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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第二章:鬼神の出陣

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第四話「沈黙の剣、夜の声」

 風が止んだ夜だった。

 月はまだ出ていなかった。

 雲の層は厚く、遠雷が、まるで地の奥底で呻いているように響いていた。

 沖田静は、その夜、ひとりで座っていた。

 兵営裏、薪置き場の側の朽ちた丸太に腰かけて、古い布を膝に敷いている。

 その上にあったのは、刃。

 自らが使う軍刀。

 油を含ませた布で、一本の剣を黙々と磨いていた。

 研いでいるわけではない。

 ただ、拭っている。

 血の跡が残っていないことを、確認している。

 それだけの行為を、静は三十分以上も繰り返していた。

 あたりには誰もいない。

 声をかける者はいない。

 ここ最近、兵営では、静はひとりであることが多くなっていた。

 “異物”への敬遠。

 それが恐れと尊敬を併せ持つものだとわかっていても、

 静の中では、それは「距離」のひとことでまとめられていた。

     ※

 その数日前――

 前線の小競り合いで、静は三度目の出撃を命じられた。

 今度は、四人の兵士とともに移動。

 小隊単位での奇襲掃討任務。

 斥候の情報によれば、森の中に敵の少数部隊が潜んでいるという。

 初めての“共同作戦”。

 だが、隊を共にした三人は、終始、静と目を合わせようとしなかった。

 作戦の確認も、食糧の分配も、すべて彼を除いた三人の間で完結していた。

 誰も直接的な侮蔑の言葉は投げない。

 ただ、剣が近すぎるように、静の存在そのものが“鋭利すぎる”のだ。

 夜が明けて、作戦が開始された。

 森は霧に包まれていた。

 足元の草が濡れている。

 鳥の気配が一切ない。

 ――つまり、何かがいる。

 誰かが息を呑む音がした瞬間、霧の向こうから影が浮かび上がった。

 敵だ。

 四人。

 気配が割れている。

 だが、こちらも同数。

 小隊のリーダー格である年長の兵士が、静の方を見た。

「……一歩も、出るなよ」

 それだけ言って、剣を抜いた。

 まるで、牽制のようだった。

 だが、その言葉通りに、静は動かなかった。

 他の三人が突撃していった。

 敵の動きは速くなかった。

 練度の低さもあった。

 それでも、接戦になった。

 戦いは十数秒の応酬だった。

 一人が負傷し、もう一人が倒れた。

 残る一人も息が乱れていた。

 そのとき、敵の残り二人が反転し、逃走を図った。

 後ろ姿が、霧の奥へと消えかける。

「……沖田!」

 静は、走った。

 命令はなかった。

 合図もなかった。

 ただ、自分が行くべきだと判断した。

 森の中。

 霧の中。

 草を掻き分け、土を蹴り上げて駆けた。

 追いついたのは、敵の背が木に引っかかった瞬間だった。

 斬った。

 反射だった。

 無意識だった。

 刃が肩口から斜めに入り、沈んだ。

 声がなかった。

 ただ、肉が裂ける湿った音だけが、空間に残った。

 振り返ると、もう一人が立ち尽くしていた。

 驚愕していたのではない。

 恐怖していたのでもない。

 ただ、静の方を、見つめていた。

 その視線に、静は足を止めた。

 次の瞬間、敵兵は剣を捨てた。

 ゆっくりと、腰に差していた剣を鞘ごと落とし、両手を上げた。

 降伏だった。

 抵抗の意思はなかった。

 おそらく、仲間の死を見て、自らの限界を悟ったのだ。

 静は、剣を構えたまま立ち尽くした。

 目の前には、ただの人間がいた。

 武器を捨てた敵。

 呼吸の速い、少年のような兵士。

 自分とそう変わらぬ年の――命。

 斬れるか。

 斬らねばならぬか。

 “白い鬼神”という異名は、こういうときに、何を命ずるのか。

 静は、剣を下ろした。

 風が、霧をわずかに揺らした。

 その中で、敵兵は数歩、後ずさった。

 だが、逃げなかった。

 逃げられないことを理解していた。

 そのとき、静の胸に、はっきりとした感情が浮かんだ。

「この人間を、殺したら、何が残る」

 名誉か。

 異名か。

 正義か。

 それとも――

 護るべきものは、どこにある。

 斬らないことが、弱さなのか。

 刃を振るうことが、正義なのか。

 静は剣を収めた。

「降伏を、受け入れます」

 そう呟いたとき、ようやく自分が人間であることを思い出した。

     ※

 帰還後、捕虜を連れたという報告は大きな話題になった。

 静の行動は称賛されなかった。

 敵を殺さなかったことは「判断の危うさ」として記録された。

 だが、彼の周囲では、新たな噂が囁かれはじめた。

「白い鬼神が、命を奪わなかった」

「剣を振るわなかった」

「敵を、見逃したらしい」

 そして、それを聞いた他の兵士の一人が、ぽつりと呟いた。

「……それが一番、こええよ」

 その言葉が、静の心に残った。

 斬らないことが、恐怖を生む。

 沈黙が、戦場を凍らせる。

 剣とは何か。

 正義とは何か。

 そして、沈黙とは何か――


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