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名もなき剣に、雪が降る  作者: 妙原奇天
第二章:鬼神の出陣

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第二話「兵営の影、歩く白」

 軍営には、色がない。

 泥のような茶と、すすけた布の灰。

 鉄器の鈍い黒と、煤煙にまみれた空の鉛。

 濁った水に映る兵の顔は、誰もが同じだった。

 目元には疲労が影を落とし、口元には沈黙がこびりついている。

 そんな場所に、沖田静は現れた。

 白い衣を纏って。

 軍から支給された兵服はあった。

 しかし静は、あえてその下に、あの白い道着を着ていた。

 本人に特別な意図があったかどうかは、誰も知らない。

 だが、それはすぐに兵たちの目に留まった。

「……あいつか」

「白装束の、斬ったやつ……」

「鬼神の“噂”って、まさかあの餓鬼?」

 新兵の中で、彼だけが異質だった。

 名もなきまま戦果を挙げ、斥候部隊を一夜で壊滅させた少年。

 まだ十六にも満たぬ細身の体に、血の記憶だけを纏っていた。

 その背に噂が張りつき、名よりも先に“存在”として歩き出していた。

     ※

 静は、何も言わなかった。

 話しかけられても、聞き返すことはあっても、余計な言葉を足すことはなかった。

 朝、誰よりも早く起きて、ひとりで兵営の外に出る。

 木刀がない代わりに、兵器庫の訓練剣を借りて、素振りを続ける。

 その姿が、奇妙なほど滑らかだった。

 刃の重さを知っている者の振り方ではない。

 けれど、それ以上に“正確”だった。

 動きに感情がない。

 動きにためらいがない。

 まるで誰かの動きをなぞるように、静は“思い出すように”剣を振っていた。

 そして、誰よりも早く帰営し、誰とも目を合わせず、黙って整備に入る。

 “沈黙”が、彼の居場所だった。

     ※

 小隊の副官である杉浦という男が、ある日ぽつりと洩らした。

「……おまえ、どこで剣を覚えた?」

 静は、戸口の影から顔を上げた。

「道場で。名前のない村で、拾っていただきました」

「拾われた?」

「はい。生まれた場所はわかりません。名もなかったので」

 杉浦はそれ以上、深く聞かなかった。

 軍では、“過去を語らぬ者”は珍しくない。

 だが、それにしても、沖田静の剣は“軍の型”から逸脱していた。

 それは流派の問題ではない。

 構えや間合い以前の、“動きの深さ”だった。

 よく見れば、静の足運びは“撃つ”ではなく“躱す”に近い。

 攻撃と見せて、同時に逃げ道を確保している。

 殺すことと、生き残ることの両立を、最初から身体が知っている。

 杉浦は、その異常なまでの“戦場性”に、背筋が冷えた。

 この少年は――

「誰かを殺してきたんじゃない。“何度も死んだ”ような目をしている」

     ※

 それでも軍という組織は、名のない者を放ってはおかない。

 静には、役目が与えられた。

 “単独斥候”

 あるいは、“先遣の剣”

 小隊の進軍前に、単身で前線へ出され、敵の動きを探る。

 必要とあれば斬る。

 それは本来、年季の入った兵が担うはずの役割だった。

 だが、“音もなく斬れる”少年がそこにいたという理由だけで、彼は選ばれた。

 拒否権はなかった。

 拒まなかった。

 静はただ、うなずいた。

 彼が“斬れる”ということは、すでに軍の間で共有された“常識”だった。

     ※

 その日の任務は、小さな丘を越えた森のはずれにある敵前哨を確認することだった。

 静は、剣を一本、背に挿した。

 草履の紐を締め、白い裾を兵衣の中へたたみ、襟元だけをあえて残した。

「……迷彩の意味がねぇな」と、誰かがつぶやいた。

 けれど、誰もその白を脱がせることはできなかった。

 兵の間には、薄く言い伝えができつつあった。

 ――白を着て戻ってきた者は、“死神”に好かれている。

 ――白い布が、死者の血を隠すのだ。

 ――あの少年に関わるな。あれは“人ではない”。

 静は気にしていなかった。

 ただ、言葉にできぬ空気だけが、自分の背に張りついているのを感じていた。

     ※

 任務は成功した。

 敵の動きを読む前に、一人の斥候兵を斬った。

 声を上げられる前だった。血はほとんど出なかった。

 その夜、兵営では“剣が通った痕が見えなかった”という噂が立った。

「目に映らないくらい、早かったってことか?」

「いや、もう斬ったあとだったんだ」

「でも、血は出てないんだろ?」

「もしかしたら、本当に幽霊じゃないかって……」

 誰も確かめようとしなかった。

 静がその話に加わることもなかった。

 ただ、火を見ていた。

 焚き火の前で、ゆらゆらと動く影を、何かのように見つめていた。

 それは――まるで、炎のなかに“自分”がいるかどうか、確かめるような目だった。

     ※

 夜の帳が下りてから、静はひとり、野営の外に出た。

 月はなかった。

 星だけが、遠くから無数の問いを投げかけてくるようだった。

 剣を抜いた。

 月光のない闇のなかでも、剣の刃先は音を立てずに空気を裂いた。

 一太刀、二太刀、三太刀。

 何も考えずに振っていた。

 振ることだけが、考えることだった。

 すると――ふと、胸の奥に響く音があった。

 刃と刃がぶつかる音。

 骨を断つ音。

 何かが裂ける音。

 知らない誰かの、叫び。

 静は、息を止めた。

 風が止まった。

 木々が沈黙し、星の問いだけが、夜空に滲んだ。

「……僕は、護れたのか」

 その問いに、誰も答えなかった。

 だが、彼の剣先だけが、まだ震えていた。


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