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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第三章:戦友との邂逅

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第十話「名を呼ぶことで、まだ」

 その戦場には、花が咲いていた。

 戦いの始まる前に咲く花など、どこか不吉なものだった。

 小高い丘を削るように造られた進軍路。

 春の終わり、残った草花が、地を這うようにして黄色い花を咲かせていた。

 風に揺れるそれは、まるで「まだ終わっていない」と主張するようだった。

 人が命を落とす場所に咲くには、あまりにも鮮やかだった。

 矢野蓮は、ただそれを見ていた。

 ――本当に始まるのか。

 この丘の向こうで、また命が絶えるのか。

 また、あいつは斬るのか。

 その剣を握りしめたまま、何も見ずに。

「矢野さん」

 そのとき、静かな声が耳に届いた。

 振り返ると、白装束をまとう沖田静が、指先で風を避けるようにして立っていた。

 風が、白い布をなぶっている。

 その姿は、どこかもう、戦場の空気に馴染みすぎていた。

「準備は、整いましたか」

「ああ」

 矢野は、手にした槍の重みを確かめながら、短く答えた。

 沖田は何かを感じ取ったように、矢野の顔を見て、小さく目を細めた。

「……矢野さん、今日は、きっと少し、無理をします」

「……そうか」

「止めてもらえると、助かります」

 その言葉は、冗談にも命令にも聞こえなかった。

 ただ、静かに――“予告”のように置かれた。

     ※

 敵軍は早かった。

 丘の裏手を回るようにして迂回してきた斥候が、急角度で前衛を襲った。

 味方は散開して応戦せざるを得ず、隊形は乱れ、隘路に追い込まれる形となった。

 そして、そのときだった。

 沖田が、ひとりで前へ出た。

 矢野が気づいたときには、すでに彼の背中は、敵陣のただなかにあった。

 剣が抜かれていた。

 すでに、何人かが崩れ落ちていた。

 沖田の剣は――速かった。

 否、速いという表現すら、もはや不正確だった。

 それは、空気を断つような動きだった。

 人が動いているのではなく、何か“力”が形をとっているような動き。

 ――あいつが“人間”じゃなくなる。

 矢野の脳裏に、その危機感が走った。

 叫びたかった。

 けれど、声が出なかった。

 視線の先、沖田の目が、虚ろに開かれていた。

 感情がない。

 その瞳はもう、敵兵すら見ていない。

 戦場すら見ていない。

 まるで、“自分の中にある何か”とだけ戦っているようだった。

     ※

「静――!」

 矢野は、叫んだ。

 そのとき、沖田の動きが、わずかに止まった。

 一瞬、振るわれかけた刃が、風に遅れをとった。

 敵兵の一人が斬りかかってきた。

 刃が静の横顔をかすめる。

 だが、静は振り返らず、剣の角度を変えてそれを流した。

 そして、斬らなかった。

 敵兵の足を払っただけで、斬らなかった。

 それを確認してから、矢野は駆けた。

 霧がかかるように、戦場の空気がにぶかった。

 血と泥と焦げた草の匂いが混じっていた。

 沖田は、その場に立っていた。

 まるで、“自分がいま、どこにいるのか”を理解していないように。

「おい、静!」

 矢野が肩を掴むと、静は、はっと目を見開いた。

 その瞳が、わずかに揺れた。

「戻ってこい。おまえ、今どこにいた?」

 静は、何かを言おうとして――声にならなかった。

 その代わりに、喉の奥でかすれた音が漏れた。

「……ごめんなさい」

 それは、震えていた。

「斬っちゃいけないって、わかってたのに……手が……止まらなかった」

「止まってたよ。今、止まった。俺が呼んだから、おまえ、戻ってきた」

「……矢野さんの声が……すごく遠くにあって、でも、それが……」

「届いたんだろ?」

 静は、頷いた。

 そのとき、矢野は初めて、自分の中で何かが決まったのを感じた。

 この剣士は、まだ人間だ。

 まだ、声が届く。

 届くなら――俺は、呼びつづける。

 何度でも。

 何度でも、この背中を、名前で呼び止める。

     ※

 戦の終わったあと、ふたりは焚き火の前に座っていた。

 いつもと同じように。

「矢野さん」

「ん」

「僕、やっぱり……怖いです」

「……何が?」

「自分の剣が。いつか、本当に人を殺すためだけに、振るうようになるんじゃないかって」

「そのときは俺が止める」

「止められますか?」

「止めるよ。おまえの手を掴んででも、呼び戻す。今日みたいに――おまえが、“戻ってこい”って言ってくれるうちはな」

 火が、静かにはぜた。

 空はまだ曇っていて、星のひとつも見えなかった。

 けれど、矢野の胸の奥には、少しだけ光が差していた。

 ――俺はこの背中に、まだ声をかけられる。

 まだ、“静”と呼べる。

 それだけで、いまは充分だった。


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