外交という名の技術指導
さくらの名声は国境を越え、同じく地震に悩む隣国から技術指導の依頼が舞い込む。ユリウスはこれを好機と捉え、さくらを「未来の王妃候補」として外交の場に同席させる。戸惑うさくらだったが、彼女の持つ圧倒的な知識は、政治的な駆け引きを越え、両国の間に新たな信頼の橋を架けていく。この旅を通じて、ユリウスとさくらの個人的な関係も、大きな転機を迎える。
さくらが主導した、鉱山都市アイゼンブルクの再生と、王都の上下水道計画。この二大プロジェクトの成功は、アストライア王国に、空前の好景気と技術革新をもたらした。民衆の生活は豊かになり、国の力は増大した。その中心には、常に「王宮建築士」であるさくらの姿があった。彼女の名声は、今や王国中に轟き、吟遊詩人たちは、彼女の功績を「異邦の女神の御業」として、英雄譚のように歌い上げていた。
その噂は、やがて国境の山脈を越え、東の隣国「フェルゼン公国」の公爵の耳にも届くこととなった。
フェルゼン公国は、険しい山々に囲まれた小国だが、国民は実直で、優れた工芸技術を持つことで知られていた。しかし、彼らもまた、アストライア王国と同様、周期的に発生する大地震に、長年苦しめられてきた国だった。
ある日、アストライア王国の王城に、フェルゼン公国からの正式な使者が訪れた。彼らがもたらしたのは、一通の親書。そこには、アストライア王国で進められているという、革新的な「耐震技術」への強い関心と、ぜひともその技術を指導してもらいたい、という、切実な願いが綴られていた。
「これは、好機やもしれぬな」
親書を読んだユリウスは、宰相や大臣たちを前にして、静かに呟いた。
これまで、アストライア王国とフェルゼン公国は、可もなく不可もなくといった、ごく平凡な隣国関係にあった。しかし、この技術指導をきっかけに、より強固な同盟関係を築くことができるかもしれない。それは、来るべき「大地の鼓動」…地脈竜の目覚めという、国家存亡の危機を乗り越える上で、極めて重要な意味を持つはずだった。
「さくらを、我が国の使節団の代表として、フェルゼンへ派遣する。そして、彼女の持つ知識を、惜しみなく彼らに提供するのだ」
ユリウスの提案に、しかし、保守派の貴族たちが待ったをかけた。
「陛下、お待ちください!耐震技術は、今や我が国の国防にも関わる、最重要機密です。それを、やすやすと他国に渡すなど、とんでもない!」
オルデン大公が、苦々しい顔で反対の意を示す。
「技術を独占すれば、いずれ軋轢を生む。だが、共有すれば、信頼が生まれる。どちらが、国の未来にとって有益か、考えるまでもないだろう」
ユリウスは、きっぱりと答えた。そして、彼は、さらに爆弾のような発言を付け加えた。
「そして、今回の使節団には、余も同行する。そして、さくらを、我が国の『未来の王妃候補』として、フェルゼン公国に紹介するつもりだ」
その言葉に、議場は水を打ったように静まり返った。
さくら自身も、その決定を後から聞き、耳を疑った。
「きょ、きょ、王妃候補!?陛下、それは一体どういう…!」
設計室で、さくらは顔を真っ赤にしてユリウスに詰め寄った。
「君の功績と、我が国における君の重要性を、国内外に明確に示すための、政治的な方便だ。もちろん、君が嫌だというのなら、無理強いはしないが…」
ユリウスは、そう言いながらも、その瞳の奥には、それがただの「方便」ではない、真摯な想いが宿っているのを、さくらは感じ取っていた。
さくらは、混乱した。ユリウスに惹かれているのは、事実だ。だが、自分が、一国の王妃になるなど、考えたこともなかった。
「…ですが、私には、建築士としての仕事が…」
「王妃になることが、君の仕事を妨げることにはならない。むしろ、君が王妃となれば、君の計画は、より大きな力を持って、この国を動かしていくだろう。余は、その隣で、君を支えたい。…これは、王としてではなく、一人の男としての、偽らざる想いだ」
真剣な眼差しで告げられ、さくらは、もはや何も言えなくなった。
こうして、さくらは、ユリウスと共に、そして「未来の王妃候補」という、とんでもない肩書を背負って、フェルゼン公国へと向かうことになったのだ。
フェルゼン公国は、アストライア王国とはまた違う、素朴で、しかし力強い美しさを持つ国だった。急峻な山肌に、へばりつくようにして作られた街並みは、彼らの持つ、高い石工技術の賜物だろう。
