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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第三章:戦友との邂逅

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第一話「その背に立つ者」

 乾いた風が吹き抜けた。水たまりには霜が降りている。小さく雪の降る朝だ。

 瓦礫の多い野営地の端、岩と粘土が交じる斜面の上に、白い姿がひとつ、ぽつんと立っていた。

 背には剣。肩には薄く剥げた布の外套。

 足元には、倒れたまま回収されぬ壊れた荷車と、黒く乾いた血の痕。

 ――あれが、“沖田静”か。

 その名を口にする者は、誰もいなかった。

 だが、到着と同時に空気が変わったことを、矢野蓮は誰よりも敏感に察していた。

 小さな部隊だった。もともと別の拠点で編成された寄せ集めで、人数も決して多くはない。

 だからこそ、誰が来たかはすぐにわかる。

 沈黙がひとつ増えた。

 輪の外から、冷たいものが侵入してきた。

 その中心にいたのが、件の男――

 白装束の若者だった。

     ※

「“鬼神”が来るって噂、あれほんとだったのかよ……」

 新兵のひとりが、薪を運ぶふりをして小声で言った。

 周囲の者は顔を伏せたまま、誰も相槌を打たなかった。

 噂は、届いていた。

 ――白装束の剣士、たったひとりで前線の斥候部隊を壊滅させた。

 ――敵兵八人を一撃で仕留め、返り血ひとつ浴びなかった。

 ――名前も階級もない、ただ「白い鬼神」とだけ呼ばれる兵がいる。

 実際の話かは誰もわからない。だが、伝説は真偽よりも速く広がる。

「近づかねぇほうがいいぜ。見ただろ? あの目」

 そう囁く兵たちのなかで、矢野は口を閉ざしたまま、ただその姿を遠巻きに見つめていた。

 ――あいつは、鬼か。

 それとも、まだ人か。

 答えはなかった。

     ※

 初めて言葉を交わしたのは、翌朝だった。

 前線の哨戒任務に選ばれたのは、矢野と、他二名の歩兵、そして“沖田静”。

 簡素な地図と、方位磁石。携帯用の乾餉。

 そのすべてを黙って受け取った沖田は、指揮官の指示が終わると、何も言わずにその場を離れようとした。

「おい、お前も、だろ」

 矢野が声をかけた。

 沖田は立ち止まり、ちらりとこちらを見た。

 目が合った瞬間、矢野は自分の喉が少しだけ鳴るのを感じた。

 深い。

 濁っていない。

 けれど、底がない。

 まるで、誰の死を見ても何も感じなくなった者の目――いや、それともまだ、“何も知らない子ども”の目なのか。

「哨戒班、四人だ。合図くらい共有しろ」

 矢野が短く言うと、沖田はふ、とだけ小さく息を吐いて、うなずいた。

「……了解です」

 その声は、驚くほど静かだった。

     ※

 任務の最中、沖田はほとんど言葉を発しなかった。

 だが、行動は正確だった。

 鳥の羽ばたき、風の向き、草の揺れ、すべてに耳を澄ませ、

 一歩進むごとに足音の角度まで調整する。

 誰よりも早く異変に気づき、誰よりも素早く身を伏せる。

 その動きは、鍛錬の賜物ではない。

 ――生存本能の結晶。

 矢野は、そのすべてを背後から見ていた。

 “鬼神”と恐れられる者の、あまりに慎重で、あまりに孤独な歩き方。

 それを知った瞬間、背筋を、冷たいものが走った。

 この男は、戦っているのではない。

 生き延びているのだ。

 ただ、それだけのために。

     ※

 敵兵との接触は、帰路の途中だった。

 矢野と沖田が先頭、ふたりの兵が後方。

 斜面の影から、五人の斥候が現れた。

 刹那、空気が凍った。

 誰かが叫びかける前に、

 沖田の体が、矢野の前から消えた。

 ――音が、なかった。

 一瞬のうちに、敵兵のひとりが崩れた。

 その背後の男が振り返るより早く、白い刃が走った。

 二、三――

 そのとき、矢野は動かなかった。

 いや、動けなかった。

 初めて見る、あの“噂”の現実だった。

 白装束のなかで、ただひとつだけ濡れていく“剣の軌道”に、目が奪われた。

 音も、叫びもなかった。

 沖田静は、まるで“演奏”でもするかのように、無音のまま、次々と敵を斬っていった。

 残ったひとりが逃げようとしたとき――

「矢野!」

 後方の兵が叫んだ。

 矢野の名。

 その瞬間、残りの斥候がこちらに弓を構えた。

 だが、その矢が放たれる前に、沖田の体が滑り込んだ。

 剣が弦を弾き、矢を断ち切る。

 そのまま、静の背が、矢野の目の前に立った。

 背中があった。

 白く、濡れた布が揺れた。

 風のなかで、まるで“盾”のように、その背が立っていた。

 矢野は、その背中を、初めて見た。

 斬るための背ではなかった。

 護るための背だった。

 ただ、それだけ。

     ※

 戦いは、三分もせずに終わった。

 誰も喋らなかった。

 ただ、倒れた敵兵の懐から転がり落ちた、家族の印の入った小袋を、沖田が黙って拾い、

 それを再び元の場所に戻したのを、矢野は見ていた。

     ※

 帰還後、ふたりは並んで座っていた。

 兵舎の裏手。焼け焦げた木材の影。

 夕暮れの風が通り抜ける。

 沈黙が、ただ在った。

「……お前、名前は」

 矢野がようやく口を開いた。

 沖田は、目を伏せて、小さく答えた。

「静。……沖田静です」

 矢野は、ふっと笑った。

「名前、あるんだな」

 その言葉に、静は眉を動かした。

「まさか……ないと思ってたんですか?」

「うん、ちょっとだけ」

 笑って言う矢野の声に、静は、かすかに笑みを浮かべた。

     ※

 その日以来、ふたりは互いの“背”に立つことが増えた。

 名を呼ぶこともあった。

 会話も交わした。

 だが、心の奥までは、まだ届かない。

 矢野は思っていた。

 ――この男は、誰の命も奪いたくないと思っている。

 けれど、剣は、その手にある。

 それは、優しさのようで、残酷だった。

     ※

 夜。矢野は夢を見た。

 無数の血と、砂のなか、ひとりで立ち尽くす白い鬼神の姿。

 誰も近づけないその背に、自分だけが、呼吸を殺して立っていた。

 その夢が、何を意味しているのかは、まだ知らない。



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