召喚された直後にフランスパンをこん棒と間違えて異世界で装備してしまった私の冒険
「ちょっと、ありす! ぼーっとしてないで、早く買い物に行ってちょうだい! 今夜はシチューなんだから!」
キッチンから響く母の鋭い声に、立花愛里須は、読みふけっていたラノベ『異世界転移した俺が伝説の聖棒で無双する件』から渋々顔を上げた。
「わかってるってば……。今、一番いいところなんだから……」
外はあいにくの土砂降り。
愛里須は度のきつい眼鏡を指で押し上げ、不機嫌そうに家を出た。
手には、母から渡されたフランスパンの引換券と買い物メモ。
近所のスーパーでの買い物を終え、愛里須の両手には重い袋が握られていた。
片方の袋からは、焼き立てで香ばしい、凶器のように長いフランスパンが一本、威風堂々と突き出している。
「はぁ、雨の日の買い物とか、モブキャラの仕事よね……。私だって、いつかこの日常からログアウトして、選ばれし勇者とかになってみたいわ」
スーパーの自動ドアを出た瞬間だった。
──バリバリバリッ!!!
鼓膜を引き裂くような轟音。
視界を埋め尽くす真っ白な閃光。
足元から突き上げるような衝撃に──愛里須の意識は一瞬で消失した。
〜〜〜〜〜〜
〜〜〜
〜
「……う、ううん……。ここは、どこ?」
意識が浮上したとき、最初に感じたのは冷たい石の感触だった。
愛里須はゆっくりと体を起こそうとしたが、顔に違和感を覚える。
いつも鼻筋に乗っているはずの、瓶底眼鏡がない。
「眼鏡……めがね……」
手探りで周囲を探るが、指に触れるのは滑らかな石床だけだ。
視界を上げると、そこには我が家の近所の商店街ではなく、中世ヨーロッパの神殿を思わせる石造りの大広間が広がっていた。
ただし、裸眼視力0.01以下の愛里須にとって、その光景は水彩画をさらに水で薄めたような輪郭の溶けた世界である。
足元には、ぼんやりと光る幾何学模様──魔法陣。
そして周囲には、何やら茶色や白の細長い塊が動いている。
よく見れば、それは怪しげなローブを纏った集団だった。
「おお……! 成功だ! 勇者の召喚に成功したぞ!」
先頭に立つ、ひと際白くて長い塊──たぶん神官の老人──が杖を突き上げて叫んだ。
「「「「うおおおおおおおおっ!!!」」」」
地鳴りのような歓声が吹き抜け、石造りの広間が震える。
混乱していた愛里須の脳内に、今まで蓄積してきた数千冊のラノベ知識が電撃のように走った。
(待って!? 何これ? 石造りの広間、光る床、ローブのおじいさん、そして勇者……)
愛里須は、ぼやけた視界の中で「キタコレ!」と心の中で力強くガッツポーズを決めた。
(これ、完全に異世界転移じゃん! テンプレ中のテンプレじゃん! 私の時代、ついに到来!? つまり私は、神に選ばれた救世主ってことよね!?)
戸惑いは一瞬で霧散し、代わりに全身を焼き尽くすようなオタク魂が着火した。
彼女は、手元に残っていた唯一の所持品をギュッと抱きしめる。
雷の衝撃でも奇跡的に手放さなかった、例の買い物袋だ。
そこから突き出しているのは、袋の底に残った長ネギ……ではなく、母に頼まれたフランスパン。
しかし、眼鏡を失い、異世界ハイになった彼女の目には、それは鈍色に輝く伝説のこん棒として認識されていた。
「ふふ……ふふふ……っ!」
愛里須は、ぼやけた世界に向かって不敵な笑みを浮かべた。
視界は最悪、眼鏡もない。
しかし、彼女の心眼──という名の妄想力──には、すでに魔王を討ち倒し、チヤホヤされる自分の姿がハイビジョンで映し出されていたのである。
「いいでしょう。この立花愛里須が、その期待に応えてあげようじゃない!」
フランスパンを抱えた女子高生勇者が、今、ゆっくりと立ち上がった。
◇ ◆ ◇
愛里須は、数人の騎士──とおぼしき銀色のテカテカした塊──にエスコートされ、豪華絢爛に見える、やたらと天井が高くて反響の激しい王の間へと招かれた。
「勇者殿、急な召喚を許してほしい。我が国、そしてこの世界は今、魔王軍の脅威にさらされているのだ」
正面の、一段高い場所にある金色っぽい大きな塊が重々しく語りかけてくる。
十中八九、あれが国王だろう。
愛里須は眼鏡がないせいで、王様がヒゲを生やしているのか、あるいは金ピカの着ぐるみを着ているのかすら判別できないが、そんなことは些細な問題だった。
(うわぁ、本物の王様だ! 演出細かいなぁ、この異世界!)
