鉱山の街と新たな知識
さくらの奇策により、貴族街から始まった上下水道計画は、反対派の妨害を乗り越え、着実に進んでいた。しかし、より強固な水道管や建築物を作るため、さくらは新たな素材「鉄」の必要性を痛感する。国王ユリウスと共に、王国唯一の鉄鉱山がある北の街「アイゼンブルク」へ視察に赴いた彼女は、そこで新たな問題に直面する。ずさんな採掘による、大規模な地盤沈下と落盤事故の危機。さくらは、建築士としての知識を応用し、トンネルの構造力学に基づいた安全な採掘法と補強工事を指導する。
さくらの発案した「貴族街から水道を敷設する」という奇策は、面白いほど効果を上げた。初めは計画を嘲笑っていた貴族たちも、ひとたび自分の屋敷の蛇口から、いつでも清浄な水が流れ出すという快適さを知ってしまうと、もはや手放すことができなくなった。上下水道は、あっという間に「文明的な暮らしの象徴」となり、我も我もと、自領への敷設を求める声が上がるようになったのだ。
反対派の筆頭であったオルデン大公も、この大きな流れには逆らえず、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙を守るしかなかった。さくらの計画は、最大の障壁を乗り越え、今や王国全土へと広がる、一大事業へと発展しつつあった。
しかし、さくらは、新たな課題に直面していた。
「…やはり、陶器の土管では限界があります。水圧に耐えきれず、破損するケースが出てきました。もっと大規模な水道網を築くには、より強固で、耐久性の高い素材が必要です」
設計室で、さくらはユリウスを前にして言った。彼女の指差す図面には、現代では当たり前に使われている「鉄管」が描かれていた。
「鉄…ですか。確かに、武具や農具には使われていますが、これほど大量の鉄を精錬し、管の形に加工するのは、今のこの国の技術では…」
ユリウスが、難色を示す。この世界において、鉄はまだ希少な金属だった。その精錬技術も未熟で、大量生産は難しい。
「技術は、必要に迫られれば進化するものです。それに、鉄は水道管だけでなく、今後の建築においても、柱の芯として使うなど、応用範囲は無限大です。鉄を制する国が、未来を制すると言っても過言ではありません」
さくらの言葉には、産業革命の歴史を知る者としての、絶対的な確信があった。
彼女の熱意に押され、ユリウスは決断した。
「…わかった。一度、王国唯一の鉄鉱山がある、北の街アイゼンブルクへ行ってみよう。現状を、我々自身の目で確かめる必要がある」
こうして、さくらはユリウスと共に、数名の護衛を連れて、王都から馬車で数日かかる山間の街、アイゼンブルクへと視察に赴くことになった。表向きは、国王の地方視察。しかし、その実態は、国の未来を左右する、重要な産業視察だった。
アイゼンブルクの街は、活気があった。だが、それは王都の華やかな活気とは違う、もっと荒々しく、煤けた活気だった。街全体が、鉱山から出る鉄鉱石の赤い粉塵で、うっすらと赤茶色に染まっている。道行く人々は、屈強な体つきの鉱夫ばかりだ。
街を治める代官に案内され、二人は早速、鉄鉱山へと足を踏み入れた。
鉱山の内部は、無数の坑道が、蟻の巣のように張り巡らされていた。つるはしで岩を砕く甲高い音、鉱石を運ぶトロッコの軋む音、そして鉱夫たちの怒鳴り声が、薄暗い坑道に響き渡っている。
しかし、建築士であるさくらの目は、すぐにこの鉱山の持つ、致命的な「欠陥」を見抜いていた。
「…ひどい…。これは、いつ崩れてもおかしくない…」
彼女が呟いた通り、坑道は、何の計算もなく、ただ手当たり次第に掘り進められているようだった。天井を支える支保工と呼ばれる支えの木材は、あまりに貧弱で、間隔もまばら。重要な岩盤の層を無視して掘られた坑道は、まるでチーズのようにスカスカになっており、地盤そのものの強度を著しく低下させていた。
「代官、この鉱山では、落盤事故は起きていないのか?」
ユリウスが、厳しい声で問う。
代官は、額の汗を拭いながら、おどおどと答えた。
「は、はい…。いえ、その…、小さなものは、日常茶飯事でして…。数ヶ月に一度は、大規模なものが…」
