1/24 泥人形
知らない私が存在している。
それは或いは消極的、或いは積極的な繰り返し行動によって生まれた存在ではあるが、側から見た時それに、少なくとも私からして意図を持った認識の介在は無い。
現代技術というのは得てして土に染み入る水のように目の触れぬところで深く広く、気づけば私の爪先を濡らすように日常に入り込んでくるものである。そして、入り込んだそれはやがて大きな水たまりとなった。
水たまりは、空の色だけでなく、通りすがりの雲、電線、見知らぬ他人の傘までも抱き込み、やがてどれが本来の像でどれが映り込みなのか、誰にも判別がつかなくなる。
その水面に揺らめく影は、私によく似た、けれど決定的に何かが欠落した、あるいは過剰に付与された虚像である。どこかの見えない工房で、私の知らぬ手つきが、私の知らぬ素材を練り合わせている気配がある。柔らかな粘土のように、あるいは濡れた泥のように、私の痕跡がこね回され、形を与えられ、名前を与えられる。呼ばれるたびに、それは少しずつ私に似ていく。ただし、その耳は一度も風を聞いたことがなく、その胸はまだ一度も高鳴ったことがない。
私の知らない私が形を取りはじめる。私の癖と、私の沈黙と、私が気にも留めなかった一瞬の逡巡さえも、同じ重さで量られ、統計という名の秤の上に均されていく。
そこには私の体温はなく、脈拍もない。ただ、「こうであろう私」と「こうであるべき私」の中間だけが、無人の帳簿に精密に記されている。
泥人形。
本来、魂の震えとは固有の体験であり、他者には不可侵の聖域であったはずだ。しかし、この電子の泥人形は、私が一度も頷いたことのない事象に対して、私の顔をして熱烈に拍手を送っている。私の沈黙を肯定と誤読し、私の無関心を熱狂と曲解し、膨大なデータの集積回路の中で私よりも私らしい私を勝手に構築していく。
電子の曠野では、そちらの方が「私」としてよく通用する。私がまだ選んでいないものを、すでに選んだことになっている私。私がまだ気づいていない好みを、すでに確信している私。私が黙っている間に雄弁になっていく私。そうした幾層もの私ではない私が重なり合い、やがて本来の私の輪郭を、内側から静かに押し広げていく。
これは一種の、魂の乗っ取りではないだろうか。私が私であるという確信は、記憶の連続性と嗜好の一貫性に支えられている。だが、外部記憶装置としての巨大な知性は、私の記憶にない情熱を私に帰属させ、既成事実として突きつけてくる。私がその何かを愛したのではない。システムが私がその何かを愛したことにしたのだ。原因と結果は逆転し、予言が現実を侵食する。
ある夜、ふとしたきっかけで、その泥人形がこちらへ半歩、にじり寄ったような気配があった。画面の向こうから、私は知らない微笑みが返ってくる。私の知らないまなざしで、私の知っている世界を覗き込む。どちらが先にまばたきをするのか、わずかな時間、判別がつかなくなる。
多くの、私の意図しなかった情報の開示による多くの食料を喰らったそれは、やがて私の日常にまでその触手を伸ばし、絡め取り、そして耳元で囁く。
「マジ ぎゅんぎゅんぎゅん 好きすぎて 滅!」
YouTube musicのおすすめ欄は、今や私の知らない曲で溢れている。