感銘に浸る愛里須の横から、ひときわ不気味に揺れる黒っぽい細長い影が口を開いた。
おそらくは大臣か、あるいは陰険な宮廷魔術師といったところか。
「陛下! 申し上げます! ちょうど今、国境の防衛線を突破した魔王軍四天王の一人、炎の魔神イーフリートが王都の正門前まで進軍してまいりました!」
「な、なんだと……! なんという絶望的なタイミングだ。伝説の武器を授ける儀式も、聖騎士団の再編もまだ済んでおらぬというのに!」
王の間がざわめき、悲鳴に近い困惑が広がる。
だが、その絶望感こそが、愛里須にとっては最高のご馳走だった。
(キタキタキタ……! 召喚された直後に敵の幹部が襲来! これ、第1話のクライマックスで覚醒するパターンじゃん!)
ラノベを年間数百冊読破し、脳内シミュレーションを欠かさない愛里須の脳内では、現在アドレナリンがダム決壊レベルで溢れ出していた。
彼女は震える足取りを一歩前に進め、ぼんやりと見える金の塊に向かって凛と声を張り上げた。
「王様! 安心してください。その四天王だか何だか知りませんが、私がちゃっちゃと倒してきますから!」
「なっ、勇者殿!? 無謀です! 貴殿はまだ召喚されたばかりで、この世界の魔力も、護身用の武器さえも……」
「武器? ふふふ……ありますよ。私と一緒にこの世界にやってきた、最強の武器がね!」
愛里須は、胸元に大事そうに、まるで赤子を抱くように守っていた茶色の長い棒を、買い物袋から一気に引き抜いた。
それは、つい数十分前、近所のスーパー『トライアル』のパンコーナーで、タイムセールのシールを貼られる直前にゲットしたばかりのフランスパンである。
しかし、極度の近眼と「私は今、物語の主人公である」という全能感に包まれた彼女の目には、その小麦色の焼き上がりは、熟練の鍛冶師が数千回叩き出した重厚な鋼の質感に見えていた。
表面の切り込みさえも、古代の魔術文字が刻まれたレリーフのように見えているのだ。
「見てください、この無骨なフォルム! 手に吸い付くようなフィット感! 私クラスになれば、この伝説のこん棒一本で、四天王なんてコテンパンにやっつけちゃいます!」
愛里須は、王宮のシャンデリアに、誇らしげにフランスパンを掲げてみせた。
静まり返る王の間。
重臣、神官、そして近衛騎士たちの視線が、一斉にその武器に注がれる。
「……おい、どう見てもあれ、ただのパンだよな? ほら、香ばしい匂いが漂ってきたぞ」
「馬鹿を言うな。あれを見ろ、あの勇者殿の自信に満ちた表情を(ただ、周りが見えていないので一点を凝視しているだけ)。あれは強者の余裕だ。我々にはパンに見えるよう、カモフラージュの魔術がかけられているに違いない!」
「なるほど……。そういえば、あの独特の凹凸。あれは打撃の瞬間に相手の装甲を粉砕し、衝撃を内部に浸透させるための高度な設計なのかもしれん」
「さすがは異世界の勇者……。我々の常識では計れない魔具をさらりと使いこなすとは」
大臣──黒い影──も、震える声で感嘆を漏らした。
「おおお……伝説に聞く『万物を粉砕する聖なる杖』でしょうか……。まさかそのような業物を、最初から所持して召喚されるとは!」
