第26話 池袋の人混みと、3年前の顔
昼間の池袋は、うるさい。
人波。クラクション。どこかの店から流れてくる有線。スーツの群れが信号待ちをしている。革靴の音が、アスファルトに跳ね返っている。
引っ越してきて、まだ2ヶ月も経っていない街だ。
それなのに、田舎のボロアパートの方がもう遠い気がする。
人間の感覚というのは、存外あっさり上書きされるらしい。
田舎にいた頃、東京というのは別の惑星みたいな場所だと思っていた。
テレビの中の景色。自分には関係ない世界。毎日3時間しか眠れない薄暗いアパートの天井を見上げながら、いつかここを出ると思い続けて、でも出る気力もなくて、ただ次の朝が来るのを待っていた。
あの頃の俺には、今日の俺が想像できただろうか。
「この先を左よ」
隣で栞が言った。タブレットの地図を見ながら、迷いなく歩いている。
「ああ」
目的は栞の装備補強用の素材を扱う専門店だ。Bランク試験の審査通過通知を待ちながら、できることをやっておく。社畜時代に染み付いた習慣だ。待ち時間に手を止めるな。
信号が変わる。人波に混じって、横断歩道を渡った。
すれ違うスーツの群れを見る。
疲れた顔。下を向いた顔。スマホを見ながら歩く顔。
2ヶ月前、俺もああいう顔をしていたんだろう。毎日終電で帰って、翌朝また始発で出て、それだけを繰り返していた。
今はただ、遠い。
◇
「……朝倉か?」
背後から声がかかったのは、横断歩道を渡り切った直後だった。
聞き覚えのある声だった。
でも、すぐには結びつかなかった。この場所で、この声が来るとは思っていなかったから。
振り返る。
スーツ姿の中年男が立っていた。
40代。少し太った。くたびれた顔。でも特に落ちぶれてもいない。ネクタイは緩んでいて、靴は安くて、鞄は型崩れしている。どこにでもいる、普通のサラリーマン。
田中係長だった。
3年間、毎日怒鳴られ続けた顔。
俺のミスじゃないミスを俺のミスにして、唾を飛ばしながら怒鳴り続けた顔。
「明日から来なくていい」と言い放った顔。
それが今、目の前にあった。
瞬間的に、あの夜の記憶が戻ってくる。
飛び散る唾が頬に当たった感触。拭う気にもなれなかった。違う、俺のミスじゃない——そう思いながら、証拠もなく、言い返す気力もなく、ただ立っていた。田舎のボロアパートに帰り着いた瞬間、靴も脱げずに万年床に倒れ込んだ。あの夜の天井の染みまで、今も鮮明に覚えている。
田中は俺を上から下まで眺めた。
解雇した元部下。平日の昼間に繁華街にいる。パーカー姿。
ああ、まだ無職なのか——そういう顔だった。
「お前、今何やってんだ? まさかまだ無職か?」
俺は、特に何も感じなかった。
ただ。
この男が思ったより、ずっと小さく見えた。
◇
田中はべらべらと喋り始めた。
景気の悪い話。取引先への愚痴。最近入ってきた新人の使えなさ。自分がいかに苦労しているか。
聞いているうちに、少しだけ気づいたことがある。
この男は、ずっとこうだったんだろう。
これからも、こうなんだろう。
3年間、毎日この声を聞いていた。怒鳴り声。舌打ち。理不尽な責任の押しつけ。深夜まで残って仕上げた資料を、翌朝一言も見ずにゴミ箱に捨てられた日のことも覚えている。あの頃の俺には、逃げるという選択肢がなかった。いや、あったのかもしれないが、疲れすぎて見えなかった。
「お前みたいな使えない奴でも、今は探索者とかいう仕事があるからな。まあ底辺の仕事だろうけど、無職よりはマシか」
その瞬間。
隣で静かに立っていた栞の目が、スッと細くなった。
◇
田中がまくし立てている間、周囲の空気が変わり始めていた。
最初に気づいたのは、すれ違いかけた若い女性だった。
