2/28 押し入れの奥
いくつかの山を越えた先に、その村はあった。舗装のはげた狭い道を、父の運転する車がきしみながら進んでいく。
家々はまばらで、人影もほとんどない。けれど、いないわけではなかった。
畑のあぜ道、軒先の陰、壊れかけたバス停。そのどこからか、村人たちが車を見ていた。
両親は慣れない山道に神経をすり減らしていて、兄は後部座席の隣でゲーム機の画面に顔を近づけている。少年だけが、窓の外の視線に気づいていた。
村人たちは手を振らない。笑いもしない。ただ、じっと、黒い目だけを車に貼りつかせている。歓迎されているようには、とても見えなかった。
その視線が、ガラス越しにぬるりと肌をなでるようで、少年は身震いした。
村のはずれに、その家はあった。大きくて、広いが、黒ずんだ柱や梁には、どうにも拭えない古さがこびりついている。
家の管理人だという初老の男が、淡々と説明する。
「築はもう百年近うなりますがね、何度か手を入れてますんで、冬も寒うはないですわ」
そう言って笑う口元には、なぜか歯が一本も見えなかった。
日暮れは早く、荷物を運び込むころには、空はすっかり紫がかっていた。電気をつけても、古い日本家屋の部屋の隅には、ぽっかりと影が残る。そこだけ、夜が先に降りてきたように。
少年は、胸の奥がきゅっとつかまれるような心細さと、言葉にならない恐怖を覚えた。
それを察したのか、兄が不意に立ち上がる。
「なぁ、探検しようぜ。この家、めっちゃ広いじゃん」
少年は一瞬ためらうが、兄に手を引かれ廊下へ出た。
少し長めの廊下は、足音をぽん、ぽんと遅れて返してくる。そのたび、どこかで誰かが一歩、ついてきているように思えて、少年は兄の手を強く握った。
居間に入ると、兄が電気をつけ、ポケットから折りたたまれた紙を取り出して、机の上に広げた。
「なぁに? これ」
「この家の間取り図だ」
「間取り図?」
「この家の地図ってこと。見てこうぜ」
少年と兄は、紙の上の四角い線を指でなぞりながら、実際の部屋を歩いて回る。
キッチン。風呂。客間。物置。
そして、一番奥にあるという部屋へ。
そこは、ほかの部屋よりも少し狭い和室だった。畳はやけに冷たく、障子の向こうにはもう外の色がなくなっている。
奥の壁には、押し入れの白い戸が一枚。
兄がふすまを開けると、中はからっぽだった。上段と下段に分かれた、どこにでもある押し入れのはずだったが、少年はすぐに違和感に気づいた。
「奥に扉がある」
「え? どこだよ」
「ほら、あそこ」
少年の指さす先。上段の板の影になった下段の奥に、小さな黒い四角があった。上から見れば、ただの窪みにしか見えない。だが、身をかがめて下段に入り込むと、それが小さな扉であることがはっきりした。古びた金属のドアノブまでついている。
「この後ろは外のはずだぜ。」
「秘密の出口ってことかな?」
少年の声には、怖さと同じくらい、好奇心がにじんでいた。
「かもな。非常口とかさ」
兄の軽い調子に、少年は少しだけ安心する。ドアノブに触れると、ひやりと冷たかった。鍵はかかっていない。
少年は、ほとんど躊躇せず、それを回した。
扉が、音もなく開く。
黒。
そこには外の夕闇すらなかった。闇そのものを濃く絞って、穴に流し込んだような黒さが、ただ、ぬめりと口を開けている。
埃っぽい、しかしどこか生温い匂いが、ふわりと流れ出てきた。それと一緒に、ひゅう、ひゅうと、狭い場所を風がすり抜けていくような音がする。
風が吹いているはずのない、家の中で。
「……いる」
少年が、唇だけで言葉をこぼした。
「……は?」兄が笑おうとして、声を外し、喉の奥で止める。
「……なんか、いる」
目が、闇に慣れていく。その「黒」は、ただの空洞ではなかった。
それは、そこにいた。
闇よりもさらに黒い、輪郭の定まらない何かが、穴の中を横に移動している。人の形とも獣の形ともつかない、それは、ねじれながら、回転しながら、しかし決して前後には進まず、ただ横へ、横へと滑っていく。
