第24話 使者の帰還と、夢の底への道標
翌朝、リビングが静かすぎた。
嫌な静かさじゃない。ただ、人が増えたはずなのに音がない。
寝室から出ると、客間の前の廊下に、カルーンが正座していた。扉は開いている。
部屋の中の、白い客用布団を、じっと見つめている。
「……何してる」
「見ている」
「何を」
「このふわふわを」
振り返らないまま、真顔で続けた。
「昨夜、俺は生まれて初めて、地に落ちる前に意識を失った。あのふわふわの中で」
「それ、眠れたってことだ」
「違う。気絶した」
俺はため息をついて、キッチンへ向かった。
◇
栞がトースターにパンをセットしていると、背後でカチャリと金属音がした。
振り返ると、カルーンが腰の短刀に手をかけたまま、トースターを正面から凝視している。
「……それ、しまえ」
「しかし、中で何かが熱されている。罠の可能性がある」
「パンを焼いてるのよ。食べ物。あなたが昨夜食べたやつの仲間」
「……食べ物が、あの箱の中に?」
「そう」
「……なぜ箱の中で焼く。火を使えばいい」
「火災報知器が鳴るから」
カルーンが「カサイホウチキ」と小さく繰り返した。意味は分からないらしいが、脅威ではないと判断したのか、ゆっくりと手を短刀から離した。
チン、という音が鳴った瞬間、カルーンが半歩後退した。
「……今のは何だ」
「完成の合図」
「……この世界の機械は、なぜ鳴く」
栞が深く息を吸って、吐いた。
◇
朝食はローテーブルに並べた。
トーストと目玉焼き、それとインスタントのコーンスープ。
カルーンは椅子への座り方をまず3秒研究してから、ゆっくりと腰を下ろした。トーストを手に取り、観察する。焦げ目のついた四角い何か。昨夜のラーメンとも、今朝のふわふわとも違う形状。
恐る恐る、端をかじる。
止まった。
「……」
「どうした」
「……また、だ」
「また、何が」
「**暴力的な美味さ**、だ」
栞が口元を手で押さえた。
俺はコーヒーを飲みながら、視線だけカルーンに向けた。
「目玉焼き、食ってみろ」
「これは……卵か。鳥の」
「そうだ」
「……鳥を、狩ったのか」
「養鶏場で育てている」
「ヨウケイジョウ……」
カルーンがまた小さく繰り返した。それから意を決したように、フォークを手に取り――フォークの持ち方を4秒研究してから、目玉焼きを口に運んだ。
また、止まった。
「……この世界には」
「ああ」
「どれだけの暴力が、存在するのか」
俺はそれ以上、何も言わなかった。栞の肩が、小さく小さく震えていた。
◇
食後。カルーンが湯飲みを両手で持ったまま、静かに切り出した。
「俺は今日、戻る」
声のトーンが変わった。朝食の間の、どこかぎこちない空気が消えた。
「どうやって」
「池袋ダンジョンの深部から、境界を越えて潜る。師匠をひとりにしておける時間には、限りがある。防衛線は今、ギリギリのところで持ちこたえている状態だ」
俺は黙って聞いた。栞も、腕を組んで目を細めた。
カルーンの目の奥に、焦りはない。焦りではなく、もっと静かで重いもの。決めた人間の目だ。
「使命は果たした。救世主を見つけた。あとは、お前たちが動くだけだ」
一拍置いて、カルーンが続けた。
「夢の欠片について、ひとつだけ伝えておく」
「聞く」
「19個までは、各地のダンジョンボスから集まる。だが最後の1個だけは、違う」
カルーンが視線を落とした。
「この世界で最も濃い魔力が渦巻く深淵。そこにしか、存在しない」
その瞬間、ステータス画面が自動で展開した。見慣れた白枠。その中に、今まで存在しなかった新しい項目が追加されていた。
> **『夢の扉まで:残り16 / 最後の鍵の在処:【解析不能 / S級指定領域以上の魔力を検知】』**
栞が身を乗り出して、画面を横から覗き込んだ。数秒、黙った。
「……それって」静かな声だった。「Sランクダンジョンの最深部、ってことじゃない」
カルーンは答えなかった。ただ、目を伏せた。それが肯定だった。
俺はステータス画面を閉じた。数字を頭の中で転がす。残り16個。Sランクの最深部。現状では、入場することすら不可能な頂。
でも絶望は、来なかった。
[cite_start] **社畜時代に散々叩き込まれた感覚**が、ここだけは役に立つ [cite: 1]。どんな巨大なタスクも、分解すれば必ず順番がある。
◇
カルーンが立ち上がった。
靴を履く前に、一度だけリビングに戻ってきた。懐から何かを取り出して、ローテーブルの上にそっと置く。
暗い色をした石だった。親指の爪ほどの大きさ。表面に細かい彫刻が入っている。見たことのない文様。
「何だ、これ」
「道標だ」
「使い方は」
「夢の底に近づいたとき、光る」
「それだけか」
「それだけだ」
それだけ言って、玄関へ戻った。扉が、静かに閉まった。
◇
[cite_start] リビングが、元の二人分の広さに戻った [cite: 1]。
俺はテーブルの上の道標の石を手に取った。ひんやりしている。
欠片4個。残り16個。Sランクの最深部。
影すら踏めない頂だ。現状では話にならない。
それでも、分解すれば必ず順番がある。ゴールが見えているなら、あとは逆算するだけだ。
「まずBランク昇格。欠片集めはその後だ」
独り言のつもりで言ったら、スマホが震えた。
ギルドの公式アプリからの通知だった。
> **『Bランク昇格試験 受験資格達成 ——申請可能期間:7日間』**
タイミングが、良すぎるくらいに良かった。
「何、それ」
「タイミングがいいじゃない」
◇
池袋ダンジョン。Cランク帯。
「配信、始めるぞ」
「ええ」
ドローンが起動する。コメント欄に視聴者が流れ込んでくる。
道標の石をインベントリに収めながら、階段を下りた。
前方から、Cランクの大型魔物の群れが現れた。
足を緩めず、目を閉じた。意識が暗い方へ滑り落ちていく。
◇
真っ黒な空間。白枠のコマンド画面が浮かんでいる。
だが、今日は違った。
画面の端が、揺れていた。見慣れない項目が、白枠の右下の端に出現しては消え、消えては現れる。文字の形をしているが、まだ読めない。
**『どうぐ』**を開いた。
インベントリの中、道標の石の欄が――かすかに明滅していた。
迷わず**『たたかう』**を選んだ。
◇
現実。
身体が動いた。
瞼を閉じたまま、神速のステップ。最小限の動きで最大の効率。
「**速度低下**」「**防御力低下**」
[cite_start] 背後から栞の凶悪なデバフが飛ぶ [cite: 1]。群れの動きが泥のように重くなる。そこへ、二閃、三閃。
昨日より速い。最適解の精度が、一段上がっている。
理由はまだわからない。でも確かに、加速している。
◇
何十体目かの魔物が沈んだところで、目を開けた。
息が切れていない。かすり傷もない。栞の首元の**身代わりの霊力首飾り**が、とん、と一度だけ脈打つように光る。
「SP残量、どれくらい?」
「まだある。続けるか」
「続けましょう」
栞が先に歩き出した。白銀の髪が揺れる。
その後を追いながら、インベントリの中の道標の石を確認した。
最高速度で、Sランクまで駆け上がる。
その決意と、夢の底から届きはじめた微かな信号を両方抱えたまま、次の階層へと足を踏み出した。




