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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第二章:鬼神の出陣

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第十一話「夜明けは、名を呼ばず」

 乾いた空気が張りつめていた。

 夜と朝の境に立つその時刻――人が最も無防備になるはずのその瞬間に、彼らは目を覚まし、甲冑を着け、命を背負った。

 軍旗の赤が、濃い青の空の下で揺れていた。

 まだ陽は昇らない。だが、空は既に明るみかけており、雲の隙間からほのかに光が滲んでいる。

 その光が、白装束の裾に触れるたび、兵士たちは思わず視線を逸らした。

 “あれ”が、また出る――

 誰かの胸の内に過ったその言葉は、口には出されなかった。

 出されなかったが、それは彼の周囲に半径数歩の「無音」を作った。まるで、そこだけ空気が抜け落ちているように、ぽっかりと間があった。

 沖田静。

 名を名乗ったことはない。

 だが、兵たちは知っている。

 この男が「名を持たずに立っている」ということを。

     ※

 前夜のうちに、進軍命令は下っていた。

 敵軍は小高い丘の向こう側、森に近い斜面に布陣しているという。

 見張り塔を持たず、斥候の動きも遅いと判断され、奇襲をかけるには好機だった。

 だが、最前列に立たされる部隊の顔ぶれを見て、兵の間には戸惑いが走った。

 寄せ集めの新兵が多く、装備も万全ではない。

 それでも、この部隊が選ばれたのは、彼がいたからだ。

 “白い鬼神”が先頭に立てば、何十人分の威圧になる。

 そこに合理はあった。

 だが、正しさはなかった。

     ※

「出陣ッ――!」

 短く、鋭く、号令が飛んだ。

 鼓が鳴る。馬が嘶く。

 地を蹴る音が、足並みの乱れと共に広がってゆく。

 そして、その真ん中に、ただひとり立つ白装束。

 剣を構えてもいない。口を開くこともない。

 ただその存在が、他のすべての兵の背筋を正す。

 誰もが、“何も言わぬその者”を見て、自分もまた沈黙のうちに生き延びようと願う。

 命の行方を、祈る代わりに。

     ※

 朝霧が地を這っていた。

 乾いた土と混ざりあうそれは、まるで死者たちの吐息のように、足元から這い上がってくる。

 先陣の兵が踏み込むたび、その霧が裂け、また閉じていく。

 先頭を進む静の背中を、誰も追い越そうとはしなかった。

 前を歩くその姿は、霧に溶けるように曖昧で、どこか現実味がなかった。

 それはまるで――亡霊のようだった。

 と、草むらが揺れた。

 一瞬、誰かが「っ……!」と息を呑んだ気配がある。

 次の瞬間、斜面の上から矢が放たれた。

 一本、二本、三本――斜めに落ちてくるそれらは風を切り、朝の光に細い影を落とした。

 が、静は止まらない。

 矢が一閃、彼の頬を掠めた。

 白い布地に、朱がひとすじ走った。

 それでも彼は、剣を抜かない。

 そのまま、霧のなかへと、消えるように歩いていく。

 後ろにいた若い兵が、硬直したまま呟いた。

「……もう人じゃない」

     ※

 先陣の戦闘が始まったのは、その直後だった。

 斜面の上から、敵兵が一斉に押し寄せる。

 霧を切って、足音が地を打つ。

 剣の音が、叫び声が、ようやく戦場の空に届いた。

 だが。

 誰も見ていなかった。

 “白い鬼神”が、最初に何をしたのか。

 敵が斬られたのか、倒れたのか、消えたのか。

 ただ、事実として残ったのは、

 霧が晴れたとき、そこに五人の敵兵が横たわっていたということだけだった。

 誰も、音を聞いていない。

 誰も、声を聞いていない。

 ただ、“気づいたら、終わっていた”。

 それが、彼に与えられた「恐怖の形」だった。

     ※

 戦が終わったのは、半刻後だった。

 敵軍は退き、丘の上には負傷兵と倒れた者たちが残された。

 風が吹く。日が昇る。

 戦場には、あらゆる音があった。

 泣く声、うめく声、地を叩く音、血を吐く音。

 そして、その中に“何の音もしない場所”があった。

 沖田静が、立っていた。

 剣を収めたその手は、すでに血に濡れ、指の節が赤く染まっている。

 だが、彼の目には、敵も味方も映っていなかった。

 足元に、ひとりの敵兵が倒れていた。

 まだ息がある。胸が微かに上下している。

 その手に、小さく握られた紙切れがあった。

 静は、それを拾った。

 震える指で、開いた。

 ――子どもからの手紙だった。

「とうさま、はやくかえってきてくださいね。ふみをかいてくださいね。おうちにあるいてかえってきてくださいね」

 稚拙な文字。にじんだ墨。

 そのすべてが、“誰かにとっての帰り道”を意味していた。

 だが、その父はもう、帰れない。

 剣を振るったのは、自分だった。

     ※

 その夜、野営地に戻った彼の白装束は、もはや白ではなかった。

 返り血と泥が布地を重くし、肩がゆっくりと下がる。

 彼は剣を置き、手を洗うでもなく、天幕の奥で座り込んだ。

 誰も、彼に声をかけなかった。

 誰も、彼の名前を知らなかった。

 ただ、兵たちは口々に言う。

「……あれが、白い鬼神だ」

「人じゃない」

「もう、何人殺したのかもわからないってさ」

 そう語られるたびに、彼のなかにあった“何か”が、ひとつずつ崩れていく。

 それは、まだ名もつかぬ“問い”の形をしていた。

 ――剣とは、本当に、護るためにあるのか。

 答えは、風の中にあった。


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