一行は、老公爵自らの出迎えを受け、手厚い歓待を受けた。
そして、早速、技術指導という名の「外交交渉」が始まった。
フェルゼン側の建築家や職人たちを前に、さくらは、自分がアストライアで実践してきた、耐震建築の理論と技術を、図面や模型を使って、丁寧に説明していく。
「地震の力は、垂直方向よりも、水平方向の揺れが、建物を破壊する主な原因です。この水平方向の力、剪断力を、いかにして逃がし、吸収するかが、重要になります」
筋交い、トラス構造、免震基礎。彼女の口から語られる、革新的な理論に、フェルゼンの職人たちは、初めこそ半信半疑だったが、その圧倒的な知識と、模型を使った実験による、視覚的な証明を前に、次第にその表情を驚嘆と尊敬の色へと変えていった。
「なんと…!揺れの力を、斜めの材で受け流すだと…?」
「基礎と建物を切り離すなど、考えたこともなかった…」
彼女の知識は、国境や政治的な駆け引きを、いとも簡単に飛び越えて、同じ「ものづくり」に携わる者たちの心を、直接、結びつけていった。
さくらは、ただ技術を教えるだけではなかった。
「この国の建物は、素晴らしい石材をふんだんに使っていますね。ですが、その重さが、地震の際には、逆に大きな破壊のエネルギーとなってしまいます。建材を、もっと軽く、しなやかなものに変えていくことも、今後の課題です」
彼女は、フェルゼンの風土や文化、そして技術レベルを尊重しながら、彼らにとって、最も現実的で、効果的な方法を提案していった。その姿勢は、フェルゼンの人々に、深い感銘を与えた。
この異邦の女性は、自分たちの国を、心から想い、その未来のために、知識を授けてくれようとしている。その真摯な想いが、彼らには伝わったのだ。
夜、歓迎の晩餐会が開かれた。
フェルゼンの老公爵は、ユリウスの隣に座るさくらに、深く頭を下げた。
「…さくら殿。いや、未来のアストライア王妃陛下。貴殿の持つ知識は、我が国にとって、まさに女神の啓示に等しい。このご恩は、決して忘れませぬ。我がフェルゼン公国は、アストライア王国と、未来永劫、揺るぎない友好関係を結ぶことを、ここにお約束いたします」
それは、外交交渉における、完全な勝利宣言だった。さくらは、たった一人で、その圧倒的な専門知識と人間力によって、両国の間に、かつてないほど強固な信頼の橋を架けてしまったのだ。
晩餐会が終わり、月の美しい夜。
城のバルコニーで、さくらは一人、眼下に広がる街の灯りを眺めていた。
「見事だったな、さくら」
後ろから、優しい声がした。ユリウスだった。
「私など…、ただ、自分の知っていることを、お話しただけです」
「その『知っていること』が、国を動かすのだ。君は、すごい力を持っている」
ユリウスは、さくらの隣に立つと、彼女の肩を、そっと抱き寄せた。
「…さくら。先日の、王妃の話だが…。あれは、やはり、ただの方便ではない。余は、本気で、君を…」
彼の真剣な言葉に、さくらの心臓が、大きく高鳴った。
しかし、彼女は、その言葉を、遮るように、彼の胸に顔をうずめた。
「…まだ、その答えは、出せません」
彼女の声は、震えていた。
「私には、まだ、やらなければならないことがあります。地脈竜の謎を解き、この国を、来るべき大災害から、守らなければなりません。それが終わるまでは、私は、ただの『建築士』でいさせてください」
それは、彼女なりの、誠実な答えだった。王妃という立場に甘えるのではなく、まず、自分の成すべきことを成し遂げたい。その強い意志の表れだった。
ユリウスは、そんな彼女の覚悟を理解し、優しく、しかし力強く、彼女を抱きしめた。
「…わかった。君らしい答えだ。ならば、余は、君がその使命を果たせるよう、全力で君を守ろう。王として、そして、一人の男として」
月の光が、静かに、寄り添う二人を照らし出していた。
この旅を通じて、二人の心は、確かに結ばれた。それは、まだ恋人とも夫婦とも違う、もっと深く、そして尊い、共に未来を創る「パートナー」としての、揺るぎない絆だった。
彼らの前には、まだ、地脈竜という、途方もない試練が待ち受けている。
だが、今の二人には、どんな困難も、共に乗り越えていけるという、確信があった。