第1章 影を背負う者と造られた者
――この世界には、常識では説明のつかない“異常”が存在する。
街角に現れる、誰にも認識されないまま人を喰らう影。
あるいは、一夜にして廃墟へと変貌する学校。
人の理を超え、災害のように現れ、そして人を巻き込んでいく存在。
それらはまとめて「オブジェクト」と呼ばれている。
当然、放置すれば文明は簡単に崩壊する。
だから――人知れず、そうしたものを封じ込める組織がある。
「第零研究機構」。
その名を公に知る者はほとんどいない。記録上は“存在しない”機関。
政府にも半ば隠され、各国から密かに出資され、ただひとつの使命を背負う。
――異常存在を調査し、収容し、人類の延命を図ること。
***
灰色の壁が続く地下フロア。蛍光灯の無機質な光が、閉ざされた空間を照らしていた。
収容部隊の待機室。その椅子に、ひとりの少女が背を預けている。
黒羽マナ。
短いネイビーブラックの髪に、鋭い眼差し。
かつて“半吸血鬼”と呼ばれた存在だが、今はただの人間に戻っていた。
――戻った、はずだった。
だが夜ごと、夢に見る。
血の匂い、灼けつくような渇き、背後にまとわりつく影のざわめき。
もう存在しないはずの力が、どこかで息を潜めている気がしてならない。
その恐怖と共に、彼女は今日も任務に向かう。
「で、今回の仕事は?」
退屈そうに天井をにらむマナに、すぐ隣の少女が無表情で答えを返す。
「異常空間の調査とサンプル回収。……だそうだ」
チャコールグレーの髪を揺らし、灰銀の瞳で端末を読み上げるのは空科レイナ――人造人間。
未来で生み出され、時空を越えてこの時代へと送られた“兵器”だ。
感情らしいものは薄いが、観察するように人間を見つめるその仕草には、どこか理解を求めるような気配がある。
「お前、司令でもないのに先に言うなよ」
「どうせ、すぐナギサが同じことを言う」
――このやりとりは、もう何百回目になるだろう。
長年連れ添った相棒だからこそ、息の合ったやり取りは自然に繰り返される。
マナが毒を吐けば、レイナは受け止め、必要なら補足する。
感情を見せないくせに、妙に気が利く。
だからこそ、マナはこの無表情な人造人間と組むのが一番楽なのだ。
司令官――城戸ナギサ。モカブラウンのセミロングを後ろでまとめ、眼鏡越しに資料を見つめる姿は知的で冷徹。
「こほん。市街地近郊で“次元の裂け目”が確認された。放置すれば拡大し、半径二キロ圏が消失しかねない。原因の特定と、拡大抑止が目的だ」
「また異界潜入か……好きだねぇ、うちの上は」
マナは小さく舌打ちする。
「私は構わない」
レイナが、感情のこもらない声で答えた。
「私の存在理由は、異常存在への対処。それが果たされるなら」
「便利な作りだこと」
マナは肩をすくめる。
長年連れ添った相棒だ。戦場で幾度となく背中を預ける相手。
◆
ナギサは二人を見回し、短く告げる。
「ゲートの安定化処理は完了している。転送班が待機中だ。五分後に出発」
マナは立ち上がり、支給された黒い戦闘装備を身につける。
マナは装備を身につけるとき、胸ポケットに視線を落とす。そこには銀色の錠剤――B-タブレットが数粒。
かつてはこれで吸血鬼としての力を呼び覚ますことができた。だが今では、何の効果もない。
残るのは、服用による身体の負担と副作用だけ。
それでも、渡される以上は持っていかざるを得ない。
「……ま、飾りにはなるか」
小さく吐き捨て、ベルトを締めた。
レイナも同じく装備を確認し、端末を腕に装着する。その動作は機械的で無駄がない。
「二人とも」
ナギサが声をかける。
「任務はあくまで“調査”だ。不要な戦闘は避けろ。帰還を最優先としなさい」
マナは冷ややかに笑った。
「了解。……ま、言うだけならタダだしね」
レイナは無言で頷く。
こうして、元吸血鬼と人造人間。
ふたりの異世界探索は、静かに幕を開けた。