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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第三章:戦友との邂逅

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第二話「まだ名もなき信頼」

 朝霧がまだ溶けきらぬ時刻、矢野蓮は薄明かりの中で立ち止まり、周囲を見渡した。

 地を這うような靄が、草の葉にまとわりつき、気配を濁す。遠くから聞こえるのは鳥の鳴き声ではなく、風に運ばれた砲声。

 それは、いずれ自分たちが踏み込んでいく音だった。

 その日、彼は任務として補給路の迂回確認に出ることになっていた。道案内として同行するのは三人。うちひとりは、白装束の剣士――沖田静。

「……矢野さん、こちらで間違いないかと」

 小声で、沖田が矢野の背後に並ぶ。敬語だが、硬くはない。親しみの温度が少しだけ上がった声音。

 昨日の共闘を経て、少し距離が縮まったのかもしれない。けれど、まだ互いに探り合っているのがわかった。

 矢野は頷いた。

「合ってる。たぶん二百メートル先の森が、地図で言う“切れ間”だな。行ってみよう」

 静はそれ以上言わず、頷いて先を歩き出した。柔らかい足音。剣を背負った影は、濃霧の中でぼんやりと滲んでいた。

     ※

 ――静。

 そう、呼ぶようになったのは、ほんの昨日のことだ。

 最初は、白装束の男、と呼ぶ以外に言いようがなかった。何を考えているかわからない。何も語らない。だが剣だけは、すべてを語る。

 矢野の中で、あの男は“恐怖”に近かった。

 だが同時に、それは“感覚的な安心”でもあった。

 敵を斬るのに一切の躊躇がない。

 正確無比で、速い。判断も早い。

 それでいて、斬った敵の遺体を見下ろすまなざしには、どこか――憐憫のようなものがあった。

 そういう目をする奴を、矢野はこれまで戦場で見たことがなかった。

     ※

「矢野さん」

 澄んだ呼び声に、矢野は思考から引き戻された。

 足元の草が濡れている。朝露ではない――血だ。

「これは……昨日の戦闘とは別口か?」

 静が小さく頷いた。

「たぶん、夜明け前にあった小競り合いですね。靴の跡がまだ新しいです。……敵もまだ近くにいるかもしれません」

「引き返すべきか」

「いえ……このまま進んでも大丈夫だと思います。痕跡は、森の南側へ抜けています」

 静は膝をつき、地面に触れる。

 その仕草が、妙に丁寧だった。まるで誰かに触れるように、地面の温度を感じ取ろうとしているかのようだった。

「静」

 呼びかけると、静はふと顔を上げた。

「お前、そういうの……どこで覚えたんだ?」

「“どこで”というより……気づいたら、できてたんですよね。気配とか、音とか、そういうの」

「剣術の道場でも行ってたのか?」

「……ええ、少しだけ。兄弟子の真似をしてただけですけど」

 そう答えると、静は口元に微かな笑みを浮かべた。けれど、その笑みは、どこか痛ましかった。思い出したくない記憶を、無理やり微笑みに変えたような――

 矢野はそれ以上、何も訊かなかった。

     ※

 戻った野営地では、小競り合いに巻き込まれて負傷した雑兵が運び込まれていた。

 肩を深く斬られたらしい若者は、必死に叫んでいた。

「やめてくれ、頼む、まだ死にたくないんだ……!」

 その声に、静がわずかにまなざしを落とす。

 彼の隣に立っていた矢野は、その横顔を、しばらく黙って見ていた。

 何も言わない静。けれど、胸の奥で何かが騒いでいるのが、確かに伝わってきた。

 手のひらを、わずかに握っていた。

     ※

 その日の午後。

 矢野と静は、野営地外縁の補給口で監視任務についていた。

「なあ、静」

 矢野がぽつりと声をかけたのは、日が傾き始めた頃だった。

「お前、名前、変わってるよな。静って。……誰がつけたんだ」

「……え」

 静が振り向く。

 予想していなかったらしい問いに、素直な顔をしていた。

「お世話になっていた道場の方です」

「ん……?」

「僕、小さい頃から……その、戸籍がないんです。拾われたみたいなもんで。正式な名前って、よくわからないんですよ」

 淡々と語る口調のなかに、わずかな寂しさがあった。

 けれど、それを矢野は責めようとは思わなかった。

「それで、道場でも“沖田”って名乗ってたのか」

「ええ。名乗らないと、いろいろ不便だったので」

「……なんで“静”なんて名前がついたんだろうな」

「……静かに生きてほしい、みたいな意味じゃないですか。皮肉みたいですけど」

 静の言葉に、矢野はふと笑った。

「確かにな」

「でも、ほんとは――」

 その先を、静は言わなかった。

 けれど矢野には、十分だった。

     ※

 その夜、野営地の南端で騒ぎが起きた。

 物資を運ぶ別動隊の一人が、森に紛れていた敵兵と鉢合わせたというのだ。

 駆けつけた矢野が見たのは、血まみれの雑兵と、倒れている敵兵。

 そして、雑兵をかばうように立っていた沖田静の姿だった。

 剣はまだ鞘に収められていた。

「静……お前が、やったのか?」

 矢野の問いに、静はほんの少しだけ間を置いて、頷いた。

「相手が、剣を抜く前に踏み込みました。あれ以上、彼が叫んでいたら、敵兵の仲間が集まってきてたはずです」

 言い訳ではない。ただの説明だった。

 冷静で、静かで、穏やかで、それでも――

「矢野さん」

 静が、はっきりと矢野を見た。

「……僕、人を斬るの、ほんとは嫌いなんです」

 それは、これまで聞いたどんな言葉よりも、矢野の胸を刺した。

 あれほどに剣を振るい、あれほどに迷いなく命を奪ってきた男の口から出た言葉が、それだった。

 ――なら、お前はなぜ、ここにいる。

 喉まで出かかった言葉を、矢野は飲み込んだ。

 そして代わりに、こう言った。

「知ってるよ。見てたからな、お前が斬ったあとの顔。……お前、泣きそうだった」

 静が、目を見開いた。

 矢野はそれ以上、何も言わず、その場を離れた。

     ※

 その夜、矢野は眠れなかった。

 白装束の背中が、脳裏に焼きついていた。

 誰よりも剣を知り、誰よりも命を奪う術を持ちながら、

 その実、誰よりもそれを嫌う者。

 ――こいつは、鬼神じゃない。

 そう思った。

 そうではなく、

 “ただの人間”なんだと。

 人を斬って、

 生き延びることを選んだ、

 まだ、若すぎるほどの。

     ※

 そして、矢野はその晩、夢を見た。

 白い霧の中。血の海。無数の死体。

 そのなかで、ひとり立ち尽くす静の姿。

 誰の手も届かぬところに立ち、それでも、誰かを斬り続けなければならない背中。

 自分は、その背を、遠くから見ていた。

 ただ、何も言えずに。

 夢の中で、彼は静の名を呼ぼうとした。

 けれど、声は出なかった。


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