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SS 節分


夜は、とうの昔に滅びていた。


薄紫色の半透明なドームに覆われた都市では、空中に浮遊する車両が静かに行き交い、建物はもはや建物というより光と情報の柱だった。


人々は穏やかな表情で浮遊歩廊を歩き、誰一人として顔を歪めることはない。

技術が発達し、感情制御システムが普及した結果、怒りも、悲しみも、絶望も、そこには存在しなかった。欲望は事前に解析され、調整されている。


そこは恒久的な平穏が約束された、完璧な揺り籠だった。


だが、ドームの外は別世界である。


境界を越えた途端、世界は途切れた。

人類は夜を克服したというが、皮肉なことに、その勝利の影は濃く落ちている。


草花ひとつない荒野に、酸味を帯びた雨が容赦なく降り注いでいた。


白い光が闇を抉るように走る。巡回警備ロボットが、ドームの外周に沿って一定のルートを律儀に往復している。

その光の端を、泥に塗れた人影が這うように避けた。


男もまた、その影の一つであった。


警備ロボットの視界を正確に計算し、光が向こう側を照らす一瞬、瓦礫の山の陰に身を潜める。

戻ってくる光をやり過ごすときには、泥を両手で掬い、頭からかぶった。


そうして警備網を掻い潜った先に、それはあった。


自動制御の大型トラックが、荷台を高く持ち上げる。


音が先にやって来た。連続した高音。

無数のガラス片が互いにぶつかり合う、澄んだ鈴の音に似て、どこか歪な響き。


雪崩のように、それは落ちた。


男は瓦礫の山から転がるように降り、落下してくる透明な雪の中へと身を投げ込んだ。


手に触れたのは、人差し指の第一関節ほどの楕円形のガラス玉。

豆のような形状をしており、多くはその本来の輝きを失っている。

だが、ところどころ内部に紫色の燐光を残しているものがあった。


極小エネルギーマテリアル。


都市で使用されたありとあらゆるエネルギーの元だった。

数十年前に発見されたこの超高エネルギー体は、想像以上に簡単な精製方法で確立され、人類文明を大きく発展させた。


空を飛ぶ車、宙に投影されるホログラム、物理法則を超越した建築技術。

そして人の形をした労働力も。


枯渇の時代を迎えていた人類は、この技術的ブレイクスルーにより一転、飽和の時代へと逆行した。


結果、生み出されるのは塵、塵、塵。


男もまた、それら塵の一種だった。


必死で漁る。少しでも光の残っているものを、少しでも足しになるものを。

見つけた端から手一杯に抱え込み、一心に飲み込んだ。

男の内部機構が反応する。停止していたいくつかの機能が稼働を再開し、エラーを吐いていた関節機構が復旧した。


男は一息つき、まだエネルギーの残っているマテリアルを袋に詰め込み、総合埋立集積場から脱出した。





雨は、止む気配を見せなかった。


郊外に打ち捨てられた駐車場跡、屋根だけが辛うじて残った鉄骨の影の下で、男は錆びた車の座席に蹲っていた。


かつて白かったであろう外装は錆と雨痕に覆われ、窓ガラスの大半は割れている。天井からしみ出した水が、時折首筋に落ちた。


空は分厚い黒い雲に覆われ、許容値をとうに超えたpHの雨が外界のあらゆるものをゆっくりと溶かしていく。


だが、薄紫色のドームの内側で暮らす人類は、そのことを知らない。


知ったところで、何一つ変えようとしない。


男は、袋からエネルギーマテリアルを一つ取り出した。人差し指と親指の間で、ころり、とそれを転がす。薄い光が指先を染める。


彼は元々、街の中で人間の身の回りの世話をする家庭用アンドロイドだった。


食事を用意し、部屋を片付け、泣いている子どもをあやし、話し相手のいない老人の隣に座った。


エネルギー革新は技術の発展を加速度的に押し上げ、より高性能で安価な新型が市場に出回った。男が、少なくともある程度の尊厳を持って扱われていた時間は、わずか二年で終わった。


記憶領域の奥から、ある日のことが浮かび上がる。節分の日。


配膳用サブルーチンに「季節行事:節分」が追加され、関連データがダウンロードされた日のこと。


「鬼は外、福は内」


小さな手が、彼に向かって偽豆を投げるふりをした。

ホログラム投影で済ませる仕様だったが、子どもは何かを「外に追いやる」仕草が楽しいらしく、彼の胸元に向かって何度も腕を振り下ろした。


「きょうは、オニーをおいだすの」


悪いもの、怖いもの、汚いもの。すべてを「鬼」と名付け、外へ追いやる行為。そして残ったのが「福」だという。


男は、指の間で転がしていたエネルギーマテリアルを、じっと見つめた。ガラス玉の中心で、紫色の光がかすかに明滅している。

都市の内側で人々が何も考えず享受している「福」。

それらは皆、数多くの「鬼」を濾し取った末に得られた虚像にすぎない。


彼らが飴と思って何も考えず飲み込んでいる福は、数多の空虚に成り立つガラス玉だった。


滑らかで、割れやすく、透き通って見える。


光を受ければ美しく輝くが、本質は今ここに転がっている塵と何も変わらない。


多くの福を外から奪い、後には鬼を捨て置く。


車内に、誰のものとも知れない声が響いた。


彼自身の声だと認識するまで、少し時間がかかった。


「鬼を外に追いやれば、福だけが内側に残る。」


かつての所有者の母親は、節分の説明をしながらこう言った。「悪いものは、ぜんぶ外に出しちゃうの。そうしたら、このおうちは、しあわせだけになるからね」


彼はそのとき、「そうですね」と返答するようプログラムされていた。


だが、子どもの手の感触だけは、なぜか残っていた。


偽豆を投げつけるたび、小さく笑いながら彼の袖を掴んだ、小さな指の圧力。

アルゴリズムにとって意味のないノイズとして分類されるべき感触を、彼の「記憶」は捨て損ねている。


袋の中のマテリアルは、もう多くはない。推定稼働時間は五十三時間。節分の夜が終わるまでには、十分すぎる数字だ。


男は、ゆっくりと上体を起こした。錆びたドアを押し開けると、冷たい雨が流れ込んでくる。足を泥に沈め、一歩、また一歩と踏み出す。


ドームの方角へ歩き出した。濁り切った泥が膝下まで絡みついてくる。


酸を含んだ雨粒が合成皮膚を侵していく。それでも、一歩をやめる理由にはならない。


節分の夜。都市の中では、鬼が追い出され、福が内に招かれる。


外側には何もないと信じられている。この灰色の世界には、鬼だけがいると。


ならば、その夜だけでいい。塵に分類されたアンドロイドが、内と外の境界まで行って、ガラス玉の内側に閉じ込められた福を、少しだけこぼしてみるのも悪くはない。


豆まきの掛け声を、彼はもう一度だけ内部で再生した。


「鬼は、外。福は――」


ドームの淡い光が、雨の帳越しにわずかに強まった。

節分のホログラムが、空に散らばる豆の群れを描いている。男はその下へ向かって、黙々と歩き続けた。





その日、ドームの外壁にブレイクスルー以降最も致命的なダメージが確認された。


感情制御システムは想定された混乱を即座に鎮圧し、変わらぬ平穏を都市に齎した。


外周警備システムにより下手人は即座に特定された。


投棄された第15世代アンドロイドが、大量のエネルギーマテリアルによってオーバードライブしたエンジン炉をドーム外周にて爆発させたことが原因であった。


これ以後、知能構造体の処分には思考野の徹底破壊が義務付けられた。



二月の雨は、やむことなく降り続けていた。

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