表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第三章:戦友との邂逅

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/32

第四話「その剣は、奪わずに届いた」

 雨が降ったあとだった。

 あの夜の、ぬかるんだ土のにおいを、今も忘れられない。濡れた木の葉が兵の靴に貼りつき、剣の柄は泥で滑りやすく、炎の届かない山の斜面は、死体と、死にきれぬ呻き声と、空に帰れない魂でいっぱいだった。

 俺は、捕虜になった。

 戦いが終わったあとで、命を拾われた。

 それがどういう意味を持つのか、最初はわからなかった。ただ、殺されなかった。あれだけ味方を斬り殺した者たちのあいだで、俺だけが、命を奪われなかったのだ。

 それは赦しでもなければ、慈悲でもない。俺たちは、あまりにも無様だった。応戦もままならず、雪崩のような白装束の一団に呑み込まれて、壊れたように仲間が倒れていった。あれが、ひとりの剣士の手によるものだったと知ったのは、しばらく経ってからだ。

 俺は、その男を見た。

 名も知らぬその者が、ただ静かに歩いてきて、風のように抜き身の剣を振るい、命を絶たぬまま、俺の前に立った。

 あれは――

 本当に、人間だったのだろうか。

     ※

 戦のあとは、記憶のなかでよく歪む。

 どこから話せばいいのかわからない。思い出すと、喉が詰まるような息苦しさがある。それでも、語らねばならぬ気がしたのだ。あれは“何か”だった。確かに俺は、斬られなかった。命を奪われなかった。

 だが、それは単なる「見逃された」とは違う。

 剣が、届いたのだ。

 心の奥に、深く。けれど、奪うことなく、貫かれた。

 ――目の前にいたのは、ひとりの少年だった。

 否、少年と呼んでよいのかもわからぬ。

 顔立ちは若く、年端もいかぬはずだ。だがその瞳だけは、酷薄な年月を生き延びた者のものだった。

 その男は、静かだった。荒ぶることも、叫ぶことも、誇示することもなく、ただ、淡々と立っていた。白装束は、血で染まっていたが、本人のものかどうかはわからない。おそらく、多くの者の血が、あの布に沁み込んでいたのだろう。

 ――剣を持っていた。

 それは鈍く光る刃で、鍔も柄も、軍の支給品のように質素だった。

 何の飾り気もない。名もない。

 だが、それは確かに“剣”だった。殺すためではなく、通すための道具だった。

 俺がその場にひれ伏していたとき、その白い鬼神のような剣士は、歩を止めた。

 そして、俺の目の前で、剣を構えた。

 ――来る、と思った。

 首筋が冷える。次の瞬間には、すべてが終わる。そう、覚悟した。

 だが、その剣は、振り下ろされなかった。

     ※

 まばたきをした。

 それだけの一瞬で、目の前の空気が、凪いだように感じた。

 恐怖の向こう側で、何かが音もなくすり抜けた。

「……なぜ、俺を殺さない」

 声に出たのは、そう問うような呟きだった。

 自分の意思というより、身体が勝手に発した言葉だった気がする。

 彼は答えなかった。

 だが、代わりに、こう言った。

「――剣は、命を運ぶ道です。奪う道ではない」

 そのとき、初めてその声を聞いた。

 静かだった。澄んでいて、柔らかく、年齢の割に落ち着いていた。

 だがそれは、“ひとを殺してきた声”だった。

 すでに何十人、いや、百人以上の命を手にかけてきた者が持つ声。

 それでいて、まるで何も背負っていないかのような、透明な音色だった。

「俺は、おまえを殺しても、何も得られない」

 その言葉は、裁きではなかった。

 宣告でもない。

 それはただの、事実だった。

     ※

 俺は震えた。

 武器を握る手が汗で滑り、指先はもう感覚を失っていた。

 敵として対峙したはずだったのに、その瞬間、俺はただの「ひと」だった。

 生かされたことが、重たかった。

 自分の存在が、値踏みされ、そのうえで「殺す価値もない」と見做されたこと。

 それは惨めでもあったが――

 同時に、どこか救いでもあった。

「名を、教えてくれ」と言おうとして、言えなかった。

 なぜなら、そんなものは最初から、この戦場には存在していなかったからだ。

 名を問うことすら、愚かに思えた。

 そこにいたのはただ、“剣”だったのだ。

     ※

 捕虜となった俺は、しばらく別の村で留め置かれた。

 やがて、戦が終結したとき、解放された。

 だが、その後の日々、俺のなかであの剣の記憶は、消えなかった。

 いや、むしろ時が経つほどに、あの一太刀の“無”が、深く染み込んできた。

 あれは、殺さない剣だった。

 だが、届いていた。確かに、届いていた。

 あの日の俺にとって、それは「命を奪われる」よりも、ずっと重かった。

 ――赦されたわけじゃない。

 ――救われたのでもない。

 ただ、目を逸らされなかった。

 それだけだったのに。

 それだけだったのに――俺は、泣いてしまった。

     ※

 その剣士の名は、最後まで聞かされなかった。

 風の噂に、白装束の若き剣士の話を耳にしたことはある。

 だが、それが彼だったのかどうかは、今となってはわからない。

 人は“鬼”と呼び、“神”と呼んだらしい。

 だが、俺はそうは思わなかった。

 あれは、ただの“人”だった。

 誰かのために、何かのために、剣を抜き、血の海を歩いてきた少年。

 血に濡れた手で、なおも剣を握りつづけなければならなかった者。

 だからこそ、あの剣は、

 奪わなかったのだ。

 何も、奪わずに、ただ、届いていた。

     ※

 今でも、夢に見る。

 ひらりと翻る白の布。

 足音すら立てぬ、静かな足取り。

 殺意も怒気も持たぬ、ただの剣の動き。

 そのすべてが、今も、脳裏に焼きついて離れない。

 俺は戦を離れたあと、武器を捨てた。

 二度と、誰かに刃を向けることはなかった。

 平凡な暮らしを選び、耕し、家族を持った。

 けれど、心のなかには、今もあの剣がある。

 届いたままの剣。

 奪われなかった命。

 あのときの、名もなき声。

 もし、彼がまだ生きていたのなら。

 もし、今どこかで、新しい名を持って生きているのなら――

 俺は伝えたい。あの剣は、確かに、俺を変えたと。

 奪わずに、届いたその一太刀が。

 誰より深く、俺を貫いたのだと。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