第9話 見知らぬ天井と人外の特権
鼻を刺す消毒液の匂い。
ゆっくり目を開けると、視界いっぱいに白い天井が広がっていた。見覚えがない。
シーツを跳ね除け、上体を起こす。
自重に耐えきれず無惨に折れたはずの両腕と両脚は、動かしてもまったく痛まない。
ひしゃげた肋骨も、破裂しかけた内臓も、気味が悪いほど完全に元通りだ。傷跡一つ残っていない。
それなのに、あの男が放った絶望的な圧力と、石畳の冷たさだけが、トラウマとして脳裏に貼り付いたまま剥がれない。
ここはギルドの医務室。
小さく息を吐いたタイミングで、扉が開いた。
入ってきたのは見知った顔のベテラン受付嬢だった。
「気がつきましたか、優馬さん」
「……誰が、俺を」
「第5階層のゲートから、一人の少女があなたを運んできました。ここへ着いた時点で、致命傷は彼女の魔法で完全に塞がっていたそうです。信じられない腕前ですよ」
薄れかけた視界の端に映った白銀の髪が、脳裏でよみがえる。
駆け出しが扱えるはずのない、規格外の治癒魔法。
命の恩人だ。
「名前は?」
「……申し訳ありません」
受付嬢は困ったように笑って、小さく首を振った。
「当ギルドの冒険者ですから素性は把握しています。ですが、ご本人から強く口止めされているんです。名前は絶対に教えないでくれ、と」
恩着せがましさがない。完全な善意。
正体を追うより、先にやることがある。
「……ありがとうございます」
短く礼を言って、俺はベッドを降りた。
◇
医務室を出て、喧騒に包まれるギルドのロビーを抜ける。
受付カウンターへ直行した。
まずはリュックに手を入れるふりをして、収納を展開する。
第4階層のボス、オークジェネラルのドロップを取り出した。
胸から抉り出した特大の魔石。
そしてボスの証、巨大な剛角。
カウンターへ置くと、受付嬢が手際よく端末を操作して査定を始めた。
ピピッという軽い電子音。報酬が冒険者カードに紐づく口座へチャージされる。
カードを懐にしまいながら、俺は淡々と事実だけを告げた。
第5階層で、カレンというCランク冒険者と、彼女を連れたAランクの男に、意図的にドローンを破壊され、殺されかけたこと。
受付嬢の表情がすっと険しくなる。
彼女は周囲を一度確認し、声を潜めた。
「……カレンと行動を共にしているAランク。心当たりはあります。ですが」
重い沈黙のあと、彼女は苦い息を吐いた。
「結論から言うと、ギルドは現段階では彼らを裁けません」
「ドローンの意図的な破壊も、殺人未遂もか」
「ええ。Aランク以上の冒険者は、もはや人間の枠を越えた存在です。彼らの武力は災害を鎮め、国家防衛すら左右する。実質、野放しに近い」
悪質な犯罪を繰り返せば、本部を動かして資格剥奪という強硬手段もあり得る。
だが、そのためには絶対的な証拠が要る。
「優馬さんのドローンは完全に破壊され、映像記録は残っていません。彼らのドローンも強いモンスターに壊されたという虚偽報告が出されている以上……客観的に殺人未遂を立証する手立てがありません」
理不尽だ。
けど、それがこの社会の現実だ。
強者の嘘は、監視のルールすら力でねじ伏せる。
「わかりました」
俺はそれだけ返し、カウンターを離れた。
食い下がっても意味はない。証拠がない以上、彼女を困らせるだけだ。
◇
ギルドを出ると、街はすっかり暗かった。
探索者街の喧騒を背に、人気のない裏路地を抜け、安アパートへ帰る。
途中のコンビニで買ったのは、幕の内弁当とペットボトルの茶。
贅沢する気分にはなれなかった。
鍵を開け、冷え切った狭い部屋に入る。
シャワーを浴びて、ダンジョンのカビと、自分の血の匂いを洗い流す。
鏡の中の身体には傷一つない。
あれほど歪んだ肉体が、気味が悪いほど元通りだ。
それでも、どれだけ熱い湯を浴びても、骨の髄に染みついた死の冷たさは消えなかった。
スウェットに着替え、敷きっぱなしの万年床にあぐらをかく。
冷めた弁当のフタを開け、割り箸を割った。
投げ出したスマホには、口座残高が表示されている。
オークジェネラルの剛角と特大魔石がもたらした、探索者としての初めての大穴。
しばらく潜らなくても生きていける額だ。
なのに、数字を見ても心が動かない。
白身魚のフライも卵焼きも、砂を噛んでいるみたいで味がしなかった。
負けた。
完全に、圧倒的に。
空になった容器をゴミ袋に突っ込み、万年床に仰向けに倒れ込む。
シミの浮いた天井を睨みつけながら、今日の敗北を反芻した。
目を閉じればフラッシュバックする。
黒鋼の鎧を着た男の冷酷な目。
見えない巨大なプレス機で押し潰されたような重圧。
治っているはずの腕や肋骨が、幻肢痛みたいにズキズキ疼く。
俺の固有スキルが生み出す睡眠時の自動操縦は、間違いなく最強だ。
敵の攻撃軌道、死角、現在出せる最高火力を瞬時に計算し、感情や迷いを排除して最適解を叩き出す。
今日だって、回避不能の面攻撃を前に、システムは即座に判断していた。
逃げ場がないと悟るや、反撃を捨てて石畳に這いつくばり、四肢の骨格の軸を揃え、筋肉を硬直させ、荷重を極限まで分散させる。
生存の最適解。
判断も動きも、ミスはなかった。
問題は、それを実行する肉体だ。
レベル9の身体。
その脆弱な基礎が、Aランクという暴力に耐えられなかった。
どれだけ完璧な受け身でも、数十倍に跳ね上がった自重の前では、骨は小枝みたいに折れる。
操縦技術が神でも、機体が紙なら潰れるだけだ。
奥歯をぎり、と噛み締める。
命を拾った安堵はない。
腹の底でドス黒い炎が燻っている。
人の命を虫けらみたいに踏みにじり、笑いながら証拠を消そうとした2人。
そして何より、指一本動かせずに這いつくばるしかなかった自分の無力さ。
腹が立って仕方なかった。
「……レベルが足りない」
暗い部屋に、声が落ちた。
俺の戦い方は、最適解の挙動に依存している。
だからこそ、その激しい動きと敵の暴力に耐えられる基礎ステータスが必要だ。
レベル9の骨が折れるなら、レベル50。
レベル50で足りないなら、レベル100まで上げればいい。
鋼みたいな骨と筋肉を手に入れれば、あのシステムは本当の最強になる。
俺には、寝ているだけで感情を挟まず、機械みたいに最適解の狩りを続けられる最強のレベリング手段がある。
圧倒的な力が要る。
あの理不尽な人外どもを、正面から叩き潰せるだけの絶対的なステータスが。
俺は万年床の上で、静かに目を閉じた。
沸点に達した怒りを、冷たい殺意へ落とし込みながら。
明日からの探索に向けて、深い睡眠へ沈んでいった。
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