を負い、それに見合った権利を享受する。逆にそれを怠った者についてはそれなりの待遇を。これこそ公平な社会のあり方ではないであろうか。制度の根幹は、すべての人民をその人格・能力などの資質ごと各階層に分かち、その区分ごと的確な政策を実施することにより真の公平を実現することにある。公平性を確保するため、その判別基準は個人ごと、血脈その他の先天的判断材料はすべて除外、随時審判の実施により完全なる流動性を実現する。ここでみなさんはある疑問を抱くかもしれない。能力はともかく、その人格等、内面に関する判断は誰がどのように下すのか、またその判断に妥当性は有るのかと。その疑念はもっともである。しかし、この問題に特別な措置は必要としない。なぜならば、これはその人の外面的行動のみを審査することでこと足りるからである。文明国家において内心の自由が保障されるのは、たとえ心うちで非人道的なことを考えていようとも、実際にそのことに着手しなければ、社会に影響がないからである。準じて、常に規範的行動を実践する者は、内心においても規範的と類推して不都合はない。内心はどうであろうとも、それが微塵も行動、言動に表れず、規範的行動をとる者であれば、他者に悪影響は与えないからである。膠着した争いがつくる偽りの平和でも、荒廃した日常よりは遥かにましだと紛争経験者は言う。同様に、たとえ偽りの体裁であったとしても、利己心と悪意を垂れ流し、他者に被害を与えるよりは遥かに有意義であるのは誰の目にも明らかである。黎明期を担う我々はそれでよい。アリストテレスが説くように、徳は習慣によって獲得されるもの。標榜のように掲げるだけでは身に付かない。それは実践してこそ初めて身に付くものだからである。実践し続ければ、内面も徐々に良いほうに感化される。そして、時代が下るにつれ、それはやがて真の貴い人間のあり様として、後の世代には内面、外面ともに自然と受け継がれてゆくであろう。かつて、子どもの教育について自由放任を提唱した学者が、後になって自分の説は間違っていたと訂正するという事態があった。子どもはひとりでに社会性を身に付けるものではない。野放しであったならば、たとえ人間として生まれたとしても精神は猿同様となるのは自明の理である。子どもを健全に育てるのには躾が必要である。同様に、貴い人格を育成するのにもある種の躾が必要なのである。そして、その貴い人格と優れた能力とを兼ね備えた者に導かれてこそ、社会はより良く機能すると私は確信する。どの社会体制も打ち立てられた当初は健全に機能する。しかし、それは時間の経過とともに停滞をきたし、往々にして機能不全に陥るものである。アリストテレスの指摘のように君主制は専制に、貴族制は寡頭制に、民主制は衆愚制へと。この堕落の問題すべては制度の不完全さに起因するものであろうか? いや、違う。清き流れもせき止められて一所に溜まれば淀むもの。初志の高潔さも権力の独占状態が長く続けば失われてしまうのが俗人の世の常である。専横、独裁、保身に腐敗、あらゆる問題は、結局のところ『人間』の問題へと帰結する。それは制度、社会を運用するのが『人間』であるからにほかならないからである。この根本の問題を解決し、運用の健全性を保つためには、常に『高貴なる義務』の意識を持ち続ける優秀な人材が政務につくことが肝要である。私はそれをこそ熱望する。高貴なる属性を持つ者による政治『貴属政治』を。そして、プラトンの説いた『哲人政治』を。『人』を正しく導くことができるのは『人』がどのような存在か知る者のみ、つまりは『人とは何か』という深遠な問いを探究する者に限られる。然るに現状はどうか。政治の専門家である議員諸氏ならばご存知のはずだ。巷にあふれる数々の政治論の空虚さを、蒙昧さを。それらは大衆受けを狙い、時にセンセーショナルに、そして、あきれるほどに現実とは掛け離れ、簡略化された無意味なモデルを用い、的外れな提言を臆面もなく展開する。愚者とは物事の真理、本質から掛け離れた存在である。ゆえに彼らの言動は、常に浅慮であり、一面的、短絡的で実効性を大いに欠く。我々がよるべきものは、それら似非政治家やノイジー・マイノリティーがさえずる子どもだましの論であってはならないのだ。深い洞察のできる思慮ある者の見識こそが必要とされているのである。されど、残念ながら世間にかしましい愚者は多くとも真の賢者は少ないのが実情である。哲学の起こりは暇であると言われる通り、知的活動のためには、ある程度の生活の余裕があり、諸事にわずらわされない環境が必要とされる。それはかつて、文化人が手厚く保護され、政治に携わる者が特権階級としてその地位が保障されていたことからもわかるであろう。しかし、市民革命以降、政治の担い手が庶民に移行するとその状況は一変した。額に汗水して働くことこそが推奨され、知的労働に対する評価は著しく低下した。結果、知的活動を行うには生活の困窮を余儀なくされ、資質ある者の芽がつまれているのが現状である。