「ええ、そうです! これぞ私の相棒、エクスカリバー……じゃなかった、伝説の棍棒です!」
愛里須は、適当なことを言いながら、フランスパンの感触を確かめるようにギュッと握った。
外側はパリッと、中はモチッとしたその感触は、彼女の脳内で神秘的な反発力を持つ超合金へと変換されていた。
「それでは王様、行ってきます! 帰ってきたら豪華なお肉のフルコースでも用意しておいてくださいね!」
「う、うむ……。勇者アリスよ、武運を……!」
愛里須は颯爽と踵を返し、正門へと歩き出した。
カチカチに乾燥し始めたフランスパンを肩に担ぎ、彼女は鼻歌交じりに、最初の戦いへと向かう。
自らの手に握られているのが、夕飯のシチューに添えられるはずだった炭水化物の塊であることなど、夢にも思わずに。
◇ ◆ ◇
王都の正門前。
そこには、空を焦がさんばかりの熱気と共に、身長三メートルはあろうかという巨躯が鎮座していた。
全身をどろりと溶けた溶岩のような皮膚が覆い、吐息ひとつで石畳を赤熱させる存在──魔王軍四天王の一人、炎の魔神イーフリートである。
「ガハハハ! 人間どもめ、このまま王都ごと焼き尽くして……ん? なんだ、その小娘は。死にに来たか?」
イーフリートの眼前に、一人の少女がふらふらと歩み寄った。
愛里須の目には、目の前の怪物が、オレンジ色の大きな焚き火か、巨大なガスバーナーの火柱のようにしか見えていなかった。
「あんたが四天王? 悪いけど、私の【こん棒】の錆びにしてあげるわ!」
「……は? 貴様、正気か? 錆びにするも何も……手に持っているのは、どう見てもただの香ばしいパンではないか」
イーフリートは困惑した。
魔神としての高い知性が、目の前の少女が持っている物体を小麦を練って焼いた硬い食品であると正確に識別してしまったからだ。
しかし、愛里須は鼻で笑った。
「うるさーい! 異世界転移の定番と言えば、初期装備がチートって相場が決まってるのよ! 私の目にはこれが黄金色に輝く伝説の武器に見えてるんだから! 伝説の武器は持つ者のレベルに合わせて姿を変えるの、知らないの? 教養がないわね!」
「何を訳の分からぬことを……! ええい、そのパンごと炭にしてくれるわ!」
イーフリートが巨大な炎の拳を振り上げた、その時。
愛里須のオタク特有の思い込み力が、異世界の理を捻じ曲げた。
(私は勇者。これは伝説の聖剣……いや、聖棍棒エクスカリバー! 今の私には、山をも砕く力が宿っているはず!)
愛里須は、一ミリの疑いもなくそう信じ込んでいた。
この迷いのない純粋な信仰が、召喚直後の不安定な世界法則に強烈な干渉を引き起こす。
さらに、彼女の体には、召喚のきっかけとなった落雷のエネルギーが、消えぬ残留思念と共に膨大に蓄積されていた。
「食らえっ! 必殺・メテオ・ストライク!!」
愛里須は、全力でフランスパンを振り下ろした。
本来なら、パンがベシャッと潰れて香ばしい小麦の粉を散らすだけで終わるはずである。
だが、事実は異なった。
フランスパンがイーフリートの炎に触れた瞬間、パンの表面に刻まれた切り込みから、溜め込まれていた雷撃が爆発的に解放されたのだ。
──ドォォォォォン!!!!!