足が止まる。視線が俺に張り付く。次に隣の栞へ。それからスマホを取り出した。
次に、その隣を歩いていたサラリーマン。
それから、信号待ちをしていた学生。
「寝落ちニキじゃない?」
「隣の子、栞さんだよな」
「白百合の剣のエンブレムついてる」
小さなざわめきが、田中の周囲で静かに広がっていく。
田中は気づいていない。
まだ喋っている。
退職の細かい経緯まで話したことはない。だが、俺の普段の仕事ぶりと、目の前の男の底の浅さを見て、栞はすべてを察したらしい。
「少し、よろしいですか」
栞が、俺の前に半歩出た。
笑顔だ。完璧に丁寧な、凍りつくような笑顔。
田中が口を閉じた。
「この方がどなたかご存じないようなので、申し上げます」
声は静かで、感情の起伏がない。それがかえって恐ろしい。
「朝倉優馬。登録からわずか2ヶ月で、Bランク昇格試験の受験資格を取得した現役Cランク探索者です」
一拍。
「あなたが『底辺の仕事』とおっしゃった職業で、彼はあなたの年収を1日で超えています。念のため」
もう一拍。笑顔のまま。
「それと。彼のミスではないものを彼のミスにして、追い出した方ですよね」
田中の顔が、みるみる変わった。
◇
田中が何か言いかける。
言葉が出ない。
周囲のスマホが増えていた。
誰かが配信を始めたらしく、小さな人だかりができている。通行人が足を止めて、俺と田中を交互に見ている。田中はようやく周囲の視線に気づいたようで、首を動かしてきょろきょろと見回した。
その目に、焦りが浮かんでいた。
さっきまでの威勢はどこへ行ったのか。言葉を探している。言い訳を探している。でも何も出てこない。
俺は特に表情を変えないまま、田中を見た。
怒りは来なかった。
憎しみも来なかった。
ただ、遠かった。
この男に踏みにじられた3年間が、今は別の話みたいだ。怒るより先に、その距離の大きさだけがあった。
俺はただ、眠っただけだ。
眠って、起きたら、ここにいた。
口を開いた。
「お疲れ様でした」
3年間、毎日言い続けた言葉。
ただそれだけを言って、栞と並んで歩き出した。
◇
しばらく、2人とも黙って歩いた。
人波が続いている。昼間の池袋。スーツの群れ。
先に口を開いたのは栞だ。
「……あれが、例の人?」
「ああ」
「思ったより、普通だったわ」
「そうだな」
普通だった。
本当に、ただの普通のくたびれたサラリーマンだった。あの頃の俺には、世界の全部みたいに見えていたのに。
「腹は立たなかった?」
「立たなかった」
本当だ。
怒るより先に、距離の大きさだけがあった。
「……一つだけ聞いていい?」
「何だ」
「なんで『お疲れ様でした』だったの」
少し考えた。
「毎日言い続けてた言葉だから。最後に一回、自分から言いたかった」
栞が小さく息を吐いた。
それきり、何も言わなかった。白銀の髪が、風に揺れた。
池袋の雑踏が、また戻ってくる。人波。クラクション。何も変わらない街の音。
でも俺の中の何かが、さっきより軽くなっていた。
◇
目的の専門店に着いたとき、スマホが震えた。
ギルドアプリからの通知だった。
『Bランク昇格試験 デュオ受験特例 ——審査通過。試験期間:申請日より7日以内』
「来た」
「見せて」
栞が画面を覗き込んで、小さく息を吐いた。
一秒の間があって、口角が上がった。
「じゃあ、行きましょうか」
「ああ」
池袋の雑踏。人波。昼間の光。
2ヶ月前、右も左もわからないまま飛び込んできた街が、今は踏み台に見える。
悪い気分じゃない。
「お疲れ様でした」。この一言の意味は、ここまで読んでくださった方にだけ届けば。
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