一方、政治の場においても人民の代表としての立場を獲得、維持するために政治を志す者は人脈形成、金策など本来政治そのものには関係しない事柄に、その多くの時間を費やさざるをえない現状である。人民の政治に対するイメージは政策実行より権力闘争のほうが強いということがその事実を如実に物語っている。この様な現実において、社会が健全に機能することを望むほうがどうかしていると言わざると得ない。社会に貢献する知恵を提供する者が優遇され、政治に携わる者が特別な権限を有するのは必要な措置である。今回の法案にはその意図も含まれている。ゆえに、政治の職務につくものは等級上位者に限られることになるだろう。しかし、これはかつての暗黒時代の禍根、身分制度の復活を意図したものではない。これは選別ではなくあくまで指針。その意義は劣った存在の排除ではなく、すべての人類を優れた存在へと引き上げることにある。あらゆる生物は子孫を残すこと、つまりは未来を目的として生きている。今しか見えず、自分のことしか考えられない者は、いわば生物としては欠陥があると認めざるを得ない。この政策は彼ら思い違いをしている人種の甘えを排し、考える契機を与えることになるであろう。妥協は怠惰を招き、怠惰はやがて破滅へと至る。人間誰しもが高潔で強い精神を持ち合わせているわけではないというのは事実である。しかし、人間が弱い存在であると認めてしまったとしたならば、そこで未来は閉ざされる。辿る道は破滅への道のみである。現在を生きる我々には過去をふまえて行動し、未来を見据えて決断する義務が課せられている。かつて、人類の直面する諸問題が取り沙汰されたとき、世界各国は怠惰かつ惰弱な態度で対応を先送りにした。結果として人類滅亡の危機を招いたのである。我々はその轍を二度と踏んではならない。そのために、我々は自らを律していかなければならないのだ。あの惨劇を繰り返さないためにも。そして、さらなる高みを目指すためにも。人類の抱える問題の解決、加えて人類を新たな段階へと引き上げるための最良の手段として私はこの法案を提唱する。人類は自らの手で進化の道を切り開くことが可能な存在である。私は人類の持つその可能性を信じて、ここにみなさんのご理解、ご協力を請願する次第である」
壇上の人物が話し終えるのと同時に、場内は喝采と怒号が乱れ飛び、混乱の様相を見せ始めた。
クロードとクロエはその様子を映し出すテレビ画面を嘲笑気味に見つめていた。
「すんなり通るとは思っていなかったけど、これは予想以上にもめそうだ。我らが議員先生方の良識も捨てたものじゃないね」
「それでも可決は時間の問題。大半の議員の政策秘書・ブレーンは私たちの賛同者であるアーティフィカルで占められていますもの。この混乱ぶりはむしろ法案提起者に問題があるのでは?」
「いや、誰が提起してもこの結果は避けられなかっただろう。実際そういう内容の法案だからね」
「でも、それならどうしてこの人物を選ばれたのです? 復興立役者の血族というだけでたいして能力もない彼を……」
「その血統が彼の利用価値そのものなんだよ」
「と、言いますと?」
「良いものが必ず売れるわけではないというのは、ものの良し悪しを見抜ける人間の数が限られているからだ。それではその他大勢の人々は何を基準に選択をする? 多くはブランド、つまり信用をよりどころとする。それが大衆心理というものさ」
「つまり彼に偶像としての役割を期待しているということですね」
「そういうこと。議会で可決してしまえば、人民の意思とは関係なく法律が成立、施行されるのが代議制の醍醐味だけれども、人民の反発は少ないにこしたことはないからね」
「それでも私は彼を生理的に受け付けません。能力もないのに、権勢欲は人一倍、プライドばかりが高く、私たちアーティフィカルをまるで道具のように見下して……」
拗ねたような表情をうかべるクロエの頭を、クロードはなだめるように優しくなでた。
「その偏狭さが彼の持ち味さ。相手が何に固執しているかわかっていれば、そこに付け入ることができるだろう? 彼ほど御しやすい人物はそうそういないよ」
「傀儡にはうってつけの人材ということですか」
クロードは笑顔でそれを肯定し言葉を続ける。
「幾分哀れでもあるかな。利用しようとしている者に利用され、自分が主導的立場にいると思っていても、実際は踊らされている。でも、観客としては、そっちのほうが滑稽ではあるね。道化は真実味があればあるほど笑えるものだから」
「まあ、お兄様ったらお人が悪い」
「多少の遊興心は大目に見て欲しいな。僕だって小市民の端くれだよ。パンに事欠かなくなれば、次にサーカスを求めるのは当然さ。もっとも、自分の欲求に突き動かされて行動しているという点では、僕も彼らと同類だけどね」
「ご謙遜を。新しい世界の旗手たるべきお方が」
「いくら肉親だからといって、買いかぶりすぎだよ、それは。そうなるべく努力はしていくつもりだけどね」
クロードとクロエはお互いに笑みをうかべて見つめ合った。