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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第三章:戦友との邂逅

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第七話「刃の沈黙に降るもの」

 戦の終わった夜ほど、静かな時間はない。

 それは命が終わった夜でもあり、また命が繋がった夜でもある。

 生き残った者たちは火を囲み、死んだ者たちは土に還る。

 沈黙のなかで、焚き火の音だけが生きている。

 時折、誰かの寝息と、剣の鍔に触れる指先の微かな音が混じる。

 矢野蓮は、その焚き火のそばにいた。

 沖田静は、少し離れたところで布に包まれた刀身を拭っていた。

 血はほとんどついていなかったはずだ。

 にもかかわらず、彼はずっとその行為を繰り返していた。

 まるで、それが日常の呼吸であるかのように。

 矢野はそれを、ただ見ていた。

 いや、正確には“見ている”ふりをしていた。

 静の背中は、日に日に遠くなっていた。

 並んでいるはずの肩と肩に、目に見えぬ距離が生まれていた。

     ※

 昼の戦は苛烈だった。

 草木が密集する尾根道での攻防。

 敵は森に紛れ、こちらの進路を分断する形で奇襲をかけてきた。

 矢野は、槍を握ったまま視界を失った。

 煙弾のような火薬が爆ぜ、黒いもやが視界を包んだ瞬間だった。

 視えない。

 聞こえない。

 ただ、刃の空気だけが、すぐそこにあった。

 ――そのとき。

 風が、通った。

 あの剣だった。

 沖田静の、剣の音。

 実際に音がしたわけではない。

 だが、空間が“切られた”ことが、矢野にはわかった。

 それは殺意ではなく、ただ、刃だけが存在する場所。

 何人もの敵が倒れていた。

 矢野の周囲に、触れもしなかったはずの死体がいくつも転がっていた。

 “視ずに、斬る”。

 それがどういうことなのか、矢野はその時、はっきり知ってしまった。

 ――あいつはもう、“敵”と目を合わせていない。

 命を命として見ないまま、すべての位置と速度だけを測り、

 刃の届く範囲に入ったものを、自動的に排除していく。

 それは、まるで人間の動きではなかった。

     ※

 戦後、負傷者の運搬を終えたあと、矢野は隊長のもとへ呼ばれた。

「矢野。次の小隊再編でも、おまえは沖田と組だ」

「……ああ、了解です」

 口ではそう言ったが、胸の奥に何かが沈んだ。

 もう、驚きはなかった。

 むしろそれが当然のように続いていることが、奇妙なほどだった。

 隊長は紙をめくりながら、ふと呟いた。

「おまえと沖田を離す理由が、見つからん。あいつと噛み合う兵が他にいないんだ」

「……そうですね」

「おまえも、あいつが“変”だってことはわかってるだろ」

 その言葉に、矢野は黙って頷いた。

「けど、あいつの剣は、隊を生かす剣だ。おまえがいるから制御できてるって話もある」

「……制御、ですか」

「ああ。あいつはな、剣を抜けば戦える。戦が終わっても、また剣を抜ける。けど“人間”に戻る場所が、いまのおまえしかないんだよ」

 そのとき、矢野は思った。

 ――それは本当に“戻る場所”なんだろうか。

 自分が今見ている沖田静は、果たして“戻って”きているのか。

 それとも、ずっと“どこか”へ向かい続けているのか。

     ※

 その夜、矢野は火のそばで尋ねた。

「静、おまえさ、いままで何人くらい斬った?」

 静は顔を上げなかった。

 ただ、手を止めることなく、剣を拭き続けていた。

「覚えていません。数えてもいません」

「……そうか」

「でも、数えなくなった日だけは、覚えています」

 その言葉に、矢野は返す言葉を失った。

 剣を持って戦うということは、そういうことだったのかもしれない。

 けれど、彼にはそれが理解できなかった。

 理解してしまったら、自分も“あちら側”に行ってしまう気がして。

「俺は……おまえのこと、尊敬してる。けど、少し……怖いんだ」

「怖がってください。正しいです、それは」

 静はそう言って、はじめて矢野の方を見た。

 その瞳は、まるで月のように、淡く、遠かった。

     ※

 翌朝、風が強かった。

 東からの風が、まだ枯れかけの木々を撓ませていた。

 そのなかを、ふたりは並んで歩いていた。

 地図にはない山道を辿る。新しい任地へと向かう道だった。

 無言の時間が長くなったのは、いつからだったろう。

 それでも気まずさはなかった。

 呼吸の合わせ方だけは、もう馴染んでいた。

「矢野さん」

「ん」

「僕は、きっと……まだ人間でいられると思ってたんです」

「……」

「でも最近、自分の中に“人じゃない部分”が増えているのがわかる。あのとき、あなたが背を向けたまま、槍を振ってくれたこと、あれが、まだ“人間”に繋ぎ止めてくれていた」

 矢野は答えなかった。

 ただ、歩みを止めずに、その言葉を背で受けた。

 風が吹いた。

 白装束が揺れた。

 音はしなかった。

 けれど確かに、何かが揺らいだ気がした。

     ※

 その夜、矢野は再び夢を見た。

 静けさのなか、誰もいない戦場に、ひとつの背中だけが立っていた。

 その手には剣がなかった。

 けれど、剣よりも鋭い沈黙が、全身を包んでいた。

 矢野はその背中を呼んだ。

 声は届かなかった。

 けれど、ただ、背中を見つめつづけていた。

 目覚めたとき、胸の奥が痛んだ。

 まるで、自分の剣が、どこかに置き去りにされたようだった。


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