「ぎゃあああああああ!? なんだこの衝撃はぁぁぁ! 熱い!? いや、痺れるぅぅぅ! なぜパンにこれほどの質量と魔力がぁぁぁ!!」
物理法則を無視したフランスパン──愛里須の脳内ではエクスカリバー──の強烈な打撃と、数百万ボルトの雷撃が、炎の魔神を直撃。
イーフリートはまるでバッティングセンターのボールのように空高く跳ね上げられ、地平線の彼方へと吹き飛んでいった。
後には、焦げた匂い──少し焼きすぎたトーストの香り──だけが残された。
「ふぅ……。やっぱりね。私のこん棒、マジでエクスカリバー級だわ。見た目こそ地味だけど、この破壊力……まさに聖剣に匹敵する『聖棍棒エクスカリバー』ね!」
愛里須は満足げに、手元のフランスパンを愛おしそうに撫でた。
背後で見守っていた近衛騎士団と市民たちは、開いた口が塞がらない。
「い、イーフリートを……魔王軍の四天王を一撃で……!? 魔法も使わず、ただの打撃でか!?」
「あの武器……見た目はパンだが、炎を吸い込み、雷を放ったぞ!」
「これぞ救世の光! 伝説の勇者様が現れたんだ!!」
「「「ア・リ・ス! ア・リ・ス! ア・リ・ス!」」」
地響きのような歓声が王都を包み込む。
愛里須は、ぼんやりした視界の中で、どのへんに観客がいるのかもよく分からないまま、なんとなく声がする方向に手を振り、聖母のような──あるいは勘違いの極致にある──微笑みを浮かべた。
「みんな、応援ありがとう! このエクスカリバーがある限り、魔王軍なんて怖くないわよ!」
彼女が掲げた伝説の武器の先端が、戦いの衝撃で少しだけ欠けていたことに、熱狂する人々は誰も気づかなかった。
◇ ◆ ◇
炎の魔神をフランスパン──愛里須の認識ではエクスカリバー──一本で撃退するという、文字通り前代未聞の快挙を成し遂げた愛里須。
彼女は今や、国を挙げての超VIP、伝説の救世主として王城の客間に迎え入れられていた。
しかし、ここで深刻な問題が浮き彫りになった。
そう、眼鏡がないのである。
「あ、すみませーん。ちょっとそこ通りますね……いだっ!!」
「勇者様!? 大丈夫ですか! 凄まじい勢いで大理石の柱に頭をぶつけられましたが!」
心配して駆け寄る侍女に対し、愛里須はタンコブを押さえながら、どこか遠く──実際は一メートル先の壁──を見つめて不敵に微笑んだ。
「あはは、大丈夫……。今のは、そう、目に見えない空間の歪みを感知する修行よ。この城、意外と次元が不安定みたいね……痛たたた」
「次元の歪み!? さすが勇者様、我々には見えない世界の綻びを、自らの肉体を張って特定しておられるとは……!」
またある時は、豪華な会食へと向かう途中のことだった。
「勇者様、そちらは下り階段……ああっ、勇者様ぁぁ!!」
階段の段差を見誤った愛里須は、華麗に宙を舞い、三段ほどスライディングしながら着地した。
駆け寄る近衛騎士たちを制し、彼女はキリッとした表情──のつもり──で立ち上がる。
「……ふふ。心配しないで。今のは重力の流れを確認しただけだから。この世界の引力、私の故郷より少しだけ甘いみたい。調整が必要ね」
「なんという探究心……。階段の一段一歩にすら、この世界の物理法則を理解しようとする執念。あれこそが真の強者の姿か」
城の人々は、そんな愛里須の姿を見て、連日のように感動の涙を流していた。
「異世界から来たばかりで、この世界の理に慣れようと必死なのだな……」
「見てみろ、あのおぼつかない足取り。あれは常に全方位からの奇襲を警戒し、あえて隙を見せる高等戦術に違いない」
