第十話「名を呼ぶことで、まだ」
その戦場には、花が咲いていた。
戦いの始まる前に咲く花など、どこか不吉なものだった。
小高い丘を削るように造られた進軍路。
春の終わり、残った草花が、地を這うようにして黄色い花を咲かせていた。
風に揺れるそれは、まるで「まだ終わっていない」と主張するようだった。
人が命を落とす場所に咲くには、あまりにも鮮やかだった。
矢野蓮は、ただそれを見ていた。
――本当に始まるのか。
この丘の向こうで、また命が絶えるのか。
また、あいつは斬るのか。
その剣を握りしめたまま、何も見ずに。
「矢野さん」
そのとき、静かな声が耳に届いた。
振り返ると、白装束をまとう沖田静が、指先で風を避けるようにして立っていた。
風が、白い布をなぶっている。
その姿は、どこかもう、戦場の空気に馴染みすぎていた。
「準備は、整いましたか」
「ああ」
矢野は、手にした槍の重みを確かめながら、短く答えた。
沖田は何かを感じ取ったように、矢野の顔を見て、小さく目を細めた。
「……矢野さん、今日は、きっと少し、無理をします」
「……そうか」
「止めてもらえると、助かります」
その言葉は、冗談にも命令にも聞こえなかった。
ただ、静かに――“予告”のように置かれた。
※
敵軍は早かった。
丘の裏手を回るようにして迂回してきた斥候が、急角度で前衛を襲った。
味方は散開して応戦せざるを得ず、隊形は乱れ、隘路に追い込まれる形となった。
そして、そのときだった。
沖田が、ひとりで前へ出た。
矢野が気づいたときには、すでに彼の背中は、敵陣のただなかにあった。
剣が抜かれていた。
すでに、何人かが崩れ落ちていた。
沖田の剣は――速かった。
否、速いという表現すら、もはや不正確だった。
それは、空気を断つような動きだった。
人が動いているのではなく、何か“力”が形をとっているような動き。
――あいつが“人間”じゃなくなる。
矢野の脳裏に、その危機感が走った。
叫びたかった。
けれど、声が出なかった。
視線の先、沖田の目が、虚ろに開かれていた。
感情がない。
その瞳はもう、敵兵すら見ていない。
戦場すら見ていない。
まるで、“自分の中にある何か”とだけ戦っているようだった。
※
「静――!」
矢野は、叫んだ。
そのとき、沖田の動きが、わずかに止まった。
一瞬、振るわれかけた刃が、風に遅れをとった。
敵兵の一人が斬りかかってきた。
刃が静の横顔をかすめる。
だが、静は振り返らず、剣の角度を変えてそれを流した。
そして、斬らなかった。
敵兵の足を払っただけで、斬らなかった。
それを確認してから、矢野は駆けた。
霧がかかるように、戦場の空気がにぶかった。
血と泥と焦げた草の匂いが混じっていた。
沖田は、その場に立っていた。
まるで、“自分がいま、どこにいるのか”を理解していないように。
「おい、静!」
矢野が肩を掴むと、静は、はっと目を見開いた。
その瞳が、わずかに揺れた。
「戻ってこい。おまえ、今どこにいた?」
静は、何かを言おうとして――声にならなかった。
その代わりに、喉の奥でかすれた音が漏れた。
「……ごめんなさい」
それは、震えていた。
「斬っちゃいけないって、わかってたのに……手が……止まらなかった」
「止まってたよ。今、止まった。俺が呼んだから、おまえ、戻ってきた」
「……矢野さんの声が……すごく遠くにあって、でも、それが……」
「届いたんだろ?」
静は、頷いた。
そのとき、矢野は初めて、自分の中で何かが決まったのを感じた。
この剣士は、まだ人間だ。
まだ、声が届く。
届くなら――俺は、呼びつづける。
何度でも。
何度でも、この背中を、名前で呼び止める。
※
戦の終わったあと、ふたりは焚き火の前に座っていた。
いつもと同じように。
「矢野さん」
「ん」
「僕、やっぱり……怖いです」
「……何が?」
「自分の剣が。いつか、本当に人を殺すためだけに、振るうようになるんじゃないかって」
「そのときは俺が止める」
「止められますか?」
「止めるよ。おまえの手を掴んででも、呼び戻す。今日みたいに――おまえが、“戻ってこい”って言ってくれるうちはな」
火が、静かにはぜた。
空はまだ曇っていて、星のひとつも見えなかった。
けれど、矢野の胸の奥には、少しだけ光が差していた。
――俺はこの背中に、まだ声をかけられる。
まだ、“静”と呼べる。
それだけで、いまは充分だった。




