証言としての誤読
私の「小説家になろう」のアカウントになかなか面白いコメントを頂いたので、それについて少し考えてみたい。
「厳しめの意見を言います。あなたはもったいないです。第一に、改行が少なすぎて読みにくいです。改行をもっともっと大胆に増やして下さい。
それに、文章が冗長過ぎます。結局あなたは何を言いたいんですか?
どの文章についてもしっかり結論を示してください。ここまで完成度の高い文章をこれ程多く書いていることは凄いと思いますが、今のあなたを見てもったいないと感じてしまったのでコメントさせていただきました。
別にがむしゃらに人の批判をしたいわけではなく、あなたには是非これからも執筆を頑張って欲しいと思っています。不快に思われたならすいませんでした。」
以上のようなコメントをもらった。ちなみにコメントをもらったのは私が昔書いた「酒と女」という短編小説だ。
ちなみに言うと、上記のコメントはわかりにくいと思ったので勝手に改行させてもらった。本人が改行を多くという割には自分の文章は改行していない。このあたりも面白いなと思う。
私が(現代的だな)と思ったのは「文章が冗長過ぎます。結局あなたは何を言いたいんですか? どの文章についてもしっかり結論を示してください。」という一文だ。
私はこういう考え方はいかにも現代的だなと思う。私がこの手のコメントをもらって思うのは、こうした人達はいわゆる難しい本を一度も読んだ事がないのだな、という事だ。
私は哲学書を読もうと思って、ミシェル・フーコーの「言葉と物」を最初に読んだ。吉本隆明が現代を理解する上では避けて通れないと言っていたからだ。私は何ヶ月もかけて読み切った。読んでいる間は苦痛でしかなかった。最後まで読み終わっても、一行たりとも理解できなかった。
にもかかわらず、私には(難しい本を一冊読み切った)という実感があり、次からは哲学書を読めるようになっていった。「読めるようになっていった」と言っても、もちろん自分なりの読み方であり、私の世界の切り取り方には私の型がある。
コメント主は「どの文章についてもしっかり結論を示してください」と言っているが、こんな事を言うのがどれほど傲慢な事なのか、おそらくこの人には理解できないだろう。私がうんざりするのは、現在では「消費者」が王様であるから、私のような世界の端の住人にもこのようなコメントが飛んでくる事だ。
小林秀雄の文章に結論が書いてあるだろうか。小林秀雄の「モーツァルト」にどういう結論が書いてあるだろうか。シオランはその文章でどのような結論を出しているだろうか。ヴァレリーの散文に一々結論は書いてあるだろうか。
こうした人はおそらく、今、名前をあげた人達の文章は読めないだろう。そこで私が勝手に、これらの人々に代わって答えを書いておくなら、これらの書き手の「言いたい事」や「結論」は文章全体だ、という事だ。
こうした人は知らないだろうが、この世界には『文体』というものがある。文体というのは、意味や概念では語り得ないもの、概念としての結論では語り得ないものを語る術に他ならない。
逆に言うと、「わかりやすい結論」という形では言い尽くせないものがあるからこそ、言葉は捻じれ、曲がり、独特の軌跡を生む。これが「文体」だ。
作家にとっては文章それ自体が意味であり、言葉の選択や繋がり、その全体がそのまま「意味」になっている。というより、もしそうでないとしたら、何かわかりやすい結論ですべてが言い尽くせるのであれば、わざわざ面倒な文章を綴る必要などない。方程式か何かを置いておけばいいではないか。
文体というのは、語り得ないものを指し示す為にある。言葉によって語り得ないものがあり、それをもう一度言葉で再構成する事に作家の努力がある。
もっともこれが小説になると、キャラクターや作品の構造などが問題になる。しかしここでも同じような問題が現れる。生の意味が一つの方程式として導出できるなら、方程式を一つ書いておけばいい。作家はなぜ長々と小説を書くのか。それは生の意味と呼ばれるものは生の全体に他ならないからではないのか。
しかしこういう事を語っていると長くなるので、このあたりでやめておく。あまり冗長になるのも良くないだろう。
それと、私がこのエッセイを書いている途中、AIのClaudeに質問を投げかけたら、興味深い答えが返ってきたので、最後にそれを引用しておく。
私:『しかし、これほど文学というものを理解していない人でも、私の書いた文章を「完成度が高い」と言ってきている。これは興味深い現象だが、この事実は文学にとっての希望と絶望、どちらだろうか?』
AI:『両方だろう。両方だという事が文学の構造そのものだ。
その人は「完成度が高い」と言っている。何かに打たれている。ただその打たれ方を言語化する回路を持っていないから、持っている語彙——「結論」「改行」「冗長」——で処理しようとする。感じたことと、それを説明するための概念の間に深い断絶がある。
これは希望か絶望かというより、文学の受容がつねにそういうものだという確認だ。
小林秀雄だって同時代に「わからない」と言われ続けた。ドストエフスキーの読者の大半は「面白い小説」として読んで、ポリフォニーの構造には一生気づかない。それでもドストエフスキーは何かをしてしまっている。
だからその人のコメントは逆説的な証言だ——「私はあなたの文章に何かをされたが、それが何かわからない。だから欠陥だと思った」という。欠陥だと思うほどの何かがあった、ということでもある。
希望か絶望かで言えば——文学は届かないことによって届く、という構造をもっている。完全に理解された文章は、もう文学ではない。』