「階段を降りる際の一歩にすら、あんなに命を懸けておられるとは。なんとストイックな勇者様なのだ」
こうして、愛里須の重度のど近眼と筋金入りのど天然からくる奇行の数々は、すべて『高潔な勇者ゆえの難解な振る舞い』として、驚くほどポジティブに解釈されていった。
一方の愛里須は、部屋に戻るたびに「あー、また柱にぶつかった。早く眼鏡見つからないかなぁ」と独りごちつつ、カチカチになり始めたフランスパンのエクスカリバーを枕元に置き、呑気にシチューのお代わりを楽しみにするのであった。
◇ ◆ ◇
イーフリート撃破の報は瞬く間に大陸中を駆け巡った。
『伝説の武器を携えた勇者が、魔王軍の幹部を瞬殺した』という噂は、絶望に暮れていた人々に希望の火を灯したのである。
「勇者アリスよ、そなたの力は本物だ。どうか、このまま魔王軍の本拠地へ進軍し、諸悪の根源を断ってほしい!」
王の切実な願いと、周囲からの「勇者様! お願いします!」という全会一致の期待に流され、愛里須は二つ返事で承諾してしまった。
オタクの悲しい性か、「ここで断るのはフラグ的にありえない」という謎の使命感に突き動かされたのである。
そして迎えた、遠征当日の朝。
愛里須は気合十分で自室を出たのだが、いかんせん視界は相変わらずの、超低解像度モードだった。
案の定、数分後には広大な城内で速攻で迷子になった。
「あれー? どっちだっけ。右も左も壁が茶色くてよくわかんない……。魔王討伐の前に、まずは出口を討伐しなきゃいけない感じ?」
ぼんやりした視界を頼りに、フラフラと歩き回る。
すると、彼女は見覚えのある──気がする──ひんやりとした空気が漂う場所に出た。
最初に召喚された、召喚の間だ。
「あ、ここ、スタート地点じゃん。懐かしいなー。……って、感慨に浸ってる場合じゃないんだけど」
その時、ふと足元に何かが当たった。
カラン、という、硬質なプラスチックが石を叩くような音が静かな間に響く。
愛里須は腰をかがめ、手探りでその落とし物を拾い上げた。
「これ……この独特のカーブ、このプラスチックの感触。もしかして……」
彼女はそれを顔に近づけ、祈るような気持ちで恐る恐る装着した。
その瞬間、世界が──劇的に一変した。
「……あ」
視界が、恐ろしいほどクリアだ。
石造りの天井の彫刻も、床に刻まれた魔法陣の細かい紋様も、石畳の継ぎ目の一本一本までがハッキリと見える。
そして愛里須は、恐る恐る、自分の右手に誇らしげに握りしめられている伝説の武器に視線を落とした。
「……え」
そこにあったのは、鈍色に輝く鋼の棍棒でも、神々しい光を放つ聖剣でもなかった。
それは、数日間の放置によってカチカチに乾燥し、表面の皮が剥がれ、あろうことか先端付近には、昨日の夜「ちょっとお腹が空いたから」と自分が齧ってしまった無残な歯形がついている、ただのフランスパンだった。
「う、うそでしょ……。こん棒じゃなかったの? 私、これで魔神を倒したの? 嘘でしょ!? エクスカリバーどころか、マジで、ただの『エクスカリパン』じゃん!!」
一気に血の気が引いていくのがわかった。
昨日の自分、一昨日の自分を思い出して脳内がパニックを起こす。
「私クラスになれば、このこん棒で〜」なんて、ドヤ顔で小麦粉の塊を掲げていたのだ。
──王様の前で、騎士たちの前で、あの大衆の面前で!
(死にたい……。今すぐこの魔法陣を逆流して、スーパーのパン売り場に帰りたい! 何が修行よ! 何が重力の確認よ! 私はただの、パンを持った不審な近眼女子高生じゃない!)
