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寝落ちで無双〜理不尽にクビにされた社畜が、睡眠スキルで最強の探索者になった件〜  作者:


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第26話 池袋の人混みと、3年前の顔

 昼間の池袋は、うるさい。

 人波。クラクション。どこかの店から流れてくる有線。スーツの群れが信号待ちをしている。革靴の音が、アスファルトに跳ね返っている。


 引っ越してきて、まだ2ヶ月も経っていない街だ。

 それなのに、田舎のボロアパートの方がもう遠い気がする。

 人間の感覚というのは、存外あっさり上書きされるらしい。


 田舎にいた頃、東京というのは別の惑星みたいな場所だと思っていた。

 テレビの中の景色。自分には関係ない世界。毎日3時間しか眠れない薄暗いアパートの天井を見上げながら、いつかここを出ると思い続けて、でも出る気力もなくて、ただ次の朝が来るのを待っていた。

 あの頃の俺には、今日の俺が想像できただろうか。


「この先を左よ」


 隣で栞が言った。タブレットの地図を見ながら、迷いなく歩いている。


「ああ」


 目的は栞の装備補強用の素材を扱う専門店だ。Bランク試験の審査通過通知を待ちながら、できることをやっておく。社畜時代に染み付いた習慣だ。待ち時間に手を止めるな。


 信号が変わる。人波に混じって、横断歩道を渡った。

 すれ違うスーツの群れを見る。

 疲れた顔。下を向いた顔。スマホを見ながら歩く顔。


 2ヶ月前、俺もああいう顔をしていたんだろう。毎日終電で帰って、翌朝また始発で出て、それだけを繰り返していた。

 今はただ、遠い。



「……朝倉か?」


 背後から声がかかったのは、横断歩道を渡り切った直後だった。

 聞き覚えのある声だった。

 でも、すぐには結びつかなかった。この場所で、この声が来るとは思っていなかったから。


 振り返る。

 スーツ姿の中年男が立っていた。

 40代。少し太った。くたびれた顔。でも特に落ちぶれてもいない。ネクタイは緩んでいて、靴は安くて、鞄は型崩れしている。どこにでもいる、普通のサラリーマン。


 田中係長だった。


 3年間、毎日怒鳴られ続けた顔。

 俺のミスじゃないミスを俺のミスにして、唾を飛ばしながら怒鳴り続けた顔。

「明日から来なくていい」と言い放った顔。


 それが今、目の前にあった。


 瞬間的に、あの夜の記憶が戻ってくる。

 飛び散る唾が頬に当たった感触。拭う気にもなれなかった。違う、俺のミスじゃない——そう思いながら、証拠もなく、言い返す気力もなく、ただ立っていた。田舎のボロアパートに帰り着いた瞬間、靴も脱げずに万年床に倒れ込んだ。あの夜の天井の染みまで、今も鮮明に覚えている。


 田中は俺を上から下まで眺めた。

 解雇した元部下。平日の昼間に繁華街にいる。パーカー姿。

 ああ、まだ無職なのか——そういう顔だった。


「お前、今何やってんだ? まさかまだ無職か?」


 俺は、特に何も感じなかった。

 ただ。

 この男が思ったより、ずっと小さく見えた。



 田中はべらべらと喋り始めた。

 景気の悪い話。取引先への愚痴。最近入ってきた新人の使えなさ。自分がいかに苦労しているか。


 聞いているうちに、少しだけ気づいたことがある。

 この男は、ずっとこうだったんだろう。

 これからも、こうなんだろう。


 3年間、毎日この声を聞いていた。怒鳴り声。舌打ち。理不尽な責任の押しつけ。深夜まで残って仕上げた資料を、翌朝一言も見ずにゴミ箱に捨てられた日のことも覚えている。あの頃の俺には、逃げるという選択肢がなかった。いや、あったのかもしれないが、疲れすぎて見えなかった。


