第4章 閉ざされた裂け目
喉の奥が熱く、鼓動が早まる。息が荒い。
――こんな感覚、忘れていたはずなのに。
「……マナ」
横を歩くレイナが、わずかに眉をひそめる。
「顔色が悪い。何かあった?」
「なんでも……ないわ。ちょっと疲れただけ」
強がって答えるが、内心では分かっていた。これは疲労ではない。
吸血衝動。かつて自分を支配していた忌まわしい本能。
この世界の大気が、眠っていた力を呼び覚ましつつあるのだ。
そんなマナに、魔女が懐から小瓶を取り出し、赤いキャンディを差し出した。
「これを舐めなさい。心が落ち着くはずだから」
「……飴?」
「そう。あなたに必要なもの」
差し出された小さな球体を見つめ、マナは無意識に手を伸ばしかけた。
だが、その指先をレイナの手が強く止める。
「待って」
「え?」
レイナは魔女を一瞥し、すぐにマナへ視線を戻す。
「その成分、普通じゃない。摂取しない方がいい」
「えー……これがあれば、楽になるかも……」
「えー、じゃない」
レイナの声音は珍しく強い。
その真剣な眼差しに、マナは言葉を詰まらせる。
しばし沈黙ののち、気恥ずかしそうに頬をかきながら笑った。
「……わかった。わかったわよ。そこまで言われちゃねぇ」
キャンディを受け取るのをやめ、ポケットにしまい込む。
レイナはわずかに頷くだけで、それ以上何も言わなかった。
しかしその横顔には、決して揺らがぬ意志が刻まれていた。
***
森を抜け、二人は最初に足を踏み入れたあの場所に戻ってきた。
大地に刻まれた焦げ跡、木々が斜めに裂けたような痕跡。そこは確かに〈次元の裂け目〉が口を開けていた場所だった。しかし――。
「……ない」
マナが息を呑んだ。
裂け目は、跡形もなく閉じていた。ただ不自然に黒ずんだ地面だけが、異変が本当にあったことを示している。
「これじゃ、帰れない……?」
声にかすかな震えが混じる。
レイナは地面に膝をつき、手袋越しに触れてみる。冷たく乾いているだけで、もう何の力も感じられなかった。
「閉じられた、か。時間の経過か、あるいは意図的に……」
二人が立ち尽くしていると、背後から杖の音が響いた。
枯れ木を叩くような乾いた音――そして、低い笑い声。
「裂け目を探しに戻るとは、随分と用心深い子たちだね」
現れたのは黒衣の魔女だった。影のような裾を曳きながら、彼女は二人の傍に歩み寄ってくる。
「あなた、知っているんでしょ。どうすれば帰れるの?」
マナが一歩詰め寄る。
魔女は薄く笑ったまま顎に指を当てた。
「門を開く術を探すなら――王に会うことだね。あの方ならば、世界と世界を繋ぐ方法を知っているかもしれない」
「王?」
レイナが眉をひそめる。
「そう、この国を統べる者。王都に住まう方こそが、裂け目に触れた人間。記録を残し、秘儀を継いでいる……少なくともそう囁かれているよ」
マナは思わず息を呑んだ。
「じゃあ、王都に行けば……帰る手掛かりが掴めるってことね」
「ただし、王は簡単には会えない。城壁の中に入るにも、試練を越える必要があるだろう。ふふ……それでも望むのなら、行くといいさ」
魔女の目がわずかに細められる。だがその笑みには、言葉以上の含みがあった。
レイナはマナを振り返り、短く言った。
「……行くしかないわね」
マナは拳を握りしめ、頷いた。
「うん。帰るために」
閉ざされた裂け目を後にして、二人は王都を目指して歩き出す。
背後で魔女の笑い声が、木々の間にいつまでも残響していた。
マナの体の奥底で、かつて封じられたはずの「衝動」がわずかに息を吹き返していたのだ。この世界の濃密な大気は、彼女の身体に染み付いた吸血鬼性を呼び覚ましつつある。
「……また、胸の奥がざわつくわね。喉も乾いてきちゃった」
マナは足を止め、息を整えながら胸元を押さえた。
「やっぱり」
レイナは懐から小さな布袋を取り出す。その中には、先ほどの赤いの飴玉が転がっていた。
「魔女から渡されたもの。衝動を抑えるのに使えると言っていた」
「……お菓子?こういうときに飴って、ちょっと拍子抜けね」
マナは冗談めかして笑ったが、レイナは表情を変えずに言葉を続けた。
「マナ、これは食べない方がいい」
「えっ?でも、衝動を抑えられるって……」
「逆よ。あの人の目的は真祖の復活。あなたをその器にするつもり。これは衝動を抑えるどころか、むしろ活性化させる道具に近いと思う」
レイナの声には珍しく強い調子があった。
マナは目を丸くしたまま、飴を握りしめた手を胸の前で止める。
「……どうして、そう思うの?」
「理由は直感。でも、私はこの世界の理屈が危険すぎると感じてる。魔女の言葉を鵜呑みにするのは危険。今まで通り――近接戦闘で戦うべき」
はっきりした言葉に、マナは口を尖らせる。
「えー……せっかく魔法を習ったのに、もったいないじゃない」
「えー、じゃない。ここは明らかに異質な世界。帰れなくなるかもしれない」
レイナは一歩近づき、まっすぐにマナの瞳を見つめた。
「……マナ。私はあなたとこれからも一緒にいたい。だから危険は避けるべき」
その言葉に、マナは頬を赤らめながら視線を逸らした。
「……わかったわよ。そこまで言われちゃねぇ。飴も食べないし、魔法も封印してあげる」
「それでいい」
レイナは淡白に答えるが、ほんのわずかに表情が柔らいだ。
二人は再び歩き出す。遠くに見える王都の城壁は、確かに彼女たちを待っている。
しかしその先に待つものが、救いか、さらなる罠か――まだ誰にもわからなかった。