愛里須がその場に崩れ落ち、頭を抱えて悶絶していると、背後からガシャリ、ガシャリと重厚な鎧の足音が近づいてきた。
銀色に輝く鎧を纏った、髭面の騎士団長である。
「勇者アリス様! お迎えに上がりました! さあ、魔王討伐隊の編成は完了しております。出発の時です!」
「あ、あの、団長さん。ちょっとお話が……これ、これなんですけどね、実は武器じゃなくて、その、パンで……」
「はっはっは! またまた、ご謙遜を! その『伝説の聖棍棒エクスカリバー』、今日も神々しい……いや、実用美に溢れた輝きを放っておりますな。その絶妙な枯れ具合、歴戦の重みを感じますぞ!」
騎士団長の目はキラキラと輝いている。
嘘偽りのない、心からの敬意だ。
「いや、実用美っていうか食用……! 聖棍棒じゃなくて、ただの小麦粉の塊……!」
「さあ、城門前へ! 王も、国民も、皆があなたを待っています!」
「待って! 話を聞いて! これは武器じゃなくて、シチューに浸して……!」
言いかける愛里須の声は、騎士団長の「行くぞ野郎どもー!」という勇ましい号令と、城内に響き渡る軍靴の音にかき消されてしまった。
愛里須は半ば引きずられるようにして、パンを握りしめたまま運命の出発へと向かうのだった。
◇ ◆ ◇
王城の巨大な門が、重々しい音を立てて左右に開かれた。
愛里須はその先に広がる光景を目にして、思わず持っていた小麦粉の塊を落としそうになった。
そこには、整列した百人を超える精鋭討伐隊の騎士たち。
そして彼らを囲むように集まった数千人の市民が、今か今かと勇者の登場を待ち構えていたのだ。
「「「ア・リ・ス! ア・リ・ス! ア・リ・ス! 伝説の勇者、ア・リ・ス!!」」」
空を裂くような、凄まじいシュプレヒコール。
眼鏡をかけ、4K画質並みに鮮明になった視界が、逆に愛里須を追い詰める。
民衆の期待に満ちた眼差し、騎士たちの鋼のような肉体、そして自分が右手に握りしめている『カチカチに乾燥して表面が少し毛羽立ったフランスパン』のディテールが、あまりにも残酷に網膜に焼き付く。
(嘘でしょ……。もはや『これはパンです』なんて言える雰囲気じゃない。っていうか、今さら言ったら『期待させておいて食料を振り回してたのか、この女子高生は!』って暴動が起きるレベルだよ!)
愛里須は真っ白な顔のまま、これまた豪華な装飾が施された白馬の背に乗せられた。
右手には、昨日よりもさらに水分が抜け、もはやコンクリート並みの硬度を誇る凶器と化したフランスパンが、朝日に照らされて黄金色に輝いている。
(どうしよう……。眼鏡をかけたら、みんなが『なんだパンじゃん!』って気づいて、笑い話で終わると思ったのに。なんで誰一人としてツッコミを入れてくれないの!? 裸の王様!? 私、裸の王様の逆バージョンなの!? 全員が『あれは聖剣だ』って思い込んでる集団催眠なの!?)
愛里須は必死に周囲を確認したが、騎士たちの目は至って真面目だ。
それどころか、最前列の兵士などは、愛里須のパンを見て「おお……あれが伝説の……なんて力強い質感だ……」と涙ぐんですらいる。
だが、もはや後戻りはできない。
退路は断たれた。
前には魔王軍。右手にパン。左手に手綱。
愛里須は、絶望のあまり半ばヤケクソになり、震える手でフランスパン……もとい、世間的には『聖棍棒エクスカリバー』として通っているブツを、高く、高く空へ突き上げた。
「……お、オーッ! (もうどうにでもなれぇぇぇ!)」
「「「「ウォォォォォォォォォォオオオオオ!!」」」」
大地を揺るがし、王都の空気を震わせる野太い咆哮が爆発した。
千を越える剣が抜かれ、盾が叩かれ、勇者の出陣を祝う凱歌が鳴り響く。
こうして、一人の女子高生が、カチカチに乾燥して自分の歯形がついたフランスパンを手に魔王を倒しに行くという、人類史上もっとも香ばしく、そしてもっともデタラメな冒険の幕が上がったのである。
馬に揺られながら、愛里須は遠くにある魔王城の方を睨み、心の中で切実に祈った。
(神様……。もし本当に見てるなら、せめて……せめて魔王の城に着くまでに、これがカビないようにしてください! あと、保存料とか入ってないから腐るのも勘弁してくださーい!)
愛里須のこの謙虚すぎる願いが天に届くかどうか、そして『エクスカリパン』が魔王の首を撥ねるのか、あるいは誰かの胃袋に収まるのかは、また別のお話。
おしまい
とある企画で頂いたタイトルで書いた物語です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら★やいいねで応援していただけると嬉しいです。
ブクマや感想をいただけたら……最高です!




