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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第三章:戦友との邂逅

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第十一話「それでも、刃を持って」

 夜の戦場は、火が消えると、すぐにすべての輪郭を失った。

 焚き火の残り香だけが地面に滲み、鉄と血と湿った草の匂いが肌の上を這っていく。

 静まり返ったあたりには、それでもまだ、わずかに呻き声と、寝返りの音と、兵士の低いうなりが漂っていた。

 痛みは、誰にも癒されることなく、眠りの中に隠れている。

 矢野蓮は、目を閉じたまま起きていた。

 耳の奥で、さっきの戦の音が繰り返されていた。

 刃が空を裂く音。

 斬られた者が声もなく崩れる音。

 そして――そのなかで聞こえた、自分の声。

 “静”と、呼んだ。

 それは、沖田静を“人間”に引き戻すための、ただ一言の名だった。

     ※

「……助けてくれて、ありがとうございました」

 夜が更けてから、静が低く、そう言った。

 焚き火の光が消えたあとも、ふたりは火の名残の横で背を並べていた。

 矢野は目を開け、少しだけ横目で静の顔を見た。

「俺は、助けたっていうより……止めたかっただけだ」

 静は頷いた。

「でも、助けられたんです」

 それきり、またふたりのあいだに言葉はなかった。

 夜は深く、静かだった。

 まるで、戦の前も後も、この土地はもともとこうしていたのだとでも言うように。

 風もない。月も隠れていた。

     ※

 翌朝、矢野が目を覚ましたとき、空は鉛色だった。

 夜明けと呼ぶにはまだ早く、だが、もう夢には戻れない中途の時間。

 地面に敷かれた寝具の上で身を起こすと、すぐそばに沖田の姿がなかった。

「……静?」

 起き上がり、あたりを見回す。

 他の兵士たちはまだ眠っている。

 霧が、夜の疲れを引きずるように草木のあいだを漂っていた。

 見つけたのは、隊の荷車の陰だった。

 ひとり、座り込んでいた。

「早いな。……いや、寝てなかったのか?」

 矢野の問いに、沖田は目を伏せたまま首を振った。

「眠るのが、少し怖かっただけです」

「……昨日のこと、か」

「……はい」

 返答が小さくて、耳を傾けなければ聞こえないほどだった。

「僕は……斬ることしか、できないんです」

 それは、事実だった。

 だが、あまりにも痛ましい響きだった。

「斬る以外のことは、剣ではできませんから。誰かを救うことも、導くことも、抱きしめることも……全部、できない」

 矢野は黙って座った。

 言葉ではどうにもならない感情が胸の奥にあった。

「でも、剣を置いたら、何も残らない気がするんです。僕が生きている意味も、ここにいる理由も、誰かと繋がる手段も……全部、消えてしまう」

「……」

「だから、斬ることをやめられない。でも斬りつづければ、きっと、僕は僕じゃなくなる。そのあいだで、足場が崩れてるのが、わかるんです」

 その声には、怯えがあった。

 沖田静という存在が、“自分自身”を怖がっていた。

「それでも、持ってろよ。剣を」

 矢野が言った。

「おまえが剣を置いたら、誰かがその穴を埋めようとする。おまえが斬らなきゃ、誰かが斬られる。そういう場所にいるんだ、今は」

「でも、それじゃあ……」

「おまえが壊れそうなときは、俺が止める」

 矢野は、きっぱりとした声で言った。

「昨日だってそうだったろ。俺の声が届いた。だったら、俺はこれからも、何度でも呼ぶ。“静”って。……それだけで、おまえが帰ってくるなら」

 沖田は、言葉を失ったまま、肩を震わせた。

 何かを堪えるように、拳を握りしめていた。

「僕……もう、誰かに名前を呼ばれる資格もないって、思ってたんです」

「それは違う」

「僕は、あの日、殺してしまった人の顔を、まだ忘れられません。まだ、夢に見るんです。でも、戦場に立つときは、それを全部しまって、何も見えないようにしてる。そうしないと、怖くて斬れないから」

「それができるなら、おまえはまだ人間だよ」

「でも、矢野さん。もし、ある日、僕が何も感じなくなったら……そのときは、どうしますか?」

「おまえが感じなくなっても、俺が感じてる。だから、おまえがどこまで行こうが、俺が止める」

 その言葉に、沖田はそっと、目を伏せた。

 ゆっくりと吐いた息が、空に吸い込まれていった。

     ※

 昼前、前線の再編が通達された。

 矢野と沖田は、また同じ班に組まれた。

 もう驚く者はいない。

「沖田と組めるのは、矢野しかいない」

 それは、もはや上官たちの共通認識になっていた。

 命令ではなく、配慮でもなく、単なる“構造”として定着していた。

「……変な話だな。戦場で、相棒とかさ」

 矢野がぽつりと呟くと、静は少しだけ笑った。

「でも、助かってます。矢野さんが横にいると、視界が狭くなりすぎなくて済むんです」

「視界が?」

「人を“敵”としてしか見られないとき、矢野さんの存在が、“ただの人間”を思い出させてくれる」

「おまえにとって、俺は“ただの人間”かよ」

「はい。それが、いちばんありがたいんです」

     ※

 夜になり、焚き火を囲んだふたりは、それぞれの武具を手入れしていた。

 静は、いつものように剣を拭いていたが、手つきがわずかに柔らかくなっていた。

「矢野さん。もし僕が、“これ以上斬りたくない”って言ったら、そのときも、僕の名前を呼んでくれますか」

「呼ぶさ。何度でも」

「……ありがとうございます」

 その言葉が、本当に救いになっているのかどうかは、わからなかった。

 でも、少なくとも今、沖田静の剣は、まだ“戻れる場所”を知っていた。

 その事実だけが、ふたりを、戦場の真ん中に立たせていた。


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