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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第三章:戦友との邂逅

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第八話「その背に、人の影はあるか」

 霧が出ていた。

 それは、ただの気象ではなかった。

 あの朝、山全体が何かに沈黙を強いられたような、異様な気配を孕んでいた。

 風もない。鳥の声も聞こえない。木々の枝は、霧の膜の向こうでまるで絵のように静止していた。

 矢野は、槍の石突きを地に立てたまま、吐く息の白さを眺めていた。

 まだ陽が昇りきる前だった。

 隣には、沖田静がいた。

 白装束の裾が、かすかに霧を掻く音を立てている。

 それ以外に、動くものはなかった。

「気味悪いな」

 矢野は思わず、声を出していた。

 静は応えなかった。

 ただ、剣の柄に指を添えたまま、森の奥を見つめていた。

 霧の向こうに、何かがいる。

 そう感じたのは、直感ではなく経験だった。

 ――敵が来る。

 それだけは、ふたりとも疑っていなかった。

     ※

 その日、部隊は峡谷地帯を進んでいた。

 南側から敵軍の補給路を断つための進軍だったが、相手は先に気づいていた。

 伏兵。

 四方からの包囲。

 地形を熟知した者の動き。

 すべてが、味方にとって不利だった。

「矢野さん、三秒で斜面を超えて」

 静が、指一本で前方を指した。

 矢野は即座に頷き、斜面の土を蹴った。

 敵影が森の縁から姿を現す。

 それを、静がひとりで受け止めた。

 矢野の背中で、あの剣が鳴る音がした。

 剣が空気を切り裂き、血飛沫も声も上げずに、ただ命を止める音。

 それが、五度、六度と繰り返された。

 矢野が斜面を駆けあがって振り返ったとき、

 静は、たったひとりで七人の敵を倒していた。

 すべての敵は、正確に急所だけを封じられていた。

 斬り伏せられたというより、“眠らされた”ように沈んでいた。

「……おまえ、何者だよ」

 思わず漏れた矢野の声に、静は微笑んだ。

 その笑みに、矢野は戦慄した。

 それは、“安堵”の表情ではなかった。

 “正しく処理できた”という、ただの確認のような笑みだった。

     ※

 その後の交戦で、隊は散り散りにされ、再編が必要となった。

 重傷者を担いで戻ってきた兵たちは、誰もが言った。

「あのふたりがいなければ、全滅してた」

「沖田が斬って、矢野が守った。あれがなかったら、誰も生きちゃいなかった」

「沖田は、矢野の“目”があるから斬れるんだろ」

 その評価は、矢野にとって誇りではなかった。

 それは、言い換えれば――“矢野がいなければ沖田は暴走する”ということだった。

 矢野の中に、ひとつの疑念が生まれた。

 ――俺がいなければ、あいつはどこまでいく?

 命の境界も、痛みの意味も曖昧にした剣を、

 あの男は、どこまで振るい続けるのか。

 その行き着く先に、

 “沖田静”という“人間”は、まだ残っていられるのか。

     ※

 夜、焚き火の前で、矢野は静に尋ねた。

「おまえ、疲れねえのか」

「疲れますよ」

「……そうは見えねえよ。昼間あんだけ斬っといて、目がまったく濁らねえ」

「濁らないようにしてるんです」

「……どうして」

 少しの沈黙。

「目が濁ったら、斬れなくなりますから」

 その答えは、正直だった。

 けれど、矢野の心には重く響いた。

「そんなもんか」

「そんなもんです」

 静は火に顔を照らされながら、ゆっくりと目を伏せた。

 その横顔は、あまりに穏やかで、

 まるで血など知らない者のようだった。

     ※

 その夜、矢野は夢を見た。

 静が剣を抜く夢だった。

 何十人、何百人と斬っていく。

 顔も名も知らぬ敵兵が、ただ“処理”されていく。

 その最中、ふと静がこちらを見た。

 その瞳のなかには、何も映っていなかった。

 矢野の姿も、景色も、斬った命も、何も。

 目覚めたとき、矢野は胸の奥をかきむしりたいような衝動にかられた。

 ――あれは、本当に、沖田静の目だったのか?

     ※

 その翌朝、霧はすっかり晴れていた。

 青空が広がり、鳥の声が戻っていた。

 けれど、矢野の中には、霧が残っていた。

 あの剣は、どこへ行こうとしているのか。

 自分は、それに付き添っていいのか。

 それとも、あれはもう、人の道を踏み外しはじめているのか。

 だが――

「矢野さん、行きましょうか」

 そう声をかけてくる静は、いつも通りだった。

 年齢不詳の笑み。

 丁寧な物腰。

 他人行儀な言葉づかい。

 けれど、その背に並びながら、矢野は心の奥で思っていた。

 ――この人は、いつか、どこかへ行ってしまう。

 そのとき、俺は、背中に何を叫べばいいのだろうか。


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