表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第三章:戦友との邂逅

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/32

第九話「声の届かぬ背中に」

 夜明け前の静寂は、どこか異様に澄んでいた。

 月はすでに沈み、空はまだ藍の底にあった。

 兵たちは起き抜けの身支度を淡々とこなしていたが、その動きにはどこか緩慢さがあった。

 近づきつつある“大規模戦”の気配を、誰もが本能的に察していた。

 矢野蓮は槍の穂先を見つめながら、その朝の冷たさを、妙に身体に刻み込んでいた。

 火のそばには沖田静がいた。

 白装束の裾が風に揺れ、濃くなった夜明け前の闇のなか、彼の姿はまるで人ではない何かのようだった。

「静」

 矢野が名を呼ぶと、沖田はゆっくりと振り返った。

「はい」

「……眠れてるか」

「夢は、見ました。でも眠っていたと思います」

「どんな夢だ」

 沖田は少し考えて、それから言った。

「僕が……誰かの声を聞いていた夢です」

「誰かって?」

「わかりません。姿も顔もなかった。……ただ、遠くから“名前を呼ばれている”気がしたんです」

 その言葉に、矢野は胸を突かれた。

 ――声が届いていた。

 それは、誰のものだったのか。

 自分ではないとしたら、静を“人間”に繋ぎ止めているのは誰なのか。

     ※

 日中の交戦は、激しかった。

 敵軍は数においても地形においても優勢だった。

 味方の隊列は早々に乱れ、各班は散り散りになった。

 それでも、矢野と沖田は同じ場所にいた。

 無言で、互いを補いながら、複数の敵を相手に斬り、薙ぎ、押し返した。

 沖田の動きは、もはや“剣術”の域ではなかった。

 視線だけで、相手の動きの予兆を読み、間合いを制し、致命を避けて無力化する。

 彼の剣が“殺さずに止める”ことを選び続けていることに、矢野は気づいていた。

 だが、それが“優しさ”ではないことも、もう知っていた。

 それは、単なる“最適解”だった。

 無駄に殺さず、次の動きへ移れるように構成された戦闘理論。

 相手を“人”としてではなく、“障害物”として扱った結果。

 それでも、沖田は迷いなく斬っていた。

 命を“扱う”ことに、なんのためらいもない動きで。

     ※

 戦いのあと、矢野はひとりになった。

 隊の仮設天幕に戻ると、静はまだどこかへ報告に出ているらしかった。

 焚き火のそばに腰を下ろし、濡れた布で手を拭いながら、矢野は考えていた。

 あいつの剣は、今、どこへ向かっている?

 ――あの戦い方は、もう“人間”のものじゃない。

 だが、俺はまだ、あいつを“人間”として見ていたい。

 それが、間違いなのだろうか。

 ふと、火がはぜた。

 小さな破裂音。

 その音に、何かが弾けたように、矢野は低く声を出した。

「静――」

 それは呟きだった。

 呼びかけのようでもあり、問いかけのようでもあり、祈りのようでもあった。

 その背中は、どこまで届くのか。

 どこまで“こちら側”に留まっていられるのか。

 ――俺は、その背中に、もう声をかけられない日が来るような気がしている。

     ※

 沖田が戻ってきたのは、そのしばらく後だった。

 剣を手入れしたままの姿で、仮設天幕の端に腰を下ろした。

「……矢野さん」

「ああ」

「明日、また前線です。僕と、第三班の兵が主攻として回されるみたいです」

「俺は?」

「後衛の援護。僕のすぐ後ろで動け、とのことです」

 矢野は頷いた。

 それが当然のようになっていることが、もはや説明すら要らなくなっていた。

「静、おまえ……“人を斬る”って、どういう気分なんだ?」

 沖田は、一瞬だけ手を止めた。

「それを“気分”として語れるなら、僕はもう少しまともだったと思います」

 その答えに、矢野は目を伏せた。

「俺、夢を見たんだ。おまえが斬ってる夢。……ずっと斬ってて、途中で、振り向いた」

「……」

「そのときの目に、俺の姿が映ってなかった」

 静は、目を閉じた。

 火の音が、ふたりのあいだに淡く流れた。

「それでも、僕の背中を見ていてくれますか?」

「……わかんねえよ。

 でも、たぶん俺は、どこまで行っても……見続けるんだと思う。

 怖いけど、でも、それでもおまえのこと……“人間”として見てたいんだ」

 静は、何も答えなかった。

 ただ、その夜だけは、剣を拭く手を止めていた。

     ※

 その背中に、声が届いたかどうかはわからない。

 けれど矢野は、それでもなお、呼び続けるのだと心に決めた。

 たとえ沈黙に吸い込まれても。

 たとえその背が、別の世界へ向かって歩いていても。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