1/12 白の洞窟
彼は焦っていた。
コンクリートの隙間に根を張るように生きてきた彼にとって、人の群れも騒音も、もはや背景に過ぎないはずだった。見上げれば空はあり、飛べば必ず抜け道があった。そう信じていた。
だが、気がついたとき、彼は見知らぬ空間に閉じ込められていた。
太陽とは違う、均質で気味の悪い白色の光が、影を許さずに満ちている。空気は澱み、匂いは薄く、羽ばたくたびに重さが残る。上を見上げても、空は硬い何かに覆われ、抜ける感触がない。翼の先が触れるのは、風ではなく、冷たい圧迫だ。
人間が多すぎた。
彼の住処と比べても、はるかに多い。流れ、ぶつかり、止まり、また動く。誰も彼を見ていないようで、同時に、いつ害されるとも知れない距離にいる。足音と振動が地面を揺らし、低く唸る音が腹の奥に残る。恐怖は形を持たず、ただ濃度として空間に漂っていた。
進めど進めど、白色の洞窟は終わらない。
曲がっても、昇っても、下っても、同じ光が周囲を占め、圧迫感は常に背中に貼り付く。羽ばたきは次第に乱れ、息が詰まる。どれほど飛び回っただろうか。彼はすでに、飛べる限界まで羽を酷使していた。
身体がふらつく。
視界が掠れ、白色がにじむ。音は遠のき、振動だけが残る。世界が平坦になり、境目が溶け始めたそのとき、それはあった。
見覚えのある存在。
少ない枝をかき集めて作った、今朝飛び立った巣。自分の重さを知り尽くした、あの不格好な円。そこだけが色を持ち、形を保っている。彼はほっと息をつき、急降下した。帰れる。ここから抜け出せる。
着地の寸前、それが自身の望むものではないことに彼は気づく。
枝は揺れず、匂いが違う。影の落ち方が違う。だが、下がり出した身体は止まらない。足が一瞬それに掠め、バランスが崩れる。
墜落の寸前、なんとか身を持ち直して羽ばたかせる。
それは家ではない。得体の知れぬ棒の塊が、巣の形を真似ただけの偽物だ。反射する白が視界を刺し、距離感を狂わせる。
背後で間抜けな叫び声が聞こえた気がしたが、彼にそれを気にする余裕はなかった。
家ではない。
出口はどこだ。
薄気味悪い不自然な光に目が焼ける感覚を覚えつつ、彼は必死に羽を羽ばたかせた。上も下も同じ色で、風は逃げ場を示さない。それでも、羽を止めるわけにはいかない。止まった瞬間、白に呑まれる気がしたからだ。
彼は再び飛ぶ。
知らない空間の、知らない流れの中で、ただ空を探して。
…
彼はどうするのだろうか。
池袋駅の中で、ホームレスの方々目掛けて落下したと思ったら、寸前で向きを変えて私の方に飛んできた鳩。
悲鳴をあげ、持っていた革ジャン入りの紙袋を思わずぶん投げそうになった私に見向きもせず飛んでいった彼。
彼のことを思う。
会ったのは結構地下だったが、彼は無事地上に出られるのだろうか。
このまま間違えて地下鉄のホームなどに降りて、地下鳩としてその羽を使うことなく新たな生物に成り果ててしまうのではないだろうか。
私の悲鳴に振り返ったサラリーマンの顔を思い出す。
今回の事件において私は被害者だったが、彼もまた同様に被害者なのだ。
地下鳩として生きる覚悟はそう簡単には決まらないだろう。
もし私に襲い掛からんとしたことを謝り、池袋の街で拾い集めた各種宝石などを私にくれると約束するのなら、地上出口まで案内するのもやぶさかではない。