「お前みたいな使えない奴でも、今は探索者とかいう仕事があるからな。まあ底辺の仕事だろうけど、無職よりはマシか」


 その瞬間。

 隣で静かに立っていた栞の目が、スッと細くなった。



 田中がまくし立てている間、周囲の空気が変わり始めていた。

 最初に気づいたのは、すれ違いかけた若い女性だった。

 足が止まる。視線が俺に張り付く。次に隣の栞へ。それからスマホを取り出した。


 次に、その隣を歩いていたサラリーマン。

 それから、信号待ちをしていた学生。


「寝落ちニキじゃない?」

「隣の子、栞さんだよな」

「白百合の剣のエンブレムついてる」


 小さなざわめきが、田中の周囲で静かに広がっていく。

 田中は気づいていない。

 まだ喋っている。


 退職の細かい経緯まで話したことはない。だが、俺の普段の仕事ぶりと、目の前の男の底の浅さを見て、栞はすべてを察したらしい。


「少し、よろしいですか」


 栞が、俺の前に半歩出た。

 笑顔だ。完璧に丁寧な、凍りつくような笑顔。

 田中が口を閉じた。


「この方がどなたかご存じないようなので、申し上げます」


 声は静かで、感情の起伏がない。それがかえって恐ろしい。


「朝倉優馬。登録からわずか2ヶ月で、Bランク昇格試験の受験資格を取得した現役Cランク探索者です」


 一拍。


「あなたが『底辺の仕事』とおっしゃった職業で、彼はあなたの年収を1日で超えています。念のため」


 もう一拍。笑顔のまま。


「それと。彼のミスではないものを彼のミスにして、追い出した方ですよね」


 田中の顔が、みるみる変わった。



 田中が何か言いかける。

 言葉が出ない。


 周囲のスマホが増えていた。

 誰かが配信を始めたらしく、小さな人だかりができている。通行人が足を止めて、俺と田中を交互に見ている。田中はようやく周囲の視線に気づいたようで、首を動かしてきょろきょろと見回した。


 その目に、焦りが浮かんでいた。

 さっきまでの威勢はどこへ行ったのか。言葉を探している。言い訳を探している。でも何も出てこない。


 俺は特に表情を変えないまま、田中を見た。

 怒りは来なかった。

 憎しみも来なかった。

 ただ、遠かった。


 この男に踏みにじられた3年間が、今は別の話みたいだ。怒るより先に、その距離の大きさだけがあった。

 俺はただ、眠っただけだ。

 眠って、起きたら、ここにいた。


 口を開いた。


「お疲れ様でした」


 3年間、毎日言い続けた言葉。

 ただそれだけを言って、栞と並んで歩き出した。



 しばらく、2人とも黙って歩いた。

 人波が続いている。昼間の池袋。スーツの群れ。


 先に口を開いたのは栞だ。


「……あれが、例の人?」

「ああ」

「思ったより、普通だったわ」

「そうだな」


 普通だった。

 本当に、ただの普通のくたびれたサラリーマンだった。あの頃の俺には、世界の全部みたいに見えていたのに。


「腹は立たなかった?」

「立たなかった」


 本当だ。

 怒るより先に、距離の大きさだけがあった。


「……一つだけ聞いていい?」

「何だ」

「なんで『お疲れ様でした』だったの」


 少し考えた。


「毎日言い続けてた言葉だから。最後に一回、自分から言いたかった」


 栞が小さく息を吐いた。

 それきり、何も言わなかった。白銀の髪が、風に揺れた。


 池袋の雑踏が、また戻ってくる。人波。クラクション。何も変わらない街の音。

 でも俺の中の何かが、さっきより軽くなっていた。



 目的の専門店に着いたとき、スマホが震えた。

 ギルドアプリからの通知だった。


 『Bランク昇格試験 デュオ受験特例 ——審査通過。試験期間:申請日より7日以内』


「来た」

「見せて」


 栞が画面を覗き込んで、小さく息を吐いた。

 一秒の間があって、口角が上がった。


「じゃあ、行きましょうか」

「ああ」


 池袋の雑踏。人波。昼間の光。

 2ヶ月前、右も左もわからないまま飛び込んできた街が、今は踏み台に見える。

 悪い気分じゃない。

「お疲れ様でした」。この一言の意味は、ここまで読んでくださった方にだけ届けば。


ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

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