まるで、老人がありえない速度でくるくる回っているかのように。足を動かしているのに、地面から少し浮いているようにも見える。手らしきものが、回転のたびに何本にも分かれ、空をかき混ぜる。
骨が擦れ合うような、乾いた音と、布を引きずるような音が、ひとつにまざって穴の奥から聞こえてくる。それは決してこちらに近づかない。ただ、左右へ、左右へと、ぐるりぐるりと回転し続けている。
「え……ぁ」
声にならない声が、少年の喉から漏れた。
その瞬間、それがふっと、動きをやめた。
渦を巻いていた黒が、ぴたりと固まり、穴の縁近くで、ゆっくりと向きを変える。
目など、あるはずがなかった。鼻も口も、顔と呼べる平らな面すらない。ただ、黒い中の、さらに黒い一点だけが、ぬらりと少年のほうを向く。
視線が、合った。
ぶわり、と冷たいものが背中を走る。逃げようと反射的に身をひるがえした少年は、そこで違和感に気づく。
押し入れの下段から体を引き戻したはずなのに、そこには何もない。さっきまで兄がいた和室も、電気の黄色い明かりも、畳も、ふすまも。
振り返っても、ただ、闇。
少年の背中にあるはずだった、押し入れの枠も、閉めたはずの小さな扉も、どこにもなかった。黒い穴は、いつのまにか、少年の背後にも、左右にも、頭上にも、足元にも、広がっている。
世界の端が、切り取られたように消えていた。
「おーい、どうした? なんかあった?」
兄の声が、遠く、遠く聞こえる。まるで水の底から、地上の音を聞いているような、くぐもった声だ。
少年は声を返そうとする。しかし、喉は震えているのに、空気が出ていかない。口の中は、生温い風と埃の匂いでいっぱいだった。
ひゅう、ひゅう。
あの風切り音が、さっきよりも近くなっている。
横移動する「それ」は、相変わらず回転しながら、今度は少年の周囲を円を描くように動き始めた。右に現れたと思えば、視界の端でぐるりと回り、左に消える。下に消えたと思えば、次の瞬間には頭上で黒い影となって滑っていく。
距離感がわからない。近いのか遠いのかも、わからない。
ただひとつ確かなのは、それが、さっきと違って、決して目をそらさないことだった。どこを移動しても、黒の中の、さらに黒い一点は、ずっと少年だけを見ている。
「…………………」
やっと絞り出した声は、自分の耳にも届かなかった。代わりに、ひゅう、と風の音が口の中を抜けていく。
兄の声は、もう聞こえない。
あるのは、闇と、回転するそれと、風切り音だけ。
少年は、逃げようと一歩踏み出した。
足は確かに動いた。だが、地面の感触がない。ただ、何か柔らかいものを踏みしめるたび、足の裏をぬるりとした冷たさがなでていく。
それが、急に、速度を上げた。
横移動していたはずの回転が、目の前でありえない速さでぶれ、線のようになり、やがて面になり、世界いっぱいに広がっていく。黒の中で、黒い点だけが無数に増え、すべての方向から少年を見下ろしている。
視界が、反転する。
上下が入れ替わる。左右がねじれる。自分が立っているのか、寝ているのか、落ちているのかさえわからなくなる。
ひゅう、ひゅう、ひゅう。
それは、風の音ではなかった。
笑い声だ、と少年はようやく気づいた。
古い男の、枯れた喉から絞り出されるような、掠れた笑い声。横移動しながら、回転しながら、こちらを見て笑っている。
少年は、叫ぼうと口を開けた。
その瞬間、闇が、ぱちん、とまぶたを閉じるように、すべてを塞いだ。
…
『横移動する回転お爺さん』
今朝に書いたであろうこのメモが何のことであったのか私は未だに思い出せていない。
多分寝起きでおもしろげな夢を見たので書いたのであろうが、肝心の夢の内容は双剣のスクリュースライサーをぶちこんでいるうちに忘却の彼方へ消えていってしまった。
まぁでも多分こんな感じの内容のはずである。そうでなくて、横移動する回転お爺さんが登場する余地があるとは思えない。
或いは、何らかしらのギャグを示唆していたのか。
その真相は、押し入れの奥の闇の中である。