つまり、多くの鉱夫たちが、事故で命を落としているということだ。しかし、この街では、それが「仕方ないこと」として、見過ごされてきたのだ。利益優先のずさんな管理が、常態化してしまっている。
その時だった。
「危ない!」
さくらが、鋭い声を上げた。彼女は、ユリウスの腕を掴むと、力任せに後ろへと引き倒す。
直後、彼らが立っていた場所のすぐそばの天井から、ガラガラと音を立てて、大量の岩石が崩れ落ちてきた。
「きゃあ!」
「陛下!」
護衛の騎士たちが、慌てて二人を庇う。もし、さくらの警告がなければ、ユリウスは今頃、岩石の下敷きになっていただろう。
「…大丈夫か、さくら」
「は、はい…。それより陛下、お怪我は…」
粉塵の中から立ち上がった二人は、互いの無事を確認して安堵の息をついた。ユリウスは、自分の命を救ってくれたさくらを、そして、この危険な現状を、改めて厳しい目で見つめた。
「もういい、代官。これ以上、この危険な場所にはいられない。すぐに、全ての鉱夫たちに退避命令を出せ。追って沙汰を言い渡す」
ユリウスの厳命を受け、鉱山は一時的に閉鎖されることになった。
宿舎に戻ったさくらは、ユリウスに断言した。
「陛下、このままでは、この鉱山、いえ、アイゼンブルクの街そのものが、大規模な地盤沈下で崩壊する可能性があります。鉄の増産どころではありません。まずは、この鉱山を『安全』な場所に作り変える必要があります」
「だが、どうやって?鉱山の専門家など、この国には…」
「専門家なら、ここにいます」
さくらは、自分自身を指差した。
「建築と、トンネル工事の技術は、表裏一体です。建物を支えるのも、地下の空間を支えるのも、働く『力』の原理は同じ。『構造力学』です」
さくらは、またしても羊皮紙の上に、設計図を描き始めた。
「まず、地質調査を行い、硬い岩盤の層がどこにあるのかを正確に把握します。そして、坑道を掘る際には、必ずアーチ状の天井にします。アーチ構造は、上からの圧力を、左右の壁へと効率よく分散させることができる、最も安定した形です」
さらに、彼女は支保工の新しい形を提案した。
「支えの木材も、ただ垂直に立てるだけでは不十分です。三角形を組み合わせた『トラス構造』を用いることで、強度を飛躍的に高めることができます。そして、重要なのは、掘った部分を、コンクリートやモルタルで固め、岩盤と一体化させることです」
彼女の口から語られるのは、鉱山の常識を覆す、建築工学に基づいた、革命的な採掘理論だった。それは、鉱夫たちの安全を確保するだけでなく、より効率的で、持続可能な採掘を可能にするものだった。
翌日、さくらの提案は、ユリウスの絶対的な命令として、鉱山の全ての鉱夫たちに伝えられた。
当然、彼らは反発した。
「建築士の小娘に、何がわかる!」
「そんな面倒なやり方、やってられるか!」
しかし、さくらは、今度は揺るがなかった。彼女の隣には、王がいる。そして、彼女の言葉には、前日の落盤事故という、誰もが否定できない「説得力」があった。
さくらは、ガストンたちを王都から呼び寄せ、彼らにモデルとなるトラス構造の支保工を作らせた。そして、自らヘルメットを被り、鉱夫たちと共に坑道へと入っていく。
「ここの岩盤は脆いから、もっと浅く掘って!」「その支えの間隔は、広すぎる!基本は一メートルよ!」
泥と汗にまみれながら、専門用語を交えて的確な指示を出す彼女の姿に、初めは半信半疑だった鉱夫たちも、次第にその知識とリーダーシップを認めざるを得なくなっていった。何より、彼女の工法を取り入れた坑道は、明らかに以前より安全で、作業がしやすかったのだ。
さくらは、鉱山の再生という、新たな、そして巨大なプロジェクトを、またしても始めていた。
それは、一人の建築士の知識が、建物を超え、都市インフラを超え、ついに、この国の「産業」そのものを、根底から変革させようとしている、歴史的な瞬間だった。
ユリウスは、そんな彼女の姿を、頼もしさと、そして一人の男性としての強い魅力をもって、見つめていた。この異世界から来た女性は、一体どこまで、この国を変えていくのだろうか。その期待は、日ごとに大きくなるばかりだった。