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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第三章:戦友との邂逅

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第六話「静けさの中で呼吸するもの」

 夜の山は、音を呑む。

 それは、戦の直後にだけ訪れる沈黙だった。

 風が途絶え、焚き火の炎さえ揺れず、兵たちの囁きも消え、ただ大気が息を潜めるように、冷たく静まる。

 ――それを矢野蓮は、何度か体験していた。

 けれど、その夜の“沈黙”は、今までと少し違っていた。

 息を詰めるような緊張ではなかった。

 どこか、剥き出しの痛みを、土の底に隠しているような静けさだった。

 新たな戦地への投入前夜。

 矢野と沖田は、同じ隊の一角に身を置き、隣り合うようにして沈黙していた。

 焚き火の火は、すでに炭に近い。

 周囲では兵たちのうち幾人かがまどろみ、残りは武具の整備や物資の確認に追われていた。

 矢野は槍を立て、背中を丸めるようにして座っていた。

 視線は宙に浮かび、言葉は口に出なかった。

 けれど、すぐ隣にいる男の“気配”だけは、ひどく濃かった。

     ※

 それは昼間の戦でのことだった。

 川沿いの小さな砦。斥候を送り込んだ敵の先遣隊が、林の陰から襲いかかってきた。

 交戦は、短かった。

 だが、問題はその“終わり方”だった。

 沖田が、一撃で止めたのだ。

 否、正確には、“止めてしまった”。

 敵兵の一人が、後衛の仲間に向かって走り出したときだった。

 静はふっと姿を消すように走り、次の瞬間にはその男の目の前に立っていた。

 剣が、振るわれた。

 斬ったようには見えなかった。

 ただ、風が動いた。

 次の瞬間、その敵兵は、のけぞるようにして膝をついた。

 呻きもせず、声も発さず、ただ地面に両手をついたまま、目を見開いたまま、ゆっくりと動かなくなった。

 ――斬られていない。

 だが、立ち上がれなかった。

 倒れた男の身体には、傷ひとつなかった。

 にもかかわらず、命の火は消えていた。

     ※

「……あいつ、斬ってないよな?」

 戦のあと、矢野は思わず周囲の者にそう言った。

 けれど、誰も明確な答えを返さなかった。

 誰もが、“あれは見なかった”というような顔をしていた。

 静は、何も言わなかった。

 火のそばに座り、黙って柄を布で拭っていた。

 刀身に、血はついていなかった。

 矢野は言葉を飲み込んだ。

 あれが何だったのか、訊くことができなかった。

 ――斬っていないのに、殺してしまった。

 そんな剣が、あるのか。

 それは技術の話ではなかった。

 彼にはわかっていた。

 あれは、“剣”そのものが、生き物のように命を奪ったのだ。

 静の手を通して、あるいは、その手をすら通さずに。

     ※

「ねえ、矢野さん」

 火がすっかり小さくなった頃、静が声を出した。

「ん」

 矢野は返事をしたが、目は合わせられなかった。

 あの昼の光景が、脳裏を焼いて離れなかった。

「今日、僕が何をしたのか、訊かないんですね」

 その声は、妙に淡々としていた。

 自白でも、弁明でもなかった。

「訊きたくない。訊いたら……全部、わかってしまいそうで」

 矢野の言葉は、自分でも驚くほど正直だった。

「僕も、わかりたくありません」

 静は、そう言った。

「でも、手は、動くんです。目が覚めると、立っているんです。……相手の前に」

 矢野は、焚き火の火を見た。

 かすかに、灰が宙に舞っていた。

 そのひと粒が、静の頬に当たって、白い皮膚に消えていった。

「おまえ、どこまで行く気なんだ?」

「――え?」

「……いや」

 言ってから、矢野は少し後悔した。

 問いがあまりに曖昧だった。

 どこまで“強く”なるつもりか、どこまで“狂って”しまうのか、あるいは、――どこまで“殺す”つもりか。

 そのどれとも取れるような、問いだった。

 静は、しばらく黙っていた。

 そして、ごく微かに微笑んだ。

「たぶん、僕はもう……途中なんです。どこへ向かっているのかも、自分ではわかっていない。でも、それでも、――誰かの命を、もう増やさないために、進むしかない」

     ※

 矢野は、その夜、眠れなかった。

 それが初めてではなかったが、その晩の眠れなさは、質が違っていた。

 静が言った言葉は、ずっと頭のなかを反芻していた。

 誰かの命を“もう”増やさないために。

 それは、ただの軍人の言葉ではなかった。

 それは、“命を積んできた”者の言葉だった。

 どれだけの命を、自分の手で終わらせてきたのか。

 数えたことはないのか。

 数えることを、やめたのか。

 ――矢野には、そこまでの世界はわからなかった。

 でも、わからないままに、同じ場所に立っていることが、怖かった。

     ※

 翌朝、編成表に目を通した上官が、隊員たちに言った。

「今回の前線、沖田と矢野は、そのまま組で動け。他の者は第三班に移動しろ」

 自然な決定だった。

 誰も疑問を持たなかった。

 ふたりの名前は、常に並んで記された。

 矢野は、紙の端に書かれた自分の名と、沖田の名を眺めながら、これが“信頼”なのだと知った。

 戦場における信頼――それは、命を投げ出す準備があるということ。

 相手の判断を、結果がどうであれ肯定する覚悟のこと。

 でも同時に、それは、相手がどこかへ向かうのを黙って見送る“許可”でもある。

 矢野は、そこにある危うさを、ようやく意識し始めていた。

     ※

 戦が始まった。

 敵地へ踏み込み、伏兵を退け、味方を導く。

 いつものように静は前へ進み、矢野はそのすぐ脇を支えた。

 剣と槍が交差し、動線が交わり、気配が波紋のように広がる。

 ふたりはもう、目を合わせずに息を合わせることができた。

 だが、矢野の胸の奥には、火がともり続けていた。

 あの剣は、何を選び、何を拒み、誰を斬っているのか。

 そのすべてを理解できないまま、自分はこの背に立っていいのか――。

     ※

 その夜、矢野は再び夢を見た。

 真っ白な戦場。

 人の声も、死の匂いも、血の色も消えた景色で、

 沖田静だけが、歩いていた。

 彼の足元には、倒れた兵たちの影が、光のように広がっていた。

 誰も彼を止められず、誰も彼に名を呼ばなかった。

 矢野は夢の中で、何度もその名を呼んだ。

 けれど、声は届かなかった。

 その背中は、どこか“人間”ではなかった。

 目覚めたとき、矢野は汗をかいていた。

 胸の奥が、冷えていた。

 ――俺は、あいつの何を、見ていたんだろう。

 そう思った